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説教 「天の父への祈り」マタイによる福音書 第6章5~8節

今日は、山上の説教の中で、主が弟子たちに主の祈りをお教えになった箇所を読みました。

山上の説教は6章に入りますと、施しについて、祈りについて、そして、断食について、取り上げられています。
1節から施しについて、5節からが祈りについて、そして、16節からが断食についてです。
この三つのことは、当時、聖書の人々が、神の民として身につけるべき、善きこと、善き行いとして、覚えられていたものであります。

主イエスは、その、三つのことを取り上げて、まことの善き行いとは何かをお示しになったのでありました。

今日は、5節から8節の主のお言葉に心をとめて、神さまを賛美したいと思います。祈りについて取り上げておられる主のみ教えです。

祈りは、言うまでもなく、信仰生活の基本です。信仰は、神様についての、あるいは人間やその救いについての知識ではありません。
聖書の語っていることを知る知識も必要ですけれども、その知識をいくら身に着けても、それで信仰が得られるわけではありません。
信仰が信仰になるのは、祈りにおいてです。「神よ」と、祈ることができるようになって初めて、私たちの信仰は知識の域を脱皮して、生ける神様との交わりとなります。

旧約聖書にサムエルという預言者のことが記されています。神に選ばれ、召されて、イスラエルの歴史の中で大変重要な働きをしました。
サムエルが神の召命を受け、神の言葉を委ねられた時のことが記されています。彼はまだ少年でありましたが、シロという町の祭司でエルという人のところに預けられておりました。
ある晩、サムエルは神殿で寝ていたのですが、「サムエルよ、サムエルよ」という呼び声を聞きます。彼は祭司エリが呼んでいるのだと思ってエリのところにまいりましたが、そうではありませんでした。不思議に思いながら、再び寝床に伏すと、また、「サムエルよ、サムエルよ」という声がします。再び、エリのところに行くのですがエリが呼んだのではありませんでした。いよいよ不思議に思いながら神殿に戻る、そんなことが3度ありました。ところが、3度目に祭司エリは神がサムエルを呼んでいるのだということに気が付いて、サムエルにその事を諭すのです。サムエルが4度目に「サムエルよ」という呼び声を聞いたときに、「僕は聞きます。主よ、お話ください」といって神にお応えしたというのです。
祈りということについて考えるときに、いつでも思い起こされる物語です。

もう40年ほど前になるかと思いますが、「祈りの精神」という題の書物が諸教会で盛んに読まれたことがありました。
20世紀の初頭に活躍したフォーサイスというイギリスの神学者によって書かれたものです。祈りについて、祈るとはいかなることか、ということが深く教えられる書物でありました。
内容が重厚であるということもありますし、翻訳が堅い日本語になっており、読むのに苦労したという思い出があります。
いま、こと細かにその内容を思い出すことはできなせんが、印象深い一つの言葉を忘れることができません。
それは、書物の冒頭に記されていました。「祈らないことは罪である」という言葉です。
祈らないこと、祈ることに無頓着になってしまう。それは罪であるという言葉です。
神さまが呼びかけ、その交わりに招いてくださっているのに、祈らないということは罪である、というのでした。

「祈らないとみ言葉を聞くには聞くが深く根をはったものにはならない」とも言われます。
確かに、祈りは信仰生活の基本です。信仰が信仰になるのは、祈りにおいてです。「神よ」と、祈ることができる。そこに、信仰生活が開かれます。
詩編27編4節の、祈る者の幸いが謳われています。「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎える」。

主イエス・キリストは、その祈りについて心がけておくべきことを弟子たちに教えられました。
それは、偽善者や異邦人のようであってはならない、ということです。
5節に「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と記されており、
7節には「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と記されています。

「偽善者」という言葉は、もとのギリシャ語では「装う」「演じる」という言葉です。俳優が舞台の登場人物になりきるように役を演じて見せる、装って見せる、そういう言葉です。
しばしば人間は、よこしまな人間性を覆いかくし、あたかも正しい人間であるかのように装ういますから、そこから偽善、偽善者という意味が生まれてきています。
善きこと、善き行いを為しているようで、実際は、愚かで、偽って生きることしかできない。

主イエスは、「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と仰せになりました。
人が沢山集まる所で、人に見られながら祈ろうとする、それは、自分の立派な行い、善き行いを誇り、信心深い人として尊敬を受けるためだったのかも知れません。
そして、そのように人々から尊敬を受けることで、神さまが、これを善きこととして評価してくださるに違いないと、自分に言い聞かせていたのでありましょう。

異邦人とは、神を知らない人、神に知られていない人という意味です。
その人々は「くどくどと述べ」、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」、と仰せになりました。

「くどくどと述べる」というのは、「どもる」という言葉から来ていますが、それは異邦人たちが、呪文のようなわけのわからない言葉を繰り返したり、多くの神々の名前を羅列して祈っていたので、そのように言われていたようです。
呪文を唱え、あるいは神々の名を呼ぶことによって、神々を動かして自分の願いをかなえてもらうというのでありました。
そこでは祈りが、神様を自分のために動かす手段とされていました。
神様を動かそうとする祈りは、どうしても、くどくどと、言葉数多くなりましょう。
自分の願いが、一度祈っただけで聞き入れてもらえるとは思えない、二度三度、繰り返してお願いしなければ聞いていただけないと思うからです。
日本にも、「お百度を踏む」という言い方があります。願いごとをかなえてもらうには、百度繰り返して祈り願う、そのくらいすれば、神様も聞き入れて下さるかもしれない。必死の願いがそこに託されます。

主イエスは、偽善者のよに祈るな、異邦人のように祈るなと仰せになり、まことに善きこと、善き祈りへと、招いていてくださいます。

そして、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と仰せになり、
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と仰せになりました。

天の父は奥まった、隠れたところにおられ、あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じである。
主の祈りの言葉が、弟子たちに示されたのは、その直後のことでありました。

私たちの祈り、教会の祈りは、多様な響きをもって祈られますが、すべては、主の祈りに集約されます。
主の祈りによって祈ることを知り、主の祈りへと私たちの祈りが導かれます。

この主の祈りですが、今日、教会では、いつでもこれえを唱えます。小さな子供にも、また求道者の方々にも、これをお教えして、一緒に祈るようにと勧めるのであります。ですから、いつの間にか主の祈りは誰にでも開かれた、親しみやすい祈りとなりました。
ところが、元々「主の祈り」は奥義として伝えられ、唱えられてきました。
「奥まった部屋で」「隠れたところにおられるあなたがたの父に」と語られているように、限られた、奥まったところで、祈られてきました。
たとえば、古代教会では、主の祈りを学ぶことが出来たのは洗礼を受けた信者だけであった、と言われています。それは、信者だけが与ることの出来る聖餐の礼拝において、唱えられたからであります。

ルカ福音書にも、主の祈りが伝えられていますが、マルタとマリアの物語に続いて、取り上げられています。 姉マルタは、客人が来られたというので、忙しく接待のために労していました。しかし、妹マリアは主の足もとに座り、主の御教えに聞きいっていたのでした。
姉マルタが、腹を立てて、主イエスに、マリアに手伝うように申してくださいと言ったとき、主イエスはこうお語りになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアやその良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。
み言葉に聞き入るマリアのことを語る物語に続いて主の祈りが取り上げられています。
主の祈りが、み言葉に結ばれて、み言葉に聞き入る交わりの中で祈られたということを示しているのだと思います。
主イエスの十字架と復活、その恵みを記念し、主のご臨在を味わい知るみ言葉と聖餐へと招かれて、祈りがささげられるのでありました。

恵み深い御手と、その眼差しのもとで、祈りがささげられます。
御子をお与えになって、私たちに救いの道をお開きくださったのは、天の父なる神さまであられます。
神様が独り子を遣わして下さったのは、人間が祈り求めたからではありません。神様の恵みのみ心によることでした。
そして御子、主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。
私たちが求めない先に、神様は、愛する独り子を遣わし、その十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、神の子として下さる恵みをお与えくださったのでした。
私たちに本当に必要な救い、恵みを、神様はこのようにご存じであり、それを、私たちが願う前に、与えて下さいました。

もはや、誰でも、よこしまな人間性を覆いかくし、あたかも正しい人間であるかのように装う必要はありません。
主イエスはご自分の父なる神様を、ここで繰り返し、「あなたがたの父」と呼んで下さっています。
神は独り子の命をも与えて、私たちを愛して下さった。それは、私たちの父となり、私たちを子として愛して下さっているということです。私たちはこの、主イエスの父であり、私たちの父となって下さった神様の恵みのまなざしの中で生かされています。
この天の父のまなざしを覚え、その中で、神様の子として、父との交わりに生きる。それが主が招いてくださった私たちの祈りの生活であります。