mat13/24-33

説教 マタイによる福音書13章24ー33節
「神の国の種まき、その2」

 今日は、主イエスのお話になった3つの譬を読んでいただきました。

毒麦の譬え、そして、からし種とパン種の譬です。

最初の毒麦の譬えは少し長い話ですが、後の二つの譬えは小さな譬えで、二つが一対となっています。
ですから、今日読んでいただいたのは3つの譬であると申し上げましたが、2種類の譬えと言う方が良いかも知れません。
マタイ福音書はこれらのたとえ話を一緒に読まれるべきものとして一つの枠の中に収めています。その枠組みは43節にまで及びます。

さて、最初の毒麦の譬えですが、夜、人が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った、と記されています。
物の本によりますと、毒麦とは、「ほそ麦」と呼ばれる雑草の一種だそうです。
食べると、有害で、めまい、はきけ、しびれを起こし、穀物に少しでもこれが混ざりますと、にがくて、いやな味がするのだそうです。
その毒麦が麦畑に混入してしまったのでした。まだ若い苗(なえ)の時は麦と非常によく似ていて、見分けるのが難しいのだそうです。しかし、成長し穂が実り始めるころになると、その違いがはっきりとしてきます。
ただし、その頃には土の中で、麦と毒麦の根が絡み合ってしまっていて、毒麦を抜き取れば、よい麦の根まで抜けてしまうのです。
それで、麦と毒麦とが混ざり合ってしまった場合、その両方とも育つままにまかせておかなければならない、刈り取りの季節になって、一緒に刈り取り、その後で、選り分けるのだそうです。
主イエスは、当時、あちらこちらの麦畑で経験するやっかいな様子を譬えとしてとりあげて、この世界とわたくしたちに対する神さまの取り計らい、天の国についてお話に、なりました。

この世界は、言うまでもないことですが、善きこと悪しきこととが入り交じって存在しています。なにが良いことで、何が悪いことであるのか、わたしたちには簡単には見分けがつかない、というようなこともあるかも知れません。善いものであっても、すべて善いとは言えない。悪しきことが寄り添っている。悪いものであっても、すべてが悪いわけではない、善いことを含んでいるようにも見える。それが、わたしたちの目にする、この世界の有り様であります。
ですから、善悪というよな基準を立てること、そのことに疑いをもつ人もあるかも知れません。
そうではありますが、善きこと、悪しきことが存在します。そして、悪しきことについては、わたくしたちは苦しみとして、それを経験することになりましょう。

キリスト教の信仰の立場から、悪の問題、ことにその由来について。どうしてこの世界に悪が存在するようになったのか、ということについて理路整然と説明するのは、容易いことではありません。
神さまは、よきものをお造りになった。神の造られたものはみな、よき物である。それが、聖書の教えであります。
しかし、悪、悪しきことが存在する。しかも強い力をもっている。それを否定することなどできません。聖書にも、悪や罪のことが論じられています。
譬え話の中で、主人が「それは敵の仕業だ」と言っていますが、サタン、悪魔の仕業であることを暗示しています。そうだとしても、その由来については説明しにくいのであります。サタン、悪魔とはいったい何者か、どこから来たのか。
神さまがお造りになったとは言えない、かといって、神さまと、並び立つような仕方で、永遠から永遠に存在しているのだ、とも言えない。悪の存在と同様に、その由来を説明することは難しいのです。

もちろん、悪の由来について、神学者は説明する努力をしてきました。
一つの説明をご紹介します。
それによりますと、悪というのは、神が良きものをお造りになる、その時に、陰のように発生、派生するものなのだ、と言う説明です。
身近なことを引き合いに出しますと、私たちが何かを造ります。例えば、机を造るとします。その時、どういう机を造るか、まず考えます。いろいろな可能性、選択肢が存在します。丸い机も考えられましょう。三角の机だっていいかも知れません。しかし、考えて四角の机を造ることにする。そうしますと、その時、四角い机だけが形となって現れます。そして、四角の机以外のもの、丸いもの、三角のものは、相応しくないとして退けているということになります。
悪というのは、退けられた三角の机、丸い机のように、神さまがこの世界をお造りになったときに、神さまが退けられたもの、退けられるものとして現れ出でているぬもの、それが悪である、ということになる、そう考えれば良いのではないかというのです。
この説明の善し悪しは別として、しかし、このことは心に留めておくと良いと思うのです。
悪は、退けられるものとして、一時、この世界に存在することが許されているものに過ぎないということです。

苦しみ、苦難は、悪に由来します。そして、私たちは、時として、苦しみを経験し、神が苦難をお与えくださったと言って、苦しみの経験を振り返ることがあります。苦難を通して、なにか良いことを教えられる。信仰を深めることができた。神さまとの交わりが深められる、そのような良い経験を、しばしば、いたします。それで、神が与えてくださった苦難、と表現することがあるのであります。
しかし、それは正しい、正確な表現ではありません。たしかに苦難を通して与えられる良き物があるとしても、苦しみそのものは、神が与えたもうことはないのであります。苦しみや、悪を、良い物として讃美する、そういう考えは聖書にはありません。
悪、苦しみ、それは、神さまによって排除される、退けられるもの。あるいは、裁かれるものです。
退けられ、排除されるもの、その限りにおいて存在することがゆるされている。それが悪であるということです。

譬え話の主人は、『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい。」』と命じた、というのであります。
慌てて、僕が毒麦を抜くことを、譬えの主人は思いとどまらせています。それは、神に、世の終わりの審判に委ねられるべきだ、というのです。

ある人が、「われわれは、信仰に熱心であればある程、完全主義の過ちを犯す」と言いました。理想主義と言い換えてもよいと思います。
主イエスは、私たち自身も抱きがちな信仰の理想主義を退けて、この世の現実を、落ち着いて、腰を据えて、醒めた目で見ることを教えておられます。
この地上の世界は、良い麦の中に毒麦が蒔かれているようなものです。そして、悪しきものは強いのです。その現実をちゃんと見ていなければならない。
悪を安く見積もったり、安易に取り扱うことができるかのように思ってはならない、ということです。
もちろん、現実に妥協して、どうせ、この世界は悪しきものなんだと開き直って、悲観主義に陥るわけにはいきません。しかし、同時に、理想主義、完全主義に舞い上がることもないように、しなければなりません。
悪しきことを軽く見積もる者は、悪しきものに耐えることも、それに抵抗し続けることもできないでありましょう。
主イエスは、毒麦が選り分けられ、処分される、神はそうなさる、と言われます。しかし、それは、神の手の中にあり、終末の審判に委ねられるべき事柄である、とお教えくださいます。

次に、からし種とパン種の譬えです。
芥子種というのは種の中でも最も小さいものだそうです。ケシの一種、その種のことがここで言う芥子種ですが、その小さな種も、いったん土に蒔かれると、目が出て、成長し大きな木になる。木と言っても潅木だそうですが、それでも3mから4mの大きさになるものもあり、鳥がきて巣を作るのだそうです。
パン種、イースト菌のことですが、これもまことに小量です。粉3サトンに混ぜるとありますが、3サトンとはずいぶん大量の粉だそうです。しかし、ほんのわずかなパン種であっても、混ぜると、全体を膨らませてしまう。
小さな芥子種は大木になり、わずかなパン種は3サトンの粉を大きく膨らませる。神さまのお働き、神の国のことがこのように語られています。

ところが、この譬えの興味深いところですが、ここに用いられているからし種とパン種は、決して良いイメージのものではありません。聖書の伝統では、たいがいは悪いことの譬えに用いられてきました。
芥子種は大きな木になるというのですが、大きな木というのは旧約聖書では、世界を支配する権力の象徴として知られていました。地上の、この世の、しかも、苦難を経験し続けている人々にとっては、いまわしい当時の権力です。
また、粉全体を膨らませる小量のパン種にいたっては、悪意と邪悪というイメージで見られていました。ですから、お祭の時に食べるパン、あるいは神さまに供えるパンには、パン種の入らないパンが用いられました。そのほうが、聖いパンだと考えるからです。パン種は、神にふさわしくないと考えられていました。

ですから、芥子種とパン種の譬えは、悪いことについて教える時に用いられるべきものです。
例えば、悪いものは、最初は小さくても、それが混ざりこむと、どんどん大きなことになってしまう。だから、悪いものは、小さな時に、その芽を摘むようにしなさい、というような具合です。
しかし、主イエスは、この芥子種とパン種を用いて、天の国のことをお話しになったのでありました。
主イエスは、まことに大胆にそのような悪いイメージをもった言葉を用いて、しかし、天の国についてお語りになっておられるのであります。
すなわち、この譬話は神の国の現れの小さいことを見ているだけではなくて、この世や人間の中に見られる悲しさや、悪や、罪の大きさを見ているのであります。
神の国は、芥子種や、パン種の中に、包まれ、隠されているというのでありましょう。

この芥子種とパン種の譬えを鏡として、もう一度、毒麦の譬えを振り返ってみると、毒麦の譬えは、次のようなことを語っているのではないか、ということに気がつきます。
毒麦の譬えが描く麦畑のようすです。私たちは大部分は良い麦で、毒麦はほんの少しであるかのように、想像しているかもしれません。しかし、そうではなくて、この譬えは、混ざり込んだ毒麦のほうが良い麦を圧倒するほど多く育ってしまっている、そのような様子を描いているということです。
ですから、譬えの中に登場する僕は、慌てふためいたのでありましょう。
確かに、この世界の現実は、そのようにも見えます。

ある新約聖書の研究者が、これらの譬えを「大いなる信頼」という題を付けています。信頼することを教える譬えだというのです。信頼とは、ローマの信徒への手紙に「望み得ないのに、なおも望みつつ信じる」という言葉がありますが、「望みにさからって信じる」ということです。宗教改革者のマルチン・ルターは、そのことを「隠された神」。「隠された神」を信じる、と申しました。「恵みとは思われないような様相、つまり厳しさ、怒り、そういう現れ方の背後に神の恵みを信じてゆく」ということです。

ことに、これらの譬え話から、私どもは主イエスご自身のことを思い起こすのではないかと思います。
主のお働き、それは、まことに小さく見えます。世界を救う救いの働きという観点からすれば、主イエスのみ業は、小さなもののように思われます。
実際に活動なさった年月は、せいぜい長く考えても4年です。足掛け4年くらいです。そして、活動の場所は、あのパレスチナのほんの小さな一部分です。
主イエスに影響を受けた人々の数は、それこそ取るに足りません。
しかも、主イエスは十字架にかけられて亡くなりました。この世は、主イエスを十字架に相応しいと断罪したのでした、罪なき者を、罪有るものとして裁いたのでした。
そして、主イエスがお亡くなりになった時には、主イエスの周りは、ひとにぎりの婦人たちだけになってしまったのです。
しかし、その小さいこと、そこに、実に大きな神のわざがすでに始まっていました。
神の独り子が、私たちすべての者の罪がゆるされるように、贖いの供え物として、ご自身を神に献げてくださった、それが主イエスの十字架の真実だったのでありました。
天の国、神のご支配は、この小さな主イエスのお姿の中に現れたのであります。そして、この地上では神の国はいつでも隠れたこと、小さいこととして現れる、この譬えはそう教えています。

最後に、旧約聖書の一つの言葉をご紹介して終わりたいと思います。
イザヤ書42章にある言葉です。こういう言葉です。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯火を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」
印象深い言葉ですから、記憶に留めておられる方は少なくないと思います。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯火を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」
苦難の僕の歌と呼ばれる歌の一部です。主イエスを預言した言葉として受け取られています。
主は、傷ついた葦をおること亡く、暗くなっている灯火を消すこと亡く、正しい裁きをもららし、それを確かなものとする。」
今日、ご一緒に読んでまいりました譬話とともに、心に留めて良い、旧約聖書の御言葉であります。