matt4/1-11

説教 マタイによる福音書4章1-11節
「誘惑」

1節をご覧ください。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」と記されています。

聖書は、主イエスが公の活動、すなわち、十字架へと向かう伝道の歩みをお始めになる、その前に、2つの大切な出来事があったということを伝えています。
一つは、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったということです。3章13節以下に記されています。
罪のないお方が、悔い改めを必要とする人々の立場にたってくださいました。
その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた、と3章17節に記されています。
天の父なる神さまの御心に適うことでした。

もう一つは、今日の箇所ですが、主イエスが悪魔から誘惑を受け、それを退けられたということです。
誘惑は3度に及びました。まず、四十日間、昼も夜も断食して空腹を覚えられた主イエスに、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言って誘い、
次に、主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。天使たちが守ってくれるはずだ」と試み、
そして、最後に、主イエスにこの世の国々とその繁栄を見せ、「ひれ伏してわたし(つまり悪魔)を拝むなら、これをみんなあなたに与えよう」と誘惑したのでした。

「悪魔」とは、「誘惑する者」です。主イエスがこれから歩み出そうとしている道、神の子、救い主として進むべき道から、そらせようとする誘惑が、悪魔によってなされました。
神の愛する子、天の父の御心にかなう者であるかどうかを、試されたのでありました。
主イエスは、これらの誘惑を全て退けられ、それによって、公のご生涯の準備が整いました。
11節にこう記されています。「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。
悪魔が追い払われ、神さまのみ使い、天使が来て仕えるようになった、というのです。

その誘惑の場所が荒れ野であった、ということですが、これにも深い意味があります。
それは、荒れ野で主が誘惑を退けられたということによって、このお方のもとで、新しい神の民が形造られ、整えられる、ことになったということです。
昔、モーセを指導者として、エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地へと向かう荒れ野の旅において、それは40年間にも及びましたが、信仰が試みられ、整えらてれ、神の民として形造られたのでした。
そのような経験が、主イエスの荒れ野での試みに、伴っています。それによって、まことの神の民が形造られる基盤が備えられたということです。
わたしたちも、主イエスと共に、神の国へと向かう、荒れ野の旅を辿ります。私たちは弱く、その旅に耐え得ませんが、試練に打ち勝たれた主イエスによって、導かれ、支えられ、神の民として造られていくのであります。
荒れ野で主イエスが悪魔の誘惑を退けられたということは、神の民のためでもありました。

今日は、1番目と2番目の誘惑を取り上げて、主イエスのお言葉に心を留めたいと思います。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と悪罵が言ったときに、主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになりました。
また、神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石にうちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」と悪魔が言ったとき、主は、「あなたの神である主を試してはならない、とも書いてある」と仰せになりました。

この二つの誘惑は、あなたが神の子なら、という言葉が枕言葉となって発せられています。
主イエスが神の子である、そのことを確かめ、示し、また、人々に分かるように、明らかにしたらどうか、と誘っています。
パンの問題と、しるしを求める人々の思いとが結ばれています。

確かにパンの問題があります。
戦後、しばらくの日本の歩みは、この問題と必死に取り組んできたと言えましょう。そのために必死の努力が傾けられて、今日があります。
主はそのような努力を空しいものだと、言っておられるのでしょうか。そうではありません。パンの問題を、よくご存知でいてくださいます。
5千人の給食の物語はよく知られています。主のお言葉に耳を傾けるために集まった5000人の人々、彼らは食べるものがありませんでした。主は僅かなパンと魚とをもって、たくさんのパンくずが残るほどに豊かに、その人々を養われたのでした。
また、安息日に、麦の穂を摘んだ弟子たちが、安息日には許されていないことではないかと批判を受けたとき、安息日は人の子のためにあるのである、と仰せになりました。
このように、空腹を覚え、麦を必要とする者たちのことを覚えていてくださり、神の賜物にあずかり、豊かに分かち合うべきことをお示しくださったのであります。

しかし、もちろん、パンの問題が解決されれば良い、というのではありません。悪魔は、石をパンに変えたらどうか、と言いました。パンこそ、空腹を満たし、人を生かすことができる。この世の旅路を支え、そこに喜びと楽しみを与えるものはパンである、というのでありましょう。
パンを得ることは、確かに、健康と結びつき、財産となり、働くこと、職業をもたらし、生き甲斐を与え、家族に団欒と喜びとを与え、友人を作り、名誉もまたもたらします。
そのパンを人間は求めている。だからその願いをかなえてやるのが、救い主としての働きなのではないか、そう主イエスにむかって語りかけたのです。
この悪魔の言葉は、私たち人間の本質を鋭くえぐり出してもいます。私たちが神様に、主イエスに求めているものは結局はパンなのだ、と悪魔は言い放ったのであります。

しかし、主は、「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになりました。そして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある」とも仰って、これの誘惑を退けられたのであります。
主イエスがここで取り上げておられる旧約聖書の言葉は、申命記第8章にある言葉です。
そこには、エジプトを出たイスラエルの民、出エジプトの民の四十年間の荒れ野の旅が思い起こされています。神様はその旅の間、彼らを、天からのパン、マナによって養い、支えて下さったのでした。
パンや水のことで、一喜一憂し、パンが無いと嘆いて、奴隷の地であったエジプトをなつかしみ、約束の地へと導き出した神さまに恨み辛みを言う、そのようなイスラエルの人々でしたから、その旅路を神さまが導いてくださっている、ということを知る必要がありました。それを知らしめるために、天からのパン、マナが与えられたのでした。
その日、一日に必要な分だけ、マナが与えられる。そして、旅路が支えられたのでした。
今、「あなたは苦しみ、飢えを経験」しているが、その苦しみ、飢えの中で、天からのパンであるマナが与えられ、約束の地へと導かれる。それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」、というのです。
それが、主が取り上げられた言葉の出典であります。

神様があなたがたにパンをお与え下さる、あなたがたが生きるに必要なものを備えて下さる。
しかし神様の恵みはそれに尽きるのではない、神様はそのことを通してむしろもっと大きな恵み、神様の口から出る一つ一つの言葉によってあなたがたを生かし、導く。約束の地、神の国に望みをおいて生きる命を与えようとしておられる、
それで、主は石をパンに変えることはなさらなかったのであります。もし、石をパンに変えたとすれば、神の子として、その力を目に見える仕方で示すことになったでありましょう。しかし、神様が主イエスを通して与えようとしておられる恵みは隠れてしなうことになりましょう。
主イエスは、私たちを神様のみ言葉によって生きる神の民とするために、ご自身の道を選び取られたのでした。

第二の誘惑は、多くの人々が集まり、神さまを礼拝する場所でなされました。
その多くの人々の前で、屋上から飛び降りて、天使たちによって無事に地上に降り立つことができるところを見せてやれ、と悪魔は言ったのでした。
そうすれば、主イエスが、自分こそ神の子、救い主であることを、人々に、見える仕方で示すことができる、すなわち、あなたが神の子であるしとしとなる、というのです。

たしかに、人は、主イエスが救い主であられるというしるしを、必要ようとし、求めています。
マタイ福音書12章に、人々が主イエスに、「天からのしるし」を求めたということが、記されています。
主イエスを信じ、従っていけばよいのだということをはっきりと自分に納得させてほしいと願い出たのでした。
悪魔がここで主イエスに、そういう人々の求めに応えたらどうか、と言ったのであります。
主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉によって、これを退けたのでした。

しるしを求めることは、神様を試すことだと言われたのです。
この言葉も、旧約聖書申命記の言葉です。6章16節です。そこには「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」と記されています。
マサにいたとき、というのは出エジプト記17章に書かれています。荒れ野を歩んでいたイスラエルの人々は、飲み水がなくなり、モーセと神様に向かって不平を言ったのです。そのとき人々の口から出た言葉は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という言葉でした。
「主は我々の間におられるのかどうか」、つまり、神様が本当に共にいて下さるのか、私たちの神として、導き、養い、支えていて下さるのか、苦しみの中で、そのことが疑わしくなってしまう、そして、そのことを確かめたくなる、そのことを確かめるためのしるし、証拠が欲しい。そのようにして、主を試す、試みることが始ったというのです。
聖書はその民に向かって、「あなたの神である主を試してはならない」と記しているのであります。
主イエスもそれを受けて、主を試そうとするような求めに応えてしるしを与えるつもりはないと言われるのです。
不信仰に陥り、信頼を見失ったところから発せられる「しるし」を求める要求は、際限のないこととなりましょう。そして、その思いの至りつくところは、自分の心を王座して、神を試みるということでありましょう。
信仰と信頼に立つ以外に、道はありません。
主イエスは、申命記の言葉を引いて、「あなたの神である主を試してはならない」と仰せになったのでした。