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説教 マタイによる福音書5章43-48節
「悪人にも、善人にも」

山上の説教を取り上げています。
マタイ福音書5章には、旧約聖書の律法の言葉を取り上げ、しかしわたしは、と仰せになって、主イエスがご自分のみ教えを述べる言葉が記されています。
6つ並んでいますが、今日は、そのうちの6番目の言葉を読んでいただきました。
愛について教える律法、戒めの言葉が取り上げられています。
言うまでもないことですが、旧約聖書も、神を愛し、隣り人を愛するようにと教えています。
律法はその二つのことについて、いろいろと具体的に戒めとして述べるものです。

愛するということは、具体的な行為となり、その愛が、愛する者に届けられなければなりません。そのために、小さな戒めがいくつも綴られ、また、説き明かされるという具合でありました。
今日の聖書の箇所では、その愛について教える律法の言葉をめぐって、主イエスがお語りになっておられます。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」、そう主イエスはお教えになりました。

「隣人を愛し、敵を憎め」。これは、旧約聖書の律法の言葉、そのものではありませんで、律法の意味を説き明かしている言葉です。当時の人々は、これを心にとめていました。

レビ記第19章の言葉に由来します。そこには、こう記されています。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」
隣人を愛する、その具体的な姿として、復讐してはならない、恨みを抱いてはならない、と語っています。

誰かが、自分に不利益をもたらしたり、悪意のある仕業を行う。その時、誰の心の中にも、やり返したいという思いが起こったり、恨みや、憎しみが根付くのではないかと思います。
しかし、その心に生きてはならない、隣人を愛しなさい。
隣人を愛するとは、復讐しないこと、恨みを抱かないことではないか、そう教えています。
大切な、旧約聖書の律法、教えです。

この律法の言葉が下敷きとなって「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉が生まれました。
しかし、どうして、隣人を愛する、その時、敵を憎むということになるというのでしょうか。

一つの、説明はこうです。
隣人を愛するということは、隣人の味方となるということでもありましょう。
人は誰でも、親しい自分の隣人を持っています。その親しい者たちの中で生きており、愛もそこに生まれている。
しかし、もし、その隣人に敵がいたら、その敵を愛し、敵の味方となるということはできない。かえって、それえを退け、それを憎むことによってこそ、隣人を愛するということになる。それで、「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉が、レビ記19章の言葉を説き明かす言葉として教えられるようになった。
それが、もっとも広く理解されている説明です。

このような言葉を読みますと、旧約聖書の人々、律法に生きる人々は、敵を憎むように教えられているのだ、と思い始めてしまうかもしれませんが、それは違います。
そんな乱暴な話ではありません。
ユダヤ教のラビ、教師ですが、ラビたちの間で語り伝えられる一つの物語があるそうです。
それは、今日の箇所、5章44節の
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というお言葉に通じる物語です。
こんな、物語です。
旧約聖書の出エジプトの物語がなぞられており、その物語を心に留める人々に向かって、心得ておかなければならない大切なことを語り聞かせています。

イスラエルの人々はやっとのことでエジプトを出立することができました。しかし、すぐに、エジプトの王は再び心が頑なになって、軍隊を送り、イスラエルの人々を懲らしめようと追いかける。
その時、葦の海、紅海がイスラエルの人々の行く手をふさいでいたのでした。万事休すと思われたその時、奇跡がおこります。
海は二つに分かれ、その間をとおってイスラエルの人々は向こう岸に渡ることができたのでした。
エジプトの軍隊はイスラエルを追って、同じように葦の海に入っていきます。しかし、二つに分かれていた海の水はもとにもどり、エジプトの軍隊は溺れ、全滅したのでした。
聖書が語る、紅海を渡る物語です。
その出エジプトの出来事が、下敷きとなって、生まれている小さな物語です。
エジプトの軍隊が葦の海で壊滅したとき、天使が賛美の歌を歌い始めたというのです。しかし、それを見て、神さまは悲しんで、こう言われた。「わたしの手の業が、海にしずんでしまったのに、お前たちは私の前で歌うのか」。
イスラエルを懲らしめようとしたエジプトの人々も、神の御手の業、神によって愛され、造られたものたちである。
イスラエルの人々が、葦の海で奇跡的に救われたとき、
天使たちは賛美の歌を歌い始めた。しかし、神さまはそれを戒めて、エジプトの人々に対する慈しみをお示しになった。
そのような物語が、ラビ、ユダヤ教の教師たちによって造られ、教えられていたというのです。
心にとめておきたいことであります。

『隣人を愛し、敵を憎め』という言葉の説明ですが、別の解釈もあります。
それは、敵とは、自分のことだという解釈です。
少し、説明が必要ですが、こういうことです。
レビ記19章に取り上げられている隣人とは、自分に害を加え、不利益をもたらした隣人です。
その隣人に対して、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように愛しなさい。」と言われています。
これは、大変な言葉です。このような言葉を実践することができるでしょうか。
普通はできません。出来ないです。
この律法の言葉を鏡として、自分の姿が映し出されるとしたら、それは、自分の弱さ、ふがいなさ、醜さです。
また、自分が、律法の敵、神の敵となっているということです。
そのような自分、神の敵となっている自分を憎むことなしには、隣人を愛するということにはならない。
それで「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉が生まれている。
そう理解することもできます。

いずれにしても、愛することの難しさ、愛せよとの戒めは、私たちの心のどこかに憎しみということを、生じささせます。そのことを、「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉は、示しているように思われます。
しかし、主イエスは、そうではない、「わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と仰せになったのでした。

愛し、祈る。
祈る、という言葉に心が留まります。

主イエスは、祈るということを、ご自身の生きる姿の中にお示しにお方でありました。
その主イエスのお姿を、まず、この言葉の中に、読み取ることができるのでないかと思います。
十字架の上で、父なる神さまに祈られた、祈りの言葉が福音書に記されています。
自分を十字架にかけて、自分の身につけていた衣服を、くじで分け合っている人々のために、父なる神に執り成して、祈られた言葉です。
「父よ、彼らをお赦しください。彼がは何をしているのか分からないです。」
この執り成しの祈りは、神の独り子、主イエス・キリストが十字架で死なれた、その意味を伝える言葉でもあります。
すなわち、罪人である私たちのために、すべての人のために、執り成してくださる。それが、十字架であったということです。

そして、主イエスは山上の説教では、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈れ」と仰せになったのでありました。
祈ること、そこに愛すること、敵を愛すること、その神の御心に生きる道が、開かれるということでありましょう。

デッドマン・ウオーキングという映画が、かつて造られました。アカデミー賞にも名を連ねた、有名な映画です。
デッドマン・ウオーキング、とは死刑囚が死刑台に向かう、その歩いていく足取りを指す言葉だそうです。
処刑場の監守が、デッドマン・ウオーキングと声を上げると、死刑囚は歩き出さなければならない。
映画は、その死刑囚が起こした事件によって被害にあった人々、その家族の物語です。
人間の憎悪、また、悲しみを深く描き出しています。 彼らは自分たちに悲しみをもたらせた死刑囚の処刑に立ち会います。そして、処刑が執行される。
映画の最後のほうで、こんなシーンがあります。
処刑が終わったとき、被害者の家族である主人公の男に、一人のシスターが近づきます。このシスターも被害をうけた家族の中の一人です。シスターである彼女は主人公に向かって、赦すようにしましょう、と語りかける。
しかし、主人公は首をふって「赦すことなんかできない」そう言い放つのです。
この映画全体を覆うのが、この「赦すことなんかできない」という響きです。

デッドマン・ウオーキング。それは、ただ死刑囚の最後の足取りというだけではなくて、憎しみに押しつぶされる人間、被害者自身の歩みでもある。それをこの映画は描きだしています。
しかし、最後に、短いワンカットが置かれていて、そのワンカットで映画は締めくくられます。
それは、「赦すことなんかできない」と言い放った主人公と先のシスターとが、一緒に教会で祈っているシーンです。何の説明もなく、ほんの少しだけ、それを映し出して、映画は終わります。

祈ることも容易いことではありません。
ある人が、愛することより、祈ることのほうがもっと難しいのかも知れない、と申しました。
愛するというのは、どこかごまかすことができる。目をつぶって、何しろ、がむしゃらに愛する。そういうことがありうる。
しかし、祈るとなると、そうはいかない。ごまかしがきかない。祈るとき、神の前に、すべてを、持ち出さなければならないからです。
少しのいつわりも入れることができない。だから、祈ることに人は躊躇する、というのです。
そうでありましょう。

しかし、主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と仰せになっておられるのであります。

おそらく、初代教会の人々、多くの迫害を経験したでありましょう、かの人々、その時代の教会は、主のお言葉どおりに、祈ったのではないかと思います。
思い切って祈った。そして、教会の祈りとした。

あらいざらい、神の前に申し上げる。その時、その人自身の心も張り裂け、破れるかもしれない。しかし、神の前に祈る。
その祈りを通して、主イエスが言われたこと、父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、その言葉を最も良く聞き取ることになった。なったのではないかと思います。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 主イエスのお言葉であります。