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説教 マタイによる福音書5章1-11節
「心の貧しい人々は幸いです」

イエスは、山に登り、腰を下ろして、弟子たちにみ教えをお語りになりました。
心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。

こう記して、マタイ福音書は山上の説教を、書き始めています。
山の上の説教とも呼ばれますが、5章から7章にかけて、主イエスのお言葉がひとまとまりになって綴られています。

古くから、多くの人々がその教えに驚嘆しました。そして、ある人たちは、ここに主イエスのみ教えの中心があると考えました。
あるいは、山の上で、弟子たちや群衆に語られた、とありますから、昔、モーセがホレブ山で神から十戒を授けられた出来事と比較されます。
ことに、主イエスは、しばしば、旧約の律法にはこう命令されているが、わたしはこう命じる、と言ってみ教えを語っておられる。そのところから、旧約の律法に対応する新約の律法が布告されたのだ、と理解されたのであります。
もとより、山上の説教だけではなくて、マタイ福音書には、他に4箇所、まとまった主の説教が記録されており、全部で5つの説教が納められています。それは、モーセ5書、今日の日曜婦人会で取り上げる箇所と重なりますが、創世記から申命記までの、律法と呼ばれるモーセ5書になぞらえて、マタイ福音書を編集した人々が意図的に福音書の律法として、組み込んでいるのだと考えられています。
なぜ、マタイ福音書がそのように新約の律法を組み入れたかと申しますと、それは、主イエスの後についていく私たちキリスト者の歩みは、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を旅して、約束の地を目指した、かの人々のように、神の国の完成を待ちつつ、神の国へと歩む旅路である、と心得たからであります。

今日は、主イエスのご昇天を記念する日曜日です。そして、来週は聖霊降臨日を迎えます。
聖霊降臨日は、天に昇り、父なる神のもとにおられる主イエス・キリストの霊、聖霊がエルサレムの二階座敷で祈っていた弟子たちに降ったことを記念いたします。

実は、この聖霊降臨日は、ユダヤ教では五旬節ですが、モーセが律法を与えられた日として、記念されています。
現在のユダヤ教は、律法を中心とする宗教です。昔は、エルサレムの神殿を中心としていましたが、紀元70年に、有名なユダヤ戦争で、ローマ軍によってエルサレム神殿が崩壊しましたが、それは決して世の終わりではない、と信じたユダヤ教の一部の指導者たちが、しばらく後に、ヤムニヤというところで会議を重ねて、神殿なきあと、律法のみを中心とするラビ的ユダヤ教として、再建を計りりました。
正典を結集し、また律法理解の正統異端を問うようになりました。つまり、律法の再解釈を中心にユダヤ教信仰のアイデンティティーを確認する努力をしたのであります。
五旬節ペンテコステは、それ以来、ユダヤ教ではモーセに律法が与えられ日として記念されています。

マタイ福音書は、ユダヤ教がこのように再建されようとする、同じ時期に、記されております。それは、キリスト教側の律法の再解釈が求められたと言ってもよいのであります。
教会は、キリストの十字架と復活の光の下に、律法を新しく把握し、理解するようになります。山上の説教をはじめ、マタイ福音書に書きとどめられている主イエスのお言葉は、新しい主の律法といえましょう。

もちろん、新約聖書の中心は律法による救いではありません。イエスを神の子と信じる信仰による救いです。主イエスの十字架による贖罪と復活による新しい生命、その福音にあります。
ですから、山上の説教は福音を信じて、その福音のもとで、神さまによって祝福された生活、神の民として歩む倫理的教えが、述べられ、綴られるのであります。

それで、山上の説教は、幸いを告げる言葉によって、始まっているのだと思います。
「そこで、イエスは口を開き、教えられた。心の貧しい人々は幸いである」。
この幸いを告げる言葉の翻訳としては、昔の文語訳「幸いなるかな、心の貧しい者」という翻訳が優れていると言われています。聖書のギリシャ語原文は、この文語訳のように、「幸いなるかな」という言葉で始まっているからです。
「幸いなるかな、心の貧しい人々
幸いなるかな、悲しむ人々、
幸いなるかな、柔和な人々人たち
幸いなるかな、義に飢え渇く人々
幸いなるかな、憐れみ深い人々
幸いなるかな、心の清い人々
幸いなるかな、平和を実現する人々
幸いなるかな、義のために迫害される人々」

ある人は、この幸いという言葉を、福、福音の福ですね、福という文字をあてて、幸いと読ませています。
山上の説教は、ただキリスト者の守るべき倫理を記したのでない。それ以上のもの。福音であるということでありましょう。

この「幸いなるかな」という言葉ですが、これは、ただ単に、あることを説明し、その姿形を言い表すための言葉ではありません。貧しい人々は、幸いな人々です、と、主イエスは、説明するように、お語りになっているのではありません。
それは、讃美し、賞賛することばです。「ああ、なんと幸いなことか」と感激し、「さいわい」を告げています。
昔、イスラエルでは、お墓の墓碑に、「この人は何と幸いな人であったか」という言葉を刻んだと言われています。ああ、この人は何と幸いな人であったか、と書き始めて、その墓に眠る人を記念し、称えたのです。地上の生活を幸いのうちに生きることができた人々への賞賛の言葉です。
幸いなるかな、とはそのように、讃美賞賛する言葉です。
しかし、そのように幸いが告げられているのは、驚くべきことに、貧しい人々、悲しむ人々、飢え渇いている人々であります。
幸いからは、もっとも遠い人々、もしも、その人が召されて、お墓が造られても、決して「ああ、この人は何と幸せな人であったか」と刻まれることのない人、幸せを少しも持っていない人々に向かって語られています。

ここで注意しなければならないことがあります。主が幸いを告げる、それらの人々は、決して、何か隠されたしかたで、その内側に特別な、幸いに値する何かを持っている、それで、主イエスは賞賛し、称えている、ということではない、ということです。
貧しい人々に向かって、確かに貧しさは耐え難いものだけれども、貧しさの中にも良いことはあるでしょう、とか、苦しんでいる人に向かって、確かに辛いでしょうけれども、その苦しみには何か良い意味があるでしょう、と、貧しいからこそ、苦しいからこそ、味わい知る幸いがある、と主イエスは仰っておられるのではありません。

もちろん、貧しさの中に味わい知る幸いというものを、わたしたちは知らないわけではありません。しかし、それは、ある程度の貧しさの場合です。飢え渇くというような、極貧、最も悲惨な貧しさにおいては、そのような言葉は沈黙することでありましょう。

主イエスは、悲惨の中にある人々、その困難を、あたかもまことによい状態であるとして、説得しようとしておられるのではありません。
「さいわいなるかな」というみ言葉は、外から見ても、その内側をのぞき込んでも、文字通り悲惨な人々に対して、語られています。

それでは、なぜ、そのような人々が幸いなのでしょうか。
それは、そのような人々の貧しさや、飢え渇き、悲惨を、主イエスは、ただそれだけで見るのではなく、あることとの関連の中で見ておられるからであります。
独立して、孤立して眺めるのではなくて、それらの悲惨な人々に目を注ぎつつ、彼らも、神の国に直面しているということを考えて、主イエスは、この人々に、幸いという光がさしいるのだ、ということを語っておられるのであります。

神の国は近づいた、天の国が全ての人々、この世界と関わりを持った、だから、幸いを告げてくださるのであります。
その光は、しかし、決して、悲惨な人々によって、もたらされたのではありません。その人々が望んだからでもありません。また、欲っしたからでもなありません。ただ、そのような状況の中にある人々の上に、光が注ぐのです。

なぜ、幸いを告げられるのは、そのような悲惨な人々なのでしょうか。
それは、そのような悲惨に直面して、人は、主イエスによって新しくされるべき世界、その世界に対面し、直面するからであります。
こう言うことはできるでありましょう。この人々の悲惨において、世界の破れは現れ、世界はいわばよく見えるものとなる。
富んだ人々、笑っている人々、高貴な人々、義なる人々、この世において「幸福」な人々、そのような人々の持つ輝きにおいては、世界の致命的な傷は覆われたままであり、世界はほんとうにはよく見えない。悲惨な人々の現実、その存在そのものにおいてこそ、世界はよく見えるものとなる。ということです。
そこで、神の国のおとずれを、さやかに受けとめることができるのです。

ところで、主イエス・キリストご自身が、実は、一人の悲惨な人間として、すべての人々の中で最も悲惨な人間として、私たちのところに来られたのでした。
しかも、悲惨な人々に味方して来たり、行動し、ご自身をお示しになったことが、いたずらなことではなかったことによって、貧しい人々、苦しみを担う人々、卑しめられた人々においてこそ、神における新しい事実が、古い人間の生活領域全体の中に輝きわたるのであります。
「心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はそのような人たちのものである。

いつかも、ご紹介したことがあると思いますが、「祈る乞食」という彫刻が、ひとりの少年によって造られました。乞食のように、一人の人が跪き、天に向かって両手を広げている、という彫刻です。ヒンツというドイツの少年が造りました。彼は、彫刻家を志す少年でした。しかし、残念なことに17才のとき、トラックにはねられて天に召されました。その短い生涯の中で、彼が信じたこと、見たこと、経験したことをいくつかの彫刻に残していたのです。
「祈るこじき」というこの彫刻は16才、彼の死の数カ月前につくられたものです。山上の説教の最初の言葉、「心の貧しい人々は、幸いである」という、この言葉を心にとめて、これを造りました。
その彫刻には、目立った特徴があります。それは、手が身体にくらべて余りにも大きいということです。バランスを無視した大きな手。グローブのような大きな手。その手は空っぽで、乞食のように、天に向かって差し出されています。
これは、イエスさまのお言葉をよく捕らえています。「貧しい人たち」とは、乞食のような人のことです。手は空っぽで、その手は大きいのです。
実は、ヒンツ少年は、主のお言葉の中に、主イエス・キリストご自身を読み取っていたらしいのです。
主イエスこそ、貧しさ、悲しみ、飢え渇き、その歴史の中に立たれた。貧しき者それは、何よりも主イエスであられた。
そして、「祈る乞食」という彫刻には次のようなメッセージが託されています。
バランスの悪い大きな空っぽの手。彼は何も与えるものをもっていなかった。しかも、この貧しさとみじめさが、強烈な愛の力となりえた。
手が空っぽの人間は、たやすく人に何かを与えることなどできません。手に何かを持っていたら、それをいとも簡単に与えることができましょう。しかし、手が空っぽの人間は、与える物がないのです。
ただ自分自身を与えることしかできないのです。
主イエスは、そのようなお方であられた。
それですから、主イエス・キリストが与えてくださったもの、それはたやすく人に与えることができるような、そして、小さな手のひらにのるようなものとは違う。大きな大きな空っぽの手を差し出して、受けとめるのでなければ、捕らえることができないもの。
「心の貧しい人々は幸いである」という主のお言葉からヒンツ少年が読みとったメッセージです。