mat12/46-50

説教「あなたは主の兄弟、姉妹」
マタイによる福音書12章46ー50節

 主イエスは、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と仰せになりました。

新約聖書にエフェソの信徒への手紙という小さな、しかし、大切な手紙があります。使徒パウロが書いたと言われています。その2章19節に、次のように記されています。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」

昔、イスラエルの人々は自分たちを神の家族と呼んでいました。神様が特別にお選びになって、宝の民、神の愛する家族とされたからです。恵みと祝福はこの人々のものでした。神がご自分の国をお立てになるとき、神の国を受け継ぐのはイスラエルの人々であると考えられておりました。
ところが、新約聖書では、エフェソの信徒への手紙にあるように、神のひとり子であられる主イエスのもとに集められた者たち、すなわち、教会が、教会に連なるひとりひとりが、神の家族である、と記しています。たとい異邦人であっても、イスラエルの人々から見れば外国人であっても、今や、神の家族である。神の国を嗣ぐものである、そう告げています。
これは、まことに大きな慰めであります。

今日の聖書の言葉によりますと、それは、主の周りに集まって主のお語りになる言葉に耳を傾け、天の父の御心を行う人が、それである、というのであります。

短い記事ですが、同じ出来事がマルコ福音書にもルカル福音書にも記されています。
マルコ福音書では、主の周りに座っている人々にむかって主イエスは「見なさい、ここに私の母、私の兄弟がいる」と仰せになったと書かれています。
主の周りに座っているというのは、主の教えに耳を傾け、聞き入っているということです。
当時、自分の先生から教えを受ける時、弟子たるものは座ったのであります。座って教えを学び、聞きました。
ですから、主の周りに座っている者というのは、主の教え、主の言葉に耳を傾けている人々、という意味です。
そして、この人々こそ、神の御心を行う者である。と主は言われるたのでした。

注意していただきたいのですが、主は、何か善い行いをしている人をご覧になって言われたのではありません。ご自分の言葉に耳を傾けている者たち、それが「神の御心を行う者」であり、わたしの母、兄弟、姉妹なのである、と言われたのであります。
聞くこと、み教えに耳を傾けること、主の周りに座ること、そこに、行うこと、神の御心に生きるということが始まる。それで、この人々こそ神の御心を行う者であり、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである、とお語りになったのでありまあす。

ところで、わたしたちは、主イエスがご自分の家族、母マリアや兄弟たちを外に残したままであり、置き去りにしておられる、ということに、何か腑に落ちない思いをいだくのではないかと、と思います。
血は水よりも濃い、と言われます。血のつながった親と子の結びつきの深さを、わたしたちは良く知っています。
母親は時々涙を流します。ことに自分の子どものことで涙を流すことが多いのではないかと思います。子どもはある時、その母親の涙を知って、何か大切なことを心に刻むものです。
イエスさまと母マリヤとの間に、そのような親子の深い愛情が流れていないはずはありません。
この時も、マリアは目に涙を浮かべていたかも知れません。

しかし、そのような親と子の間柄でありますが、時に、親であるが故に、子を子として理解することが出来ないでいる、ということもありましょう。
46節を見ますと、母や兄弟たちは、イエスさまに何か話したいことがあって外に立っていたと記されています。マルコ福音書では、気が変になっているのだ、という人々の噂を聞いて、取り押さえに来た、と書かれています。
穏やかなことではありません。母や兄弟たちから見ると、その時、主イエスは本来あるべきところにいないで、人の道を外れてしまっている、と思えたのかも知れません。

ある聖書の注解書を読んでいましたら、マリアや兄弟たちが、どうしてイエスさまを捜しに来たのか、その理由をこんなふうに説明しておりました。
彼らはイエスさまが長男としての責任から身を引いてしまっている。父ヨセフのなき後、一家を支える責任はその家の長男イエスさまにありました。おそらく、兄弟たちもそれぞれ大人になる、そういう時期を迎えていたことでしょうが、長男としてのイエスさまを頼りにしていた。自分たちの面倒をもっと見て欲しい、それなのに、すべてを放棄して出ていってしまった。正常な人間ならそんなことはしないのだ、と家族の者たちは思っていたに違いない、というのです。
これは、一つの推測です。主のご家族は、このとき、無理解であったのだという解釈をしているのです。

しかし、それにしてもご自分の家族をあえて外に立たせたままである、ということに、私たちは心穏やかならざるものを覚えるわけであります。

私たちは、わたしたちに救いが与えられたということを感謝すると共に、いつでも心に留めているのは、自分の家族の救いのことではないか、と思います。
私たちが神の家族であると言うことを教えられながら、私たちは一方でいつでも自分の家族のことについて、その救いのことについて考えさせられるのではないかと思います。
この時、イエスさまがご自分のご家族について、少しもお考えになっておられない。そっぽを向いてしまわれている、そんな印象を受けるのです。それで、戸惑うのであります。

主イエスは、ご自分のご家族のことを顧みておられないのでしょうか。そんなことはないと思います。
主イエスが深い愛情をもってご自分の母や兄弟たちを顧みておられた、ということは、福音書を読めば、明らかであります。
ことに、主が十字架につけられたとき、ヨハネ福音書には、そこにおられた母マリアを、愛する弟子と呼ばれた一人のお弟子に、お委ねになった、ということが記されております。
そして、母マリアは、やがて教会の中に生き、教会の仲間と共に、その生涯を全うしたようですし、使徒言行録を読みますと、主の兄弟ヤコブという人のことが記されていて、この人はエルサレムの教会の指導的な立場にあって、その務めを果たした、ということが書かれております。

そうでありますから、自分のことを誤解して、ご家族が外に立っているのを知った時、主は悲しみをお覚えになったことでしょう。それだけに、ご自分のもとに来てもらいたい、まことの神の家族として迎えたいと、どんなにか思われたことかと思います。
そうだとしたら、わたしたちは、この聖書の箇所を読んで、イエスさまのご家族は、イエスさまを誤解していたのだから、外に放っておけばいいのだ、それよりも、主の下に集っている者たちこそ主の兄弟、神の家族なんだと、割り切ることはできないと思います。

確かに、神の家族であるということは、血のつながり、自然のつながりを超えた、新しい交わり、関わりであります。しかし、この聖書の箇所には、主がご自分のご家族を救いへと招いておられる、そのことを示す大切なことが、何か記されていると、思うのであります。

そこで、大切な一つの言葉が、ここには記されているように思われます。どうしても気にかかる言葉であります。それは、「外」という言葉です。
47節にも記されています。「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます。」

主イエスはその言葉をお聞きになって、ご自分のご家族を外に立たせたまま、弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と仰せになったのでありました。

いつかもご紹介したことがあると思いますが、20世紀スイスに優れた一人の神学者がおられました。説教家としても知られています。この方が大学の神学部の学生に神の言葉を語る説教について、説教とは何か、どのように説教を準備したらよいのか、そういうことについて講義したことがありまして、それが書物になって出版されています。
東京神学大学で学びます者は、必ず読まなければならない書物の一つです。そして、牧師になっても、しばしば読み返す書物でもあります。
この書物の冒頭に、こんなことが記されています。
説教者として、一番良い状態、好ましい状況というのは、どのような時か、ということについてです。
この神学者は、牧師としてこれから立とうとする神学生に向かってこういうのです。「君達は、神学部で沢山のことを学んだ。そして、教会で話すべきことを沢山蓄えたことだろう。説教の材料は山ほどある。そう思っている。しかし、教会に赴任して半年もたってごらんなさい。それらのものは、すぐに使い果たしてしまう。そして、何も持ち合わせが無くなってしまう。何を説教して良いか分からなくなることだろう。しかし、その時、君たちは説教者として、最も良い条件を得ることになる」
この神学者は、誰もが経験する説教者としての困難をあらかじめ教えて、若い伝道者を励ますと同時に、神の言葉を聞き、語ることの秘密を解きあかしているのであります。
説教者として話す材料が無くなる、それは、見放されたような気持ちになるものであります。語る言葉がないのです。外に放り出されてしまうような経験です。しかし、その時にこそ最も良い聞き手になるのだ、というのです。

神の言葉を聞く、それは外に立たされるような経験が伴う、ということであります。

主イエスはわたしたちを外に立たせることがあるのです。分けが分からなくなる、腑に落ちない経験をする、信じる心が萎えてしまう。そのような経験です。
そのような経験を、好んでしたくはありませんが、主イエスが私たちを外に立たせることがあるのです。
しかし、その時、主は私たちに良い耳を備えてくださり、良い聞き手としてくださる。

主イエスは、外に立っている母マリア、兄弟たちを、この時も、ご自分のお語りになる言葉を聞くことへと招いておられたのではないかと思います。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
主イエスは、そう仰せになったのであります。

今日は聖餐にあずかります。聖餐式は洗礼を受けて新しく生まれたものたちに、信仰の旅路を歩む養いとして備えられているものであります。
自分は罪深いものであるけれども、主はこの自分のために十字架にかかり、贖いとなってくださいました。洗礼を受けて、その救いにあずかった者たちが、その恵みを繰り返し思い起こすことがゆるされて、命の糧を受けるのであります。

自分は神の前に相応しいものではない、その罪人のために主は十字架において神にご自分を献げてくださいました。その功により、私たちを洗礼へと導き、聖餐に招いてくださいます。
聖餐にあずかる時、そのことを心に留め、畏れをもって恵みの座に近づきたいと思います。