matt4/18-22

説教 マタイによる福音書4章18ー22節
「人を漁どる漁師」

今日、読んでいただいたところには、ガリラヤの漁師であったペトロたち4名が、弟子とされて、主イエスにお従いしたということが記されていいます。
弟子たちの召命物語です。

4名の名前が記されています。
シモンというのはペトロのことです。ケパとも呼ばれていました。彼は最も私たちに知られている弟子です。
アンデレはシモン・ペトロの兄弟であると記されています。彼らは、ガリラヤ湖で網を打っていました。
「網を打つ」というのは、岸から「と網」で漁をすることです。舟を持たず、兄弟二人だけで漁をしていた様子から、豊かな漁師ではなかった、そんな様子が読み取れます。彼らはすぐに網を捨てて、主イエスに従いました。

ヤコブとその兄弟ヨハネは父ゼベダイとともに舟の中で網を繕っていました。明日のために網を繕っていたのでありましょう。マルコ福音書には、雇人と共に網を繕っていたと書かれています。舟も持っており、雇い人もいた、彼らは決して貧しい漁師ではなかったということが分かります。彼らもまた、主イエスに従いました。

主イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と仰せになりました。
「人間をとる漁師」というのは、不思議な言い方です。あるいは聞きようによっては物騒な感じもするかもしれませんが、水の中に隠れている魚を網で引き上げるように、罪のもとにいる人間を、そこから引き上げて、神の国へと導くもの、という意味で、主イエスはこの言葉をお用いになっておられます。
人を神の国へと漁る、ということです。

実は、この「人間ととる漁師」という言葉は、旧約聖書で預言者たちが用いた言葉でした。しかし、その意味するところは、主イエスとは180度違っていました。
たとえば、エレミヤ書16章16節には、次のような言葉が記されています。
「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らをつり上げさせる。・・・わたしの目は、彼らの全ての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」。
神さまが罪人を裁くために、隠れ潜んでいる罪人を捜し出し、ご自分の前に連れ出す、そう語ったのでした。
水の中に隠れている魚を釣り上げるように、あるいは、網ですくい上げるように、潜んでいる罪人を神の前に引き出す、それを預言者は漁師が人間をとる、と表現したのでした。

しかし、主イエスは、この言葉を、裁かれるべき罪人が救くいを与えられ、神の国へと見いだされるために、引き出すという、全く反対の意味あいをもってお語りになりました。
失われているものに目を留めてくださる主イエスは、失われたものを捜し出してお救いくださるというのです。その救いの前にもはや隠れていることはできない。
そのためにペトロたちは「人間をとる漁師になる」のだ、と言われたのでありました。
それで、ある人が、ここには新鮮な響きがある、と申しました。

ところで、聖書の研究者は、21節にある、「彼らをお呼びになって」という言葉に注目するようにと申します。
ガリラヤ湖畔で4人の漁師が弟子とされたという出来事は、他の福音書にも記されいますが、「彼らをお呼びになって」という言葉が用いられるのはマタイ福音書だけです。
「呼ぶ」という言葉は、ごくありふれた言葉ですが、ここでは、注意深く用いられています。
それは、エクレシア、教会のことを指す聖書のギリシャ語ですが、エクレシアという言葉を連想させているのだと言うのです。
エクレシアとは「呼び出された者たち」という意味の言葉で、「呼ぶ」という言葉から生まれています。
それで、人間を漁る漁師として召されたのは、あの弟子たちのことだけではではなく、後の教会も同じこと、教会のことがここでも、記憶されているのです。

教会ということが、はっきりと織り込まれているのがマタイ福音書の特色の一つです。他の福音書も、ただ単に主イエスのご生涯を記しているだけではなくて、後の教会の経験が織り込まれていますが、マタイ福音書には、教会という言葉が、2度も、用いられます。他の福音書に比べて、はっきりとそのことが意識されています。
たとえば、16章に、弟子のペトロが主イエスに向かって、「あなたはメシア、キリスト、生ける神の子です」と告白した、という記事があります。大切な聖書の箇所ですが、このペトロの信仰の告白を受けて、主イエスは次のようにお答えになりました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく、あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
教会の基礎、土台について物語る聖書の箇所です。ペトロが信仰を告白する。そのペトロの信仰の告白を待っておられたかのように、主イエスは、その告白の上に、教会を建てる、と仰せになりました。
キリストを主と告白する、そこに教会が建てられたのであります。

このように、マタイ福音書は、主イエスの地上のご生涯、そのときに、すでに教会ということをお考えになっておられた、ということを伝えています。
そして、キリストを主と告白するにいたる弟子たち、教会は、今日、わたくしたちが読んでおりますように、なによりも主イエス・キリストがガリラヤ湖の水辺に降りてこられ、漁師であった弟子たちを呼び出された。お弟子となさった、ということの中に、始まっていたのであります。

この弟子たちの召命の物語は、新鮮な響きを奏でている、と申しました。
それは、「人間をとる漁師」という言葉にだけあてはまるのではありません。ペトロたちが主イエスの弟子となる、その様子もまた、新鮮な響きと共に、伝えられています。
彼らは、普通の仕方とは違う仕方で、弟子とされています。
主イエスの時代、いたるところで、先生と弟子たちという師弟関係が見られました。例えば、ユダヤ教の教師たちは、ラビと呼ばれますが、そのラビのもとにも弟子たちがおりました。ところが、ラビは率先して自分の弟子を召し出すということはしなかったそうです。そうではなくて、弟子になりたいと思う人たちが自分の先生を探して、志願して、弟子入りをしたのです。
マタイ福音書18章19節に、ひとりの律法学者が「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言って、主イエスのところに来た、ということが書かれています。この人は主イエスの弟子となることはありませんでしたが、普通は、そのようにして、弟子となる人が自分の先生を探して、弟子入りするのが普通でした。ましてや、先生のほうから弟子を探しに行くというようなことは無かったのでした。
しかし、主イエスの弟子たちは違いました。彼らは、海辺で漁をして魚をとっていたり、舟の中で網の手入れをしていただけでした。
主イエスが近づいて来られ、彼らが漁をしている姿をご覧になり、主イエスのほうから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、この人たちを呼び出し、呼び集められたのでした。

このことはとくに、心を止める必要があると思います。
どうしてか申しますと、この物語を読むと、なぜか、すぐに、弟子たちが主イエスにお従いした、ということに目がとまります。弟子たちの振る舞いに心がとらえられてしまう。
それは、悪いことではありませんが、そのとき、わたしたちは心の中で何を考えはじめるでしょうか。
そんな難しいことはわたしにはできない、という困った思い。飛び越えることのできない高いハードルを、そこに読みとって、とうていこれは自分の話とは思えない、心の中にそういう思いが起こるのでは無いでしょうか。
しかし、聖書はまずわたしたちに、高いハードルを示して、主の弟子となるための課題を与えているのではありません。
そうではなくて、主イエスが近づいて来てくださったのでした。わたしたちの生活のただ中においでくださった。そのことが、ペトロたち、あの漁師たちが主の弟子とされた、原因だったのです。

聖書を読み進んで気がつくことですが、ペトロという人は修行僧が出家をするのと同じように、一切を捨てたのではない、ということです。
ペトロはすでに、この時、結婚しており、妻がおりました。その妻の家のことが聖書に記されています。そのお母さんも一緒にいた。家族の面倒を見ていたのでしょう。そして、そのことで、すぐに変化があったというわけではなさそうなのです。
急激な変化があったわけではない。しかし、確かに変わったことがありました。それは、主イエスを自分の家にお迎えするようになった。主がペトロの家においでになるようになったということです。
主はペトロの家で憩われたのです。あるとき、ペトロの姑(しゅうとめ)が高い熱を出したことがりあました。その時、イエスさまに来ていただいて癒やしていただいたということが福音書に記されています。そして、その日、イエスさまと一緒にこの家庭は食卓を囲みました。主をお迎えするようになった、それが大きな目に見える変化です。
ペトロは確かに網を捨てました。それは、しかし、主が彼のところに来て下さり、ペトロは主をお迎えすることができたのでした。そこにペトロの旅立ちがあったのです。
ペトロたちは、そのようにして「人間をとる漁師」、弟子とされました。

よく、教会で聞く言葉で、大切な言葉あります。それは、「信仰に生きるということは、遣わされて生きることである」という言葉です。
弟子たちも遣わされます。人間をとる漁師として遣わされます。
しかし、それは、主イエスが彼ら漁師たちのところに赴き、彼らを呼び出し、お招きになったからでした。ペテロたちは、従って行くことで弟子となったのではなく、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのでした。
それは思いがけないことだったに違いありません。
人をとる漁師という言葉も、思いがけないこと、罪人が神の国へと招かれることを意味していました。弟子たちはその福音を聞き、それを受け入れ、福音を身に帯びて、人々を神の国に導くために、遣わされるのであります。エクレシア(呼び集められたものたち)の歩みは、ここに始まりました。

わたしたちも遣わされます。
それは、必ずしも、自分の場所を離れて、特別な場所に行って、何かをする使命がある、ということではありません。何よりも、わたしたちの生活そのものが、主イエスによって遣わされた生活となっているのだ、ということだと思います。

もう、ずいぶん前のことになりますが、グスタフ・フォスという人の書いた「日本の父」という本が話題になったことがありました。
著者は、カトリックの神父で、ドイツ人です。神奈川県の学校で教師をしながら神父の務めを果たされたかたです。
その本の中で、フォス神父は、父親とは、子どもを自分の背中で説得しなければなならい、と書いておられます。
ギクッとさせられます。恥ずかしい思いを持つのですが、フォス神父が言われる、父親の背中というのは、神に向かって手を合わせる姿です。父親は自分が神さまの前にぬかずいている、その背中を見て、子どもがたちは納得する。納得するような生き方をしなければならないのだと言うのです。
父親も、今日は母の日ですが、母親も、自分の家庭に遣わされているのです。
そして、いろいろな姿を子どもたちに見せていると思います。
家の中では、時には、だらしのない姿を、子どもたちに見せることがあるかもしれません。こんなことをしていたら、子どもたちにあなどられてしまう。思いたったように父親の権威を無理矢理ふりまわしてみせる、などというようなことにもなる。
しかし、フォス神父のいう父親の後ろ姿というのは、そんなつまらないものではなくて、神さまの前にぬかずいている父親の背中です。

子どもたちの前で、だらしのない姿をあらわすかもしれない。しかし、その父親は、神さまの前にぬかずいている。そのことが大切だというのです。

ルカ福音書には、弟子たちの召命物語の中に、マタイ福音書には記されていない、一つの出来事を伝えています。
それは、ペトロが一日中、ガリラヤ湖で漁をしていたけれども、一匹の魚もとれない。そこに、主イエスがこられて、もう一度、網を下ろして漁をしなさい、とお命じになる。お言葉だからというので、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が捕れた。その時、ペトロは主イエスの前にひざまずいて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と言ったというのです。
まことに神がおられる。主がおいでくださった。その時に知ることは、わたしたちの罪の姿です。「わたしから離れてください」としか、言いようがない。しかし、主イエスは、そのペトロに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師になるのだ」と仰せになった、のでした。
ペトロが、お弟子とされた時に、見せた後ろ姿は、そのような姿だったのです。
人間の弱さや、罪を知る。その人間を慈しみ、愛し、神の国に迎えてくださる神の前にぬかづくのです。その姿こそ、見せるべきものです。その姿が、子どもたちを納得させりことになる。

「日本の父」の著者フォス神父は、ご自分の本の中で自分のことについて触れておられます。
この方は、決して裕福ではない家に育った。しかし、貧しい生活をしているお父さんは、自分の息子が勉強をし、大学で学ぶことができるようにと、一生懸命に働いてくれた。ところが、大学に入る歳になったとき、父親の期待に反して、息子、自分は、大学にではなく、教会の神父になるために修道会イエズス会に入るのです。
戸惑い、悩んだことでしょうが、父親は、息子を祝福して、イエズス会に送りだしてくれたというのです。
その時、自分の父親が、神の前にぬかづいている人だということを、あらためて知らされたというのです。

主イエスは漁師たちを弟子として招くために、彼らのところに赴かれました。
ペテロたちは、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのでした。
そして、主イエスが罪人を神の国へと招いてくださっている、その福音を身に帯びて、弟子たちも人間をとる漁師として遣わされることになりました。