matt6/25-34

説教 マタイによる福音書6章25-34節
「まず、神の国と神の義を求めなさい」

 今日は、思い悩むな、と仰せになった主のお言葉を読んでいただきました。

「思い悩む」という聖書のギリシャ語は、メリムナオーという言葉です。思い煩うとか、不安で悩む、懸念する、と訳されます。
もともとは、自分の心がいくつにも分裂している、心がちりぢりになってしまうことです。
神さまと結ばれている心が、神から離れてしまい、分裂し、ばらばらになってしまうということです。

ある宣教師の先生のご夫人が、こんなことをお話ししてくださったのを忘れないで覚えています。
姪ごさんの結婚式があった日のことです。その日、姪御さんに小さな、しかし、大切なプレゼントをあげる約束をしていました。
それは、二人にとって記念となる、ある「ゆわれ」のあるコインでした。
ところが、結婚式に出かけようとしたとき、そのコインが見つかりません。思い当たるところを探しましたが、無いのです。それで、慌てたというのです。
慌てて、他に思い当たるところを、急いで探した。それでも見当たらないので、いよいろ、心配になり、だんだん顔の表情も険しくなり、言葉も穏やかさを失い、途方にくれるという有り様だった。心が、ちりじり、ばらばらになってしまって、落ち着くことができなかったのでした。
それを見ていたのが、小さな息子さんでした。その子がお母さんに、「お母さん、神さまにお祈りした」と言ったのでした。
常日頃、お母さんから、いつも神さまにお祈りしなさい、と教えられていたのでしょう。その時、小さな息子さんが、お母さんに向かって、「神さまにお祈りした」と言ったのでした。
その時、この宣教師の奥さまは、ハッとしたというのです。わたしは、コインが見つからないといって心を騒がせていたけれども、わたしはもっと大切なことを見失っていた。神さまに信頼し、神さまの御守りのなかで、生かされているということ、そして、祈るということを忘れていた。神さまを見失っていたということに気付かされた。そして、祈った。
そういうお話しでした。

「思い悩む」とは、自分の心がいくつにも分裂している、心がちりぢりになってしまうことです。
神さまと結ばれているはずの心が、神から離れてしまい、分裂し、ばらばらになってしまうということです。

ある人が、「人間とは思い悩むものである」と言いました。なるほど、人は生きているかぎり思い悩むものではないかと思います。

主イエスは、しかし、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と仰せになりました。
烏も餌を必要としています。物の本によりますと、鳥というのは、良く食べるそうです。食べなければならないそうです。
なぜ、良く食べるのかというと、空を飛ぶために、たくさんのエネルギーが必要だからだそうです。
空高く、空中散歩をしている鳥を見ると、優雅だなあと思いますが、そのために、沢山の餌を必要とし、いつもいつも餌を探し求めている、それが鳥だそうです。
しかし、烏は種を蒔くわけでも、刈り入れをするわけでもない。まして、納屋も倉も持たない。神は烏を養ってくださる。

また、主はこう仰せになりました。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、」
花ははかないものです。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草」と書かれていますが、まさに、そのようです。
パレスチナでは、おそらく、花の季節は短いと思います。そして、花も草も、枯れてしまうと、いっしょくたんにされて燃料として燃やされたそうです。
その、はかない花ですが、美しく野に咲く。

「野原の花」と訳されておりますが、前の口語訳聖書は「野のゆり」となっていました。
聖書にでてくる草花に関心をもっておられる方がいらっしゃいますが、そういう方はご存知のとおりに、聖書に出てくる草花を、何の花であるか、何の草であるかと判断することは難しいようです。
今日のところも、そうでして、以前には「野のゆり」としていましたが、今は「野原の花」と翻訳しています。ガリラヤの丘陵地帯に咲く草花を、一括して言い表しているのだ、という判断からです。
聖書の研究者の中には、「アネモネ」ではないか、という人もいます。アネモネの中には赤紫のものがあります。紫というのは、高貴な色です。「野原の花」がソロモンの栄華と比べられていますが、王様の着ていた衣服は紫色であったと言われているので、同じ紫の花、「アネモネ」のことだろうと言うわけです。

「野原の花」がどんな花なのかわかりません。しかし、野に咲く花は美しいものです。
けっして派手ではありませんが、色が鮮やかです。言葉でどう表現してよいのか、紫の花を見ますと、紫というのはこんなに美しいものか、と思いますし。黄色い花を見ますと、こんなに澄んだ黄色の色があったんだなあと思わされて、心が奪われます。
どんなに技術をつくしても、人間がこんな色合いを作れはしないと思います。どんなに立派な王様の衣装でも、どれほどの刺繍や飾りが施されていても、野原の花には勝てないでしょう。

その花は、「働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」「神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、」 主イエスは、そう仰せになって。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」とお語りになりました。

主イエスは、人が生きるための思い悩み、努力、そのような骨折りを、滑稽なこと、空しいこと、と言っておられるのでしょうか。そうではないと、思います。
初代教会のキリスト者の中には、主イエスの再臨がすぐにやってくると思って、また、主イエスの思い悩むなという言葉を誤解して、働く必要がないと考えていた人々もいたようです。使徒パウロの手紙を読みますと、そんな人たちがいたということが分かります。
使徒パウロは、そういう人たちに対して、思い違いをしている、静かに、落ちついて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい、と諭しています。

主イエスは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と仰せになったのでありました。
命と体、という言葉がここに書かれています。命と翻訳されている言葉は、普通わたしたちが考える命とは違いまして、「魂」という言葉です。魂と言っても、ただ単に、私たちの心、あるいは、心の核になるような、精神的な人間の働き、というだけではありません。それは、神さまと関わりを持って生きることを得ている、その人間の命のことです。
ただわたしたちは生きているのではない、神に生きている。神の国に生きている。神の支配に生きている、そういうわたしたちの命のことです。

神さまとの関わりで生きるということは、ひとりだけのことではありません。ましてや、心の問題だ、というのではありません。体の営みでもあります。人と人との結びつきが、神のご支配のもとに与えられます。
そういう命と体のことを、主イエスは仰っておられるのです。
思い悩むことなしに生きることの出来ない、この地上のわたしたちの生活です。そのわたしたちの営みは、神に生きる生活そのものであり、神の国と結ばれ、神のご支配のもとで生かされているのだ、と主イエスは仰っていてくださるのです。
それが、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」という言葉の意味です。

昔から、聖書の人々は、慎重に、しかも、平静に人生を生きなければならないことを教えられてきました。
そのためには、こどもたちには職業訓練をほどこす必要がある、と心得ました。落ち着いて生きることができるためにです。
しかし、同時に、こんな言い草もありました。「かごの中に、パンを持ちながら、『明日は何を食べようか』と聞くのは、信仰の薄い人である」。

主イエスも、私たちが怠惰であってよいとか、人生のいろいろなことに心配るのは愚かしいことだと、言っておられるのではありません。
あるいは、将来に備えて何もすることはないと言っているのでもありません。
そうではなくて、日ごとの生活、思い煩う一日一日の歩みも、神を信頼し、信仰をもって生きるべきこと、そのことに心を向けて歩むようにと、言われるのであります。

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」そう、仰せになります。

このお言葉の中では、わたくしたちのなすべきこと、私たちの日ごとの思い患いと労苦は、天の父なる神の配慮に包まれて、隠れてしまっています。
私たちの生活はすべて、私たちの手の中にではなく、ただ神の御手の中にあるのだ、と主は言われるであります。
私たちが自分の手の業をなすとき、たとえ、いろいろなことに心を配ることがあっても、一切は、神の御手の中にあることを信じ、信頼すること。少しも自分を信頼するということしないで、神を信頼するようにとお教えくださいます。
わたしくたちのなすべきことについては、隠れて、見えなくなる。わたしたちの手の業は背後に退くのであります。

この徹底して神を信頼するように、との主の呼びかけについて、ある神学者が、ここに福音が語られている、と申しました。
律法の陰がない。
「思い悩むな」という言葉が、たとえ戒めであったとしても、それは福音における律法、福音そのものとして示されている。
徹底して神を信頼するように、わたしたちの為すべきことが隠れて、見えない。見る必要がない。そのように語る主のお言葉に、福音を読みとるのであります。

こう記しています。
神はわたしたちの協力なしに、ただイエス・キリストの愛のみによって、わたしたち人間をご自分の子どもとして受け入れてくださいました。したがって、私たちの協力なしに、ただひとりイエス・キリストの愛のみによって、実際に、全くすべてにわたって、徹底的に、わたしたちをお救いくださったのです。これが福音です。
神ご自身がわたしたちに近づいてくださることによって、神と遠く離れているわたしたちをお救いくださいました。
神がわたしたちと等しくなり、わたしたちの兄弟となることによって、わたしたちをお救いくださった。
神はわたしたちをご自分のものとなし、ご自身を我らの主とすることによって私たちをお救い下さった。
神が私たちを選び、ご自身の枝とし、永遠の命を継ぐ者として召してくださった。
神はわたしたちの過去・現在・未来の罪を私たちに負わせることなく、御自らこれを引き受け、これを背負い、死んでくださることによって、わたしたちを赦してくださいました。このことによって、神は私たちをお救い下さったのであります。
私たちの協力なしに、ただ独り、イエス・キリストにおける愛のゆえに、従って、あらゆる他の助けをかりることなく、ただ、そのことによってのみ神は私たちをお救いくださった。
それだからこそ、思い悩むなという主のお言葉の中には、わたくしたちの為すべきことが退いていて、隠れている。福音の背後に退くのであります。

「神の国と神の義とを求めよ」、ここにいたって始めて、わたしたちの為すべきこと、わたくしたちの追い求めるべきことが、記されます。
神の国と神の義とを求めよ。

これは、あなたがたに許されている、と主がお語りくださる言葉、わたしたちへの賜物です。
次のことを語っています。
神の助けによって自分を信頼することがあとを絶つならば、その時こそ、かえって、わたしたちの努力・労作・戦いが目当てをもってくる。
わたくしたちが自分で勝ち得た収穫や自分で選び定めた目的ではなくて、まことに私たちが求める第一のもの、何事にあっても、求むべき唯一のものが与えられる、ということです。
神の国、神の義、とは、神の救いの福音が、私たちの協力なしに、ただイエス・キリストにおける神の愛によって、神の栄光が輝き、力を発揮する場所です。
わたしたち人間が聖霊の御力によって福音を信じ、その力を認めるばかりか、自由な心から、これを受け入れる場所です。
そこでは、イエス・キリストの御言葉がわたしたちの生活と切っても切れぬものになり、これを切り離す企ては、ただ愚かしいばかりでなく、不可能なのであります。

神の国と神の義とを求めよとは、神によりたのみ、神の言葉の下にたち、み言葉にとどまる。そこで示される、一日一日の労苦に他なりません。