matt10/5-13

説教 マタイによる福音書10章5ー15節
「何も持たないで」

 主イエスは弟子として12人を呼び寄せ、ガリラヤ地方の町や村へとお遣わしになりました。

12弟子の名前が、この直前、1-4節に、記されています。
ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダ。
主イエスの周りに集まり、その教えを聞き、主の後について来ていた人はもっと沢山いましたが、主はその中から、この十二人を特別に選び出されたのでした。

12の弟子の、12というのは意味のある数字です。イエスさまにはたまたま12人のお弟子がいたというのではありません。
12とは、旧約聖書では神の民として選ばれたイスラエルを構成する部族の数と同じです。すなわち、12弟子をお立てになったということは、天の国の民、新しい、まことの神の民を呼び集めるためでありました。

今日は、12弟子をお遣わしになったときに、主がお語りになった言葉の中から、2つのことに心を留めて神さまを賛美したいと思います。

最初に、9節をご覧ください。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」と記されています。

ここに記されているのは、旅人の足どりを支えるものです。当時の旅人には無くてはならないものでした。
袋というのは、旅のために必要なものを入れるバッグのようなものです。そこにはパンや予備の下着などを入れるはずであります。それらは帯の中のお金とともに、全て旅人の道行きを保証します。旅人はそれによって支えられるのであります。
しかし、主イエスはそれら一切のものを持たないで行きなさい、と言われたのでした。
最低の条件で、というのではないようです。これでは旅ができない、そういう身なりをイエスさまは要求されたのであります。ただこの弟子たちを受け入れる人々がいる限りにおいて、その旅路は続けられるのであります

このイエスさまのお言葉はいかにも厳しい言葉ではないでしょうか。
いったい、わたしたちはこの言葉をどのように聞いたらよいのでしょうか。
ある人は、この言葉によって人生を変えました。アジッシのフランチェスコです。フランチェスコは、裕福な家庭に育ちましたが、一切を捨てて、修道僧になり、イエスさまのお言葉を理想として歩んだのでありました。
しかし、それは誰にでもできることではありません。
亀井勝一郎さんという方をご存知だと思います。もうとっくに召されておられますが、仏教徒になられた知識人です。この方が、まだ道を探していたとき、聖書に親しみ、キリスト教にも近づかれたのであります。
ところが、このイエスさまのお言葉に強く引っかかりを覚えた、というのです。そして、この言葉を生き抜く事はできないということを悟って、キリスト教から離れて仏教徒になられた。この方に言わせれば、キリスト者だと自認する人は、この言葉について明確な理解をもち、実践を示していなけらばならない、ということになるのかも知れません。

主イエスのお言葉は、まれにみる特別な人だけが受け入れることができる言葉なのでありましょうか。
そうではないと思います。
イエスさまは、これを気ままに語られたのではなかったと思います。

主イエス・キリストは弟子たちに力と権能を授けて天の国を宣べ伝え、病気を癒すようにと遣わしたその時、どうしてもこのような貧しき身なり、何も持たない姿をお求めになったのであります。
この姿において、12の弟子は天の国の力と権能とを示すことになる。そうイエスさまは言われるのです。

この主イエスのお言葉の背景には、ユダヤ教のタルムードの言葉があると聖書の研究者は申します。
こういう言葉です。「神殿に行くときには、杖、靴、財布を持って行ってはならない。また汚れた足で行ってはならない」。
神の宮に入るときに、何も持って行ってはならない、と教えています。そして、この言葉の由来は、旧約聖書のモーセの物語にあるのだ、というのです。モーセが、神の臨在の体験をした時、まずその靴をぬぐことを求められました。履き物を脱ぎ捨てて、立たなければならないとことに立ったのです。それは神のみ前です。
イエスさまはここで、何も持って行くな、とお命じになるのは、常に神と共に、神のおられるところを歩み続ける。そのような旅を、弟子たちのために備えられた、ということなのです。

ある無教会の指導者が、この弟子たちの姿について、こんなことを書き残しておられます。
「旅姿は簡単に、行動は自由に、春風の吹くようにひょうぜんとして来たりひょうぜんとして去ることが、伝道者にふさわしい」「伝道者は神に遣わされ、神のまもりの中にあるものだから、身軽に旅行すればよい。」
ひょうぜんとして、身軽に。と言うのです。
わたくしは、最初、この文章を読んで、納得しませんでした。何か軽々しい解説に思われました。しかし、考えなおしました。イエスさまは身軽さ、確かに、ひょうぜんとした身軽さを、弟子たちにお求めになったのだ、と思いました。
わたしたちはいろいろな物に執着します。自分の手の中にあるものを見ては、どうしてもこれがなければだめだ、と言って執着します。それが自分を支えている、と思いこむことがあるのです。そして、神様にこのわたしの手の中にあるもの、これをわたしたが失うことがないように、と祈ったりします。それを奪われるとなると、必死に抵抗するのであります。
しかし、たいがい、自分の手の中にあるもの、自分の持っているものは、それほど確かなものではありません。愚かでさえあります。
溺れる者わらをも掴む、と申しますが、わらのようなものを必死に掴んでいる。それが分からないのです。
神学校に入りまして、始めの頃のことです。ある教師が私たちに「君たち、わらを掴んではだめだよ。溺れる者わらをも掴む、というけれども、そのわらから手を離さなければ信仰のことは分からない」と言われた事を今でも覚えております。わらを離せ。
神の前に、神の御手のもとに生きるようにと言われたのでありました。身軽さ、ひょうぜんとした身軽さ、というのはわらから解放されている信仰の姿を言い表しているのだと思います。
主イエスは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」と仰せになりました。

次に、12節をご覧ください。
「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」そう仰せになりました。
そして、続けて13節に、「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」と記されています。

「平和があるように」とは「シャーローム」という言葉です。
「シャーローム、平和があるように」という挨拶をする、それが弟子たちが遣わされた先でなすべきことだと言うのです。
これはただ単に、挨拶をするということではありません。弟子たちは平和、シャロームを携えており、平和を与える力を持つということです。

お金も何も持たずに、自分の力や蓄えによるのではなく、ただ神様からの養いと導きに身を委ねて遣わされていく弟子たちは、神様の恵み、憐れみのみ心を信じて、それにこそより頼んで歩む他はありません。
それは、神様から本当の平和を与えられているということです。

神様がただで与えて下さった恵みをいただいて、それによって生きている、それにこそ寄り頼んで歩んでいる人。そこに、本当の平和があり、またそのような人こそ、人に平和をもたらす者なのであるというのです。
ここには、相手の人々が、その平和を受けるにふさわしい場合とふさわしくない場合があることが語られています。
相応しいとは、それを恵みとして受けることです。つまり自分の中の蓄え、自分が持っているもの、自分にはこれができる、ああいう力があるという思いを捨てて、ただ神様の恵みを感謝してお受けするという心です。

主イエスは山の上の教えの中で、「地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい」と仰せになりました。6章19節です。その主のお言葉はこのことを教えている言葉です。
自分の中にどんな富、豊かさがあるかではなく、天の父なる神様が備え、与えて下さる富、恵みに信頼し、寄り頼んでいく、そこに富が天に積まれ、シャローム、まことの平和がわかたれるのであります。

ここに記されている弟子への言葉は、今日、わたしたち教会に向かって語られてもいます。
わたくしたちは弟子達と同じ様に、キリストの名代、キリストの代理者として立てられています。
ですから、教会は罪の赦しを与える洗礼を行うことが出来るのですし、キリストのご臨在を示す聖餐を執り行うことが出来るのであります。
しかし、それらは全て教会を建て、教会を遣わされておられる主イエス・キリストによってなされることであります。このことによって、教会はキリストが自分と共に生きて働いて下さっていることを知らされ続けてきたのです。
このことを知らされ続けることによって、教会は教会であり続けてきたのです。事を為されるのはキリストご自身であります。

ただ今から、聖餐に与ります。キリストの体と血に与り、キリストの命を受けます。この聖餐に与る者は、キリストが共にいて下さるということを身をもって味わうのであります。このキリストが共におられることを知らされた者として、私共はここから遣わされてまいります。
キリストを知らない世界に、まことの平和、シャロームがあるようにと挨拶をするために遣わされていまります。