matt3/1-12

説教 マタイによる福音書3章1-12節
「道を備える」

復活節の喜びと共に、今日も、主を賛美、礼拝することができること感謝いたします。
今日はマタイ福音書を読んでいただきましたが、4月から、この一年間、この福音書によってみ言葉を聞きたいと願っております。
主日礼拝も、親子礼拝も、マタイ福音書を取り上げる予定です。
御言葉が私たちのうちに開らかれますように、聖霊の祝福を祈り求めて、ご一緒に、御言葉に聞きたいと思います。

マタイによる福音書は主イエスのご降誕の物語に続いて、洗礼者ヨハネの伝道について書き記しています。
旧約聖書イザヤ書の言葉のように、ヨハネは、荒れ野にあらわれて、主の道を備えました。
今日は、ここに記されていることの中から、いくつかのことに心を留めたいと思います。
まず、旧約聖書のイザヤ書の言葉をもって、ヨハネのことが紹介されています。
3節です。
「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」。

荒れ野、それは、聖書では神の民が生み出される場所です。かつて、エジプトを出発したイスラエルの人々がシナイ半島、荒れ野を辿って約束の地へと向かいました。
その途中の、シナイ山では、十戒を与えられて、神さまの約束のもとに結ばれます。荒れ野で、神の民が形造られ、信仰が培(つちか)われたのであります。
聖書の人々が、その信仰に立ち帰る、立ち帰ろうとするときに、記憶されるのが荒れ野でありました。
その荒れ野で叫ぶ声、それがヨハネでした。

ヨハネが為したことは人々に洗礼を授けることでした。その洗礼というのは、悔い改めのしるしであり、罪の赦しを取り次ぐものでした。
人々は、悔い改めのためにヨハネのもとに来ました。悔い改めとは、神に帰るということです。神の国のおとずれ、その足音を聞く、そして、まことの神のもとに帰る、ということです。

その時、ヨハネは、このようにも語りました。7節です。
「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

「まむしの子らよ」とは激しい言葉です。まむしは毒をもった蛇です。
蛇蝎(だかつ)のごとく、と言う言い方もありますが、忌み嫌われてもいます。
その蝮のような人間に、神の怒りが下る。
「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」そう語ったというのです。
燃えさかり、燃え広がる炎の前で、走り回る蝮のように、神の怒りが差し迫っている、というのです。

この言葉は、ふしだらで、どうしようもない人たち、あるいは、いかにも悪人だと思われる人々に向かって語られたのではありません。
荒れ野のヨハネのもとに、わざわざ、悔い改めのバプテスマを受けるために、やってきた人々に向かって語られました。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」
これは、人々の心に、鋭く突き刺さる言葉ではなかったかと思います。
それは、聖書の民が心の底に持っている誇りに触れているからであります。
人は誰でも、心の底に誇りを持っています。自分を支えているものです。それがどれほどの重みがあるか、実に頼りないものですが、しかし、そうは思っていない。頼りになるし、頼みとし、誇りとしています。
もしも、誰かがその心の聖所に、土足で踏み込んできたら、憤りを覚えることでしょう。
ヨハネの言葉は、その憤りを、あえて呼び起こす言葉です。

何を言われてもいい、ただこのことにだけはふれてほしくないという、自尊心の急所につかみかかる、言葉です。

そこにいた人々にとって「我々の父はアブラハムだ」ということが、自分たちの拠り所であったからです。
そこから優越感も出てくる。
どんな民族的苦難にも耐える事が出来た唯一の拠り所でもありました。神の祝福を受ける根拠でありました。
神さまがアブラハムとその子孫に祝福を約束したことを根拠にしていたからこそ、彼らは困難な歴史を生き抜いて来ました。
その心の急所にむかって、「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな、と言ったのです。

「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。
とどめを刺す言葉です。しかも語呂合わせ、皮肉を込めた言葉です。石はヘブル語で(えべん)です。子どもは(べん)です。神はエベンからベンを造り出すお方である。
荒野に転がっているゴツゴツとした堅い石、何の益もない、ただ荒れ果てた荒野を飾っているだけの石、その石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
遠慮会釈無く、ヨハネは、攻撃を加えています。

そして、なお言葉を重ねます。
「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
徹底して、人が、神の怒りに直面していること、その神の怒りから逃れられると思う、一切の幻想を打ち破ります。
人が、最後の砦としている、誇り。それを粉砕します。

これが、キリストの道ぞなえをしたヨハネの言葉です。この言葉をもって、キリストへと私たちを導くのであります。
この聖書の箇所は、教会の歴史の中で、長い間、待降節の季節に、読まれてきました。悔い改めをもって救い主の誕生、その祝いを待つ日々の中で、読まれました。

人は皆、罪人であります。
私たちはそのことを、十分に分かっているか。どれほどのことを弁えているか、心もとないところがあります。
私たち、主の赦し無くしては、歩み続けることができません。また、神さまの御前に立つことはできません。
その罪人のために、神さまは御子イエス・キリストを私たちにお与えくださり、その御苦しみと十字架をとうして、赦しを備えてくださいました。
そして、御子の霊である聖霊によって、その救いを受け入れる信仰を与えてくださいました。それで、私たちは喜ばしく、神さまを讃美し、その恵みのうちを歩むことがでます。
罪人が恵みへと招かれたのであります。

「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

ヨハネは、自分は僕にも値しないと言って、後から来られる方、主イエス・キリストを指し示しています。
自らも「蝮の子ら」なのだ、というのでありましょう。

ヨハネは、さらに自分の後に来られる方が、何をなさるのかを具体的に示しています。
「その方は聖霊と火とで洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

ヨハネは水で洗礼を授けましたが、それはしかし、キリストにお仕える働きで、その洗礼を真実なものとなさるのは、キリストご自身でいらっしゃる。キリストご自身が手を置かれる。そう、ヨハネは語ったのでありました。

それでは、キリストご自身が手を置かれる、その力とは何でしょうか。
このすぐ後に、主イエスがヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになったということが記されています。
ここにキリストの力が示されている、聖書は伝えているよに思われます。

主イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったということを聞くと、何か奇妙な感じを受けます。
ヨハネは主イエスのことを「わたしよりも力のあるかた、かがんで、そのくつのひもを解く値打もない」と言っているのに、その立場が逆転しているように見えるからであります。

確かに、不思議なことであります。ヨハネは罪人を招きました。終わりの時が近付いたから、悔い改めるようようにと呼びかけていたのであります。
人々は罪を悔いてヨハネからバプテスマを受けたのであります。そのバプテスマを受ける人々の列にイエスさまもおられて、ヨハネからバプテスマをお受けになったのでした。
主イエスも、罪を犯していたのでしょうか。罪人だったのでしょうか。赦しを受ける必要があったのでしょうか。
そうではありません。ペテロの手紙一の2章22節に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」と記されていますが、罪のないお方であります。
そうだとすれば、洗礼を受ける人々の列に身を置いておらえる主イエスのお姿は、相応しくないこと、奇妙なことのように思われます。
しかし、ここに、深い意味がありました。この不思議な光景の中にキリストの力が現されていたのであります。
罪のないお方が、ご自分を罪人の立場まで低くし、私たちとまったく同じ立場に立ってくださったということであります。
私たちと同じようになってくださるために、ヨハネからバプテスマをお受けになったのであります。それが、主イエスの受洗の深い意味であります。

ヨハネがキリストにお仕えしたというのなら、キリストはもっと深く、わたしたちのために仕えてくださったのであります。そして、それこそ、キリストの力でありました。
水の洗礼、その中に、キリストのお姿が刻まれました。

ある神学者が、たいへん有名な言葉を残しています。いつかも、ご紹介したことがあるかと思いますが、「証し」ということについて書き残した文章の中で、述べられていることです。
キリストを証しするということで一番大切な問題は「見ること」「よく見る」ということだ、というのです。
私たちは証しと言えば、自分の言葉と生活をとおして表していくことだと、すぐにあわてて考えはじめます。そして、わたしにはとってもそんなことは出来ない、などと思ってしまうことさえありますが、そうではなくて、その前に立ち止まって心得ておくべきことがある、というのです。
それは、神さまが私たちにキリストを通して何をなしてくださったかをよく見る、本当によく見る。そして、それを受けとめ信じることなのだと言うのであります。
自らをむなしくして、キリストを見る、神を見上げる、そこに証という事柄の出てくる土台があると言うのです。
この神学者は膨大で豊かな著作を残しました。とくにキリスト教の教えを体系的に組織的にあらした「教会教義学」という書物がありますが、それは、白鯨、白鯨(しろくじら)というあだ名が付けられています。白い表紙の何冊にもなる膨大な書物で、書棚に置くとその姿が、白い巨大な鯨のように見える、それでそう呼ばれます。
この「教会教義学」をはじめとして、たくさんの書物と業績を残しておられるのですが、晩年にこんなことを語ったと伝えられています。
自分のこの膨大な著作は、小さなこどもたちの歌う「主、我を愛す」という讃美歌以上のことを語ろうとはしてはいないし、その讃美歌以上のことを語り得てもいない。
そう言ったというのです。
「主、我を愛す。主は強ければ、われ弱くとも畏れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。
この小さな子どもたちの讃美歌。それ以上のことではない。
この神学者も、神さまの恵みの前に空しいものとされ、ただ主を仰ぎ、ほめたたえること、そのことに仕えたのでありました。