matt4/12-17

説教 「ガリラヤにて」
マタイによる福音書4章12以下

マタイ福音書は、荒れ野でサタンの誘惑を退けなさった主イエス・キリストが、ガリラヤで伝道を開始されたと記しています。

それまでは、主イエスはいわば全く無名の人でしたが、伝道を開始なさることによって、人々の前にご自分を現わされたのでした。それは主イエスが30才ぐらいの時のことであったと言われます。
この時から始まる主イエスの歩みを、公生涯、公の生涯と、一般に申します。人々の前にご自分を現わされた歩みです。
その公生涯は長くて3年ほどであったと考えられています。3年後には、十字架にご自身を渡し、私たちの罪の赦しのために、神に対してご自身をささげてくださったのでありました。
4つの福音書は、いずれも、この主イエスの3年間の公生涯のことを集中的に伝えています。
今日は、ここに記される聖書の言葉に心をとめて、神さまを賛美したいと思います。

最初に、こう記されています。
「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ。」。
マタイ福音書は、少し詳しく、主イエスの足取りを伝えています。
ちなみに、他の福音書、ことにマルコ福音書は、短く「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」と記しているだけですから、それと比べるとマタイ福音書は丁寧に、主イエスの足取りを伝えていることが分かります。

二つのことが述べられています。一つは、「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」ということです。
もう一つは「ナザレを離れ、カファルナウムにきて住まわれた」ということです。

すこし、地図を頭に思い浮かべていただきたいのですが、
主イエスがお育ちになったのはガリラヤ地方のナザレです。
ナザレはガリラヤ湖の南の端、そこから西に少し行ったところにあります。そこでお育ちになって、主イエスは洗礼者ヨハネのところに行き、洗礼をお受けになりました。
ヨハネはユダヤの荒れ野で宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授けていましたから、ガリラヤ湖から南に流れ下るヨルダン川の下流、ユダヤの地方に行かれたのでした。
また、その地方の近くの荒れ野に導かれて、サタンから誘惑をお受けになりました。
そしてヨハネが捕らえられたと聞き、再び北のガリラヤへ退かれた、しかし、育った町ナザレに住むのではなく、そこを出て、湖畔の町カファルナウムに行かれたというのです。
カフェルナウムはガリラヤ湖の北岸にある町です、そこに滞在された、これが最初の12節13節に記されていることです。

このように、マタイ福音書は伝道を開始される前に、主イエスはお育ちになったナザレを離れて、カファルナウムへと移動なさったということを伝えています。

これは、主イエスの足取りを伝える、さりげない記録・報告のように思われますが、それだけではありません。
マタイ福音書は、その中に、主イエス・キリストのことについて、大切なことを織り交ぜて、伝えています。

その一つですが、「ヨハネの逮捕を聞き、ガリラヤに退かれた」と記されています。
ヨハネの逮捕、そして、ガリラヤに退かれた、その言い回しの中に、大事な意味が込められているのであります。

バプテスマのヨハネのこと、ことにその生涯の最後の出来事について、、後に、14章に記されるのでありますが、
当時ガリラヤとペレヤの領主であったヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、マケラスといわれる死海東岸の要塞の地下牢に閉じこめられ、ついには首をはねられて殺されてしまいます。
ヘロデが神の律法にそむいて、自分の兄弟であるフィリポという人の妻を奪い、めとったことを、ヨハネが激しく非難したからでした。
ヘロデという人は決してヨハネを軽蔑するような人ではなかったと思います。かえってヨハネのような人を尊敬さえしていたふしがあります。しかし、神の国の到来を告げ、悔い改めを迫るヨハネを殺さざるを得ないのであります。
そのヨハネが逮捕された、捕らえられたということを伝え聞いて、主イエスはガリラヤに退かれたのです。

なぜ、退かれたのでしょうか。ヨハネが捕らえられたので、安全な所に身を隠した、ということでしょうか。
そうではありません。
マタイ福音書は、退かれた、「そのときから」、伝道が始まったと記しているのです。
主イエスは、退いて、人々の前にご自身を現わされたのでした。
しかも、そのガリラヤは、ヨハネを捕らえた領主ヘロデのお膝元です。
わざわざそこで伝道を開始されました。ですから、退いた、と伝えている意味は、身を隠されたというのではなくて、別の目的があってガリラヤに行かれたということを伝えています。

それは、「祈るため」です。主イエスは天の父なる神さまと向きあい、祈るために退かれたのでした。

この「退く」という言葉ですが、よく似た言い回しが、バプテスマのヨハネの死を伝えている14章にも見られます。13節に次のように記されています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。
「これを聞くと」とありますが、それはヨハネが首を切られた、そのことです。ヨハネの死を聞いた主イエスは、「退かれた」というのです。
どこに退いたのか、「ひとり人里離れた所に」でありました。
身を隠したのではありませんでした。その時、群衆は主イエスの行先を知り、押し寄せて来たのでした。
「ひとり人里離れた所に」、「ひとりになる」ためでした。
それは、その後の23節に記されているように祈るためです。主イエスは「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」とあります。主イエスが「退いた」のはそのためでした。

今日の箇所、4章でも、ヨハネの逮捕を聞いて退かれたのは、祈るためであったという事を、この言葉が示しています。
そういたしますと、ナザレからカファルナウムへの移動の意味も明らかになります。主イエスは一人になって神様と向かい合うためにナザレを出たのであります。
ナザレには、家族がいます。父ヨセフは早くに亡くなっていたようですが、母マリアと、兄弟たちがいます。そういう親しい人々から離れて、一人になって神様と向かい合う、そのためにナザレを離れた、そうマタイ福音書は伝えているのであります。

一人退いて神様と向かい合い、主イエスは何を思われたのでしょうか。何を神様に祈り、何を神様に御旨と受けとめられたのでしょうか。
祈るために「退く」、そのきっかけが、ヨハネの逮捕の知らせであったというのであります。
ヨハネは命を落とすかも知れない。そのような状況へと引き渡されたのでありました。そのことを知らされて、主イエスは祈るために退かれたのでありました。
主イエスはヨハネのこの苦しみと死とに、ご自分の将来を重ね合わせておられたのではないでしょうか。そのことを心に留めて、父なる神様に向かい合って祈られた、それが、その時の主イエスの祈りではなかったかと思うのです。

「ヨハネが捕らえられ」という言い回しが、そのことを指し示しています。
「捕らえられた」とここで翻訳される言葉は、しょっちゅう聖書の中に登場する言葉ではありません。特別な言葉が用いられています。
それは、「引き渡された」という意味を持つ言葉です。この言葉は後に、主イエスご自身が祭司長や長老たちによって捕らえられる、そのことを伝えるときに用いられます。
またローマの総督ピラトに引き渡される、また、ピラトによって十字架につけるために引き渡される、その時にも用いられていいます。

このように、「捕らえられた」という言葉は、主イエスのご受難、十字架の死を表現する代表的な言葉として福音書に用いられているのであります。
そして、今日の箇所、4章においては、洗礼者ヨハネの逮捕に際して、その同じ言葉が用いられています。  ヨハネは、主イエスに先立って現れ、その道を備えましたが、その逮捕と死においても、主イエスの十字架を指し示したのだということでありましょう。

主イエスはヨハネの姿にご自分の将来を重ねて、父なる神様と向かい合って祈られたのでありました。
それは、主イエスが捕らえられる直前、ゲッセマネの園で、祈られた祈りに通じることであったに違いありません。
その時、迫っている受難を覚えつつ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、御心のままに」と祈られたのでした。
その祈りは、既にこの第4章、伝道を開始されるその時から、始まっていた、とマタイ福音書は伝えているのでありましょう。

このことは、荒れ野でのサタンの誘惑、その直後のこととして、マタイ福音書は伝えています。
荒れ野において、サタンは、主イエスに対して、その歩むべき道から離れさせようとしました。
その荒れ野での誘惑と、主イエスの祈りとが結ばれて、書き記されているのであります。

悪魔は三度主イエスを試みましたが、その最後の誘惑では、主イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったというのであります。
主イエスに、この世の国々とその繁栄を求めさせ、父なる神をではなく、また、父の御心をではなくて、悪魔の前にひれ伏させようとするものでした。
主イエスは、この悪魔の誘惑を退けることによって、ご自身の歩みを選びとられました。
受難と死とへ向かって歩む、救い主としてのご自分の道を選び取られたのでありました。
そして、ヨハネが捕らえられたことを知ったとき、やはり、ひとり退いて、父なる神に祈り、その御旨にお従いになったのであります。

その祈り、父なる神様と向かい合い、祈る祈りの中から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という福音を伝える言葉が発せられたのでありました。

マタイ福音書は、この出来事が旧約聖書イザヤ書の預言の成就であったということを伝えています。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ。
暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ。」

天の国、神さまの御手が置かれた。そのことを、暗闇に光が射し込んだと、表現しています。
夜、暗い闇夜が、朝日によって照されるように、朝が来て、その光のもとに新しい一日が始まるように、
神さまのもとから射し込む光によって、光を見、天の国、神の御手は置かれた、というのであります。

それで、悔い改めよ、天の国は近づいた、と主は仰せになったのでありました。
「異邦人のガリラヤ」、それは、まっとうなユダヤの人々からみると、神さまから遠く離れている、死の影の地でありました。
しかし、その「異邦人のガリラヤ」で、主イエスは「悔い改めなさい。天の国は近づいた」。神の御手が置かれていると、仰せになったのでありました。

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」、この旧約聖書の言葉とともに、そのことが語り伝えられています。

今日は、聖餐にあずかります。
十字架と復活の主に結ばれて、その命にあずかります。この聖餐を受けとるとき、今日、読みました、主イエスの祈り、その祈りの中から発せられる、天の国への招きの言葉を心にとめたいと思います。

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