mat13/1-9

説教 マタイによる福音書13章1~9節
「種の譬え」

 今日の聖書の箇所は「種まきの譬」、あるいは「種を蒔く人の譬」と呼ばれています。

ご存知のように、イエスさまご自身が、このすぐ後、18節からですが、説き明かしておられます。

蒔かれた種とは神の言葉です。
道ばたに蒔かれたけれども、すぐに鳥が来て食べてしまったというのは、御言葉を聞いても、すぐに忘れてしまう人のこと。
石だらけの所とは、喜んで御言葉を聞いても、根無し草で、少しも身につかない。困難に遭遇すると、すぐに信仰が萎えてしまう人のこと。
また、茨の中に落ちるとは、この世の思い煩いや富の誘惑で、それらがみ言葉をふさいでしまって実を結ばせない人のこと。
しかし、良い土地に蒔かれたとは、御言葉を聞いて悟る人。
悟る、という言葉は大切な言葉です。23節です。
それは、ただ単に理解するとか、知的に認識するというのではありません。
人間の心のもっとも奥深いところ、自分自身が、神さまの恵み、真理に包み込まれて、生きる方向が定まるという意味です。
主はそのように説明なさいました。

このたとえ話を語り伝えただけではなく、最初に文字に書き記した教会の人々は、感謝と共に、これを書き伝えたのではないでしょうか。そう思います。
人が、神の言葉を聞き、受け取ることの難しさをよく知っている。それは他人事ではありません。それにも関わらず、私たちは御言葉に聞くようにと招かれているからです。
まして、百倍、60倍、30倍にも、実を結ぶのだとすれば、実に不思議なこと。その驚きと共に、この種まきの譬話は書き記され、伝えられてきたに違いありません。
今日は、この後で長寿祝福式を行います。信仰の歩みを重ねてご長寿を迎える。まことに嬉しいことであります。そして、長寿祝福をお受けになる兄弟姉妹も、その兄弟姉妹の背中を見ながら信仰の歩みを辿ってまいりました者たちも、一緒にこの種まきの譬を読んでいますが、やはり、最初の教会の人々と同じように、感謝と、新たな志とを与えられているのではないかと思います。

さて、今日、読みましたところには、神の言葉である種が蒔かれたこと、その蒔かれ方、どのように蒔かれたのか、さらにその行く末、思いがけないほど豊かな実りをもたらす結末に、わたしたちの思いを結びます。

ある人が、この譬話の中に登場する農夫は、なんと無能なことか、少しも、努力をしていない。ただ種を無造作に蒔くだけである、と申しました。
なるほど、道ばたや、石だらけのところや、茨の中に種をわざわざ蒔く農夫はいません。
普通は、まず畑に鍬(すき)をかけ、よく耕してから種を蒔くものです。
しかし、この譬え話しに出てくる農夫は、ただ無造作に蒔いているように見えます。

しばらく前に、わたくしの友人が、そばの種を持ってきてくれました。そばの種というのは、太陽の光があたらないような場所にも育つから、君も蒔いたらどうだ、というのです。
土を耕したり、世話をするのはいやだ、と申しましたら、だいじょうぶ、そんなことぜんぜん必要ない。種を隙間無く蒔いてしまえば、どんな雑草よりも成長が早いから、雑草も生えないし育たない。ただ蒔いておけばいい。そのうち育って、そばの実ができる。君でも大丈夫だと言うのです。

種まきの譬え話は、そばの種ではありません。麦の種でしょう。ただ蒔けば良いというわけにわいかないはずです。確かに、この農夫はあまりにも無造作すぎるように見えます。

ひと昔前の聖書の研究者は、パレスチナに見られる、特殊な農業の方法を示して、この譬え話に見られる躓きを取り除こうとしました。
今でも、見られるそうですが、パレスチナでは、まず最初に種を蒔くのだそうです。
人の手で蒔くこともありますが、時には、牛やロバのような家畜を使って蒔いたそうです。
種が入った袋を背負わせて、それに小さな穴を開けておきます。そして家畜を畑に放します。そうすると、袋の穴から種が落ちて、家畜の歩いたところには種が蒔かれる。
いずれにしても、まず最初に種を蒔きます。そして、後で、蒔いたところを耕すのだそうです。
ですから、ある場所は人や家畜の通るあぜ道になったり、石だらけのままであったり、茨が生えたまま残ってしまうようなことがある、と言うわけです。
なるほど、そうでなければ、こんな話にはならないわけです。

しかし、それにしても、やはり、この譬話は、すっきりしません。種は蒔かれっぱなしで、土地を耕す農夫の労苦、努力、が少しも感じられません。農夫の姿は背後に退いています。
このような種まきの様子を通して、イエスさまは何をお語りになろうとしておられるのでしょか

こんなことを考えさせられます。
種は、神の言葉ですが、それは蒔かれます。その時、神の言葉の蒔かれる場所には境界線や、境というものはない、ということです。
道ばたにも蒔かれる。鳥がきてすぐに食べられてしまうような道ばたにも、また、土の薄い石のおおい所にも蒔かれる。すぐに根が出ても、土が深くないので枯れてしまうような石地にも、そして、茨の中にも蒔かれる。光がふさがれ、養分が奪い取られてしまって、成長できないような所にも蒔かれる。神の言葉は、分け隔てなく蒔かれる。
人々の間に気前よく蒔かれる。それが、神の国の種まきであるということです。

ある人がこのこの箇所を説明していて、その文章を読んだことがあります。まず最初に、こんな言葉で書き始めていました。
「近づきつつある神の国の宣教、神の国の訪れを開き示すみ教えが語り始められようとしている。しかし、そこは、ローマ帝国の中心である世界都市ローマでもなく、ユダヤ人の宗教的中心であるエルサレムでもなく、ガリラヤの北部の小さな湖の岸辺、世界の辺境、まさに、片隅で始まる。」
片隅で、神の国の訪れが告げ知らされた。
片隅で始まったということは、いたるところに宣べ伝えられる、ということにほかなりません。特別な場所、それに値するような良い場所、というのではなくて、どこででも、いたるところに宣べ伝えられる。
それは場所的なことだけではありません。
思い出していただきたいのですが、イエスさまは一介の漁師たちを弟子として、これを重んじ、また、罪人と呼ばれている人々、神さまから遠く離れていると見なされていた人々に近づき、福音を伝え、取税人をも弟子としてお召しになりました。安息日には常識を破って助けを必要とする人をお癒しになりました。
それですから、律法学者やファリサイ派の人々、ヘロデ党の人たちまで、こぞって、主イエスを非難し、はては、主を殺そうと計りはじめたのでした。
この人たちは、神の言葉は清い清潔な者たちの中に保たれていなければならない、と堅く信じる人々でした。境界線をさだめ、境を意識していました。
しかし、主イエスはこの種まきの譬えで、神の言葉は分け隔てなく蒔かれるのだ、ということをお教えになっておられるのです。
ことに、種にとって過酷な場所、困難の大きなところにまで蒔かれていることを告げています。
そして、その困難がはるかに大きなことだからでしょうか。種を蒔く人、農夫は、それに対して手の打ちようがないように思われます。しかし、種を蒔き続けるのです。

パレスチナはご存知のように、雨の少ない所です。ほとんどの場所は、荒れ野だったと言われています。
そこに、植物が育つというのは大変なことで、水分を取るために、地中深く根をはらなければならないのだそうです。
ですから、石地や、茨の少しでも生えているところでさえ、種にとっては致命傷で、そこでは育つことができないのだそうです。
しかし、困難の大きなところ、過酷な場所に、種は蒔かれている、と主は仰せになるのです。

もっとも過酷な場所、困難の大きなところとは、どこでしょうか。収税人や遊女など、当時の人々が罪人と呼んだ人々のところでしょうか。そこも、確かに荒れ地でありましょう。
しかし、自分の清いことを誇って、ついには主イエスを殺そうと計るような人々、その心こそ、もっとも大きな困難な場所だったのではないでしょうか。聞く耳を持たない者、拒絶し、葬り去ろうとする人間の世界や心にまで、種は蒔かれた。
そして、人の目から見れば、神の国は覆い尽くされ、隠され、やっつけられてしまっているように見える。
しかし、主イエスは、この困難な種蒔きは、決して失望に終わることはない。蒔かれる種は力を発揮して、予想をはるかに越えた収穫をもたらすことを告げておられます。御言葉は良い地に落ち、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶ。

収穫率、というものが計算されます。蒔かれた種に対して、どれだけの収穫を得ることになるのか、という比率です。
今日、30倍というのは、常識的な数字になっているようですが、イエスさまの時代には、そんなことはとうてい考えられなかった。せいぜい、10倍が良いところだったと言われています。
イエスさまは、ここでも、目を見張るような、驚くようなことを語っておられます。そして、神の国の種は、どんなに大きな困難、隠され、覆われ、やっつけられてしまうように見えるかもしれないが、思いを遙かに超えた実りをもたらす、と仰せになるのです。

スイスのある牧師先生が、説教の中で、次のようなことを語っています。
蒔かれた御言葉というのは、主イエス・キリストご自身である。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」と仰せになった、その主ご自身である。

少しだけ、言葉を遮(さえぎ)りますが、この譬え話で、種を蒔く、その種は蒔かれたと言わないで、「落ちた」と表現されています。何か、大切なことがここに含まれているように思われます。
調べてみますと、「落ちる」と翻訳されている言葉は、倒れるという意味もあるのですが、ひれ伏すとか、うつ伏せになる、という意味で用いられることもあります。
マタイ福音書で、最初にこの言葉が出てくるのは、東から来た博士たちが、馬小屋に眠る幼子を見て、ひれ伏し礼拝したと伝える、クリスマスの物語です。
膝を落としてひざまずくので、「落ちる」という言葉から「ひれ伏す」という意味が出てきているようです。
東の博士、異邦人です。遠い国の人々が幼子のもとに来て、ひれ伏し、礼拝した。
マタイ福音書で、この言葉が最後に出てくるのは、十字架へと至る受難物語です。26章に、主イエスがゲッセマネで祈られる、その時、「イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そう記されています。
うつ伏せになる。この場合は、体を落として倒れる、体を倒し、うつ伏せになって、父なる神を拝し、祈られた。
杯とは、言うまでもなく十字架のことです。
「落ちる」という言葉で綴られる二つの主イエスの物語です。
イスラエルの王として、救い主としてお生まれになったお方は、わたくしたち人間の罪の贖いのために、十字架にご自身をささげてくださったお方、十字架にその身を落としてくださったお方です。

先の、スイスの説教者の言葉に戻りますが、種とは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」と仰せになった主ご自身のことである、と記して、だから、十字架にかけられたこのお方に目をあげたいと思うと綴っておられます。
弱りはてた身体と、不成功に終わったように見える伝道活動、その姿は一般に、人生のドラマを象徴しているように思われる。特に、わたしたちの人生を象徴してる。
しかし、この主イエスを思うとき、きっと、どこかで、なんらかの形で、わたしたちは次のように悟っていくに違いない。すなわち、人生のすべてには意味があり、その人生はすべてあがなわれ、美しいものにされ、確かに、復活するのだ、と。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」そのお言葉のように、種は蒔かれ、実りが待っている。わたしたちの人生は、すべてに意味があり、贖われており、麗しさが備えられているのです。

主イエスは、「種をまく人が種まきに出ていった」そう仰って、天の国、神のご支配をお語りくださいました。