matt9/18-26

説教 マタイによる福音書9章18ー26節
「平安に生きよ」

今日は、一人の女性が主イエスに救いを求めた、その信仰に心を留めたいと思います。

わたしたちは時々、自分の信仰のありようについて、反省をしたり、問いを抱いたりいたします。
主イエスが喜んでくださる信仰者でありたい、と願う心から、自分の信仰のありようは正しいだろうか、信仰者とよばれるに相応しい姿を示しているだろうか、と問うことがありましょう。
そのように問いながら、ある時には、自分は信仰があるといえるか、と自分を責める時もあるかも知れません。
信じているつもりでも、まことにたよりない、信仰があるかないか分からなくなってしまっているということもありましょう。

今日の物語には、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」とお語りになった一人の女性。その姿をとおして、何か相応しい信仰のことが記されています。

主が「娘よ」と言っているところから、この女性はまだ若い婦人でありましょう。そうだとすると、その半生はほとんど病の中にあった、ということになります。
出血の止まらない病気です。ユダヤ人の立場から考えると、この女性がわずらっている病気ほど、恐ろしく、また惨めな病はなかった、と言われます。
ことに、この病気が恐れられていたのは、この病に患った人は、汚れたものとみなされたからであります。
モーセの律法、旧約聖書の中に、(レビ記15章25節)次のような戒めが書かれています。「もし生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる」。
出産後の期間や女性の生理の期間について定めている法律です。本来、これは身体を保護するものであったようですが、宗教的な意味で、汚れ、すなわち神にふさわしくない姿を定める掟になっていったのではないか、と言われています。
汚れたとされる人がさわったものは、人であれ物であれ、すべて汚れたものとなりました。その人は神を礼拝することも、ほかの人と交わることも絶対にゆるされませんでした。
ですから、この女性が、人と隔てられ、悲惨な生活から何とかして逃れたいと願ったのは、無理もないことでありました。

この印象深い物語は、他の福音書にも伝えられています。マタイ福音書は実に短く簡潔に記されていますが、他の福音書には、もっと詳しく記されています。
それによりますと、彼女は多くの医者にかかったけれども、なおらない。そのために全財産を使い果たしたほどであった、と記されています。
手だてを尽くして、しかし、治る当てがない。その病は12年も続いている。
ところが、この婦人が、主イエスを見ると、「この方の服に触れさえすればなおしてもらえる」と思って、近寄って、後ろから主イエスの服の房に触れました。

ところで、この婦人の信仰を軽く見積もったり、批判的に見る人もいます。
それは、日本的に言えば、お地蔵さんをさすれば病気が治るというような迷信に似ているからです。
西洋にも、聖人と呼ばれる人々の残した物や、その人のまとっていた衣にふれることによって、病気が治るといった迷信があるようですが、それと同じようにイエスさまの衣の房にさわっただけではないか、そう思われるのです。
バチカンには、使徒ペトロの像があります。そのペテロ像に、やはり多くの人が触れるようです。人々が触れるところが光っています。
ある聖書の研究者は、はっきりと、この女性の示している信仰は迷信的である、と言っています。この女性は、間違いなく不純な信仰をもって主イエスのところに来た、そう申します。

はたして、しかし、そうでしょうか。確かに、迷信的要素がないわけではないでありましょう。あるいは、この女性が、信仰についての深い知識があったようには思われません。自分の患いに全てが捕らえられていて、ただ、自分が癒されることにだけに、心が傾いている人のようにも思われます。

しかし、マタイ福音書は、この女性の中に、信仰みてとっており、それを描き出しています。
二つのことに目が留まります。

一つは、彼女が「救いを求めた」ということであります。
「治していただける」と思った、とわたくしたちの聖書は翻訳していますが、言葉をただ単純に、右から左に移し変えますと、「救い」「お救いくださる」と思った、となります。「救い」という言葉が用いられています。「あなたの信仰が、あなたを救った」と主が言われた、その「救い」と同じです。
この「救い」という言葉は、聖書では注意深く用いられています。
それは、ただ健康を取り戻すということではありません。一人の人間として、神さまの前に健やかに生きることができる、神さまに結ばれて生きる命を取り戻すという意味であります。
ただ、病気が治ればいい、と思ったのではありません。病気が治るということは大きなことです。しかし、それにもまして、神さまの前に健やかに生きることができる、神さまに結ばれて生きる命を取り戻すこと、それがこの女性の願いであったということであります。
ここに、この人の信仰を読みとることができます。その救いは、たとえ病の中にあっても、その人を生かすものであります。

他の福音書では、この女性に向かって、主イエスは「安心して生きなさい」と仰せになった、と記されています。安心して生きる。平安ということです。ヘブル語ではシャロームと言います。
平和、神さまに結ばれる平安です。
このシャロームは、日常の挨拶の言葉になっています。
ユダヤ人は、シャローム、平安、と言って挨拶します。
朝も、昼も、夜も、健康で健やかな時も、また、病人を見舞う時も、シャロームと言って挨拶をする。
神と共にある平安、そのことが最も深い慰めであり、望みであり、励ましだからでありましょう。

マタイ福音書は、主イエスはこの女性に「娘よ、元気になりなさい」と仰せになった、と伝えています。
この元気になる、という言葉ですが、勇気を持つ、勇気を抱くという意味の言葉です。「娘よ、勇気を持ちなさい」そう翻訳しても良い、言葉です。
元気になる、それは、神が共にいてくださる、その平安のなかで、勇気を与えられているということです。
その平安、勇気、救いを、何よりもこの女性は求めました。そのことが彼女の心を支配していたのであります。
それが、ここに見られる、信仰であります。

第二の点ですが、それは、もっと鮮やかに信仰が描き出されています。それは、この女性が主イエスの服の房に触れた、触れてもよい、と思ったということであります。
そこに、彼女の信仰が現されています。

信心深いユダヤ人、信仰に誠実であろうとする人たちは、自分の着る服に房をつけたと言われます。
今でも、敬虔なユダヤ教徒は、祈るときに肩にかけるショールに房をつけています。
迫害をうけた、長い歴史をユダヤ人は持っていますが、迫害の時代には、その房を下着につけたと、言われています。
房をつけること、それは、守り続けられています。イエスさまの時代には、上着の四隅に房をつけていたのであります。
それは、旧約聖書の民数記の言葉に由来します。その房は、神に選ばれた民、神の民の一人であることを証明するものでした。そして、衣を付けたり脱いだりするたびに、自分が神に属していることを思い起こすのでありました。
たとえば、何か悪いことをする。間違ったことをする時に、ひょいとその房を見て「ああ、自分は神に属する。だから、その神の聖さに見合った生活をしなければならないのだ」「律法に従った歩みをしなければならない」ということを思い起こした。
神に属する者であるということを覚えているために、房をつけていました。

ここに登場する女性の場合は、勿論ちがいます。そういう房のある衣を着ることが出来ない女性です。
病のゆえに、汚れていたからです。その彼女の目の前に、聖なる房が見える。常識からすれば、触ってはいけないものです。
彼女に触れられた男は、驚いて飛び上がるはずです。神聖な房に、汚れた女が触れることによって、自分が汚されてしまうからです。
けれども、この女性は、主イエスの衣の房にさわろうと思ったのであります。ひどいことをする女だと思われるかも知れない、しかし、主イエスの衣の房にはさわってもよい、そう思ったのであります。
それが、彼女の示した信仰です。
主イエスの房、その聖さには、さわってもよい。触れることが赦される。そう信じることができた。

彼女が触れれば、主イエスは汚れることになりましょう。しかし、主はそれをお赦しになり、そのことによって、このわたくしをも清くしてくださる。お救いくださる。神さまのまえに健やかなもとのしてくださる、と信じた。

イーヴァントという神学者がドイツにおられました。優れた説教者として知られていますが、宗教改革者マルチン・ルターの研究者としても有名な方であります。この方の書かれた書物の一つに、「ルターの信仰論」という小さな本があります。
マルチン・ルターはご存じのように「信仰によって、キリストによって私たちは救われるのだ」という聖書の福音を再発見して、16世紀のヨーロッパで宗教改革をもたらした人です。私たちの教会のようなプロテスタント教会の始まりであります。
「ルターの信仰論」という書物は1940年といいますから、もう70年前に書かれた古い書物ですが、10数年前に日本語に翻訳されました。ドイツ語で書かれてから何十年も後に、改めて日本語に翻訳されるというのは、この書物の評価が高く、長く読まれ続けている、多くの人々の信仰を養っている書物である、という証拠でもありましょう。
この書物の中に、マルチン・ルターの有名な言葉を取り上げて、次のようなことを記しております。
キリストのもとにある信仰者というのは、「罪人であり同時に義人」と言い表すことができる。それは、こういうことだ、と言うのです。
恵み、神様との交わりについて、一般には、私たちの内に罪がもはや認められなくなった時に神との交わり、その恵みが私たちに開かれる、と思われている。反対に、罪が認められるところでは、恵みは失われている、と思われている。けれども、それは違う。そうではない。
そうではなくて、人が失われた者であること、すなわち罪を認識し、汚れ、絶望している人間、まさにその人間に、神は近くいます。それが真実である。
罪人であることを深く認める、そこに真実に信仰が生きるのだ、というのです。
そのことをキリストは私たちに教え、ご自身を差し出していてくださるのだ、と、そう記しています。

12年間も病で苦しみ、汚れを身に負った婦人が、イエスさまの衣の房に触れました。イエスさまが聖なる方であり、神のものであられる。そのしるしに触れました。それをイエスさまは信仰であるとおっしゃる。あなたの信仰があなたを救ったと言われるのです。

主イエス・キリストは後ろからご自分の服にさわった人を捜し出すために足をお止めになりました。
救いを求める一人の人に心を留められます。

そして、主イエスは、彼女の存在そものも、その生涯、そして、その信仰、そのすべてを受けとめておられます。ご自分の御手の上に、彼女を置きます。
ささやかな信仰、誤りもそこに宿っているであろう彼女の信仰をも、ご自分の御手の中にお包みになります。そして、ご自分の御手によって、その信仰を、また、彼女のすべてを、新しくされる。お救いになるのであります。