mat14/22-35

説教 マタイによる福音書14章22~33節
「なぜ疑ったのか」

 弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸へ行くところでした。主イエスが弟子たちを送り出されたからでした。

22節をご覧下さい。こう記されています。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に先に行かせ」られた。

「しいて」そうなさったと記されています。
「しいて」というのは、「定め」あるいは、時には「運命」と訳される言葉です。無理矢理にと翻訳されることがありますが、その意味合いは、主イエスに良きご計画があり、その御心が強く働いた、ということす。
同じ言葉が、コリントの信徒への手紙一9章16節に使われています。使徒パウロが自分が福音を宣べ伝えることについて、「そうせずにはいられないことなのだ」と記しているその言葉が「しいて」とここで訳されている言葉と同じです。パウロが告げているのは、自分が福音を宣べ伝えるのは、神の御心によること、そして、自分もそのことを喜んで受けとめており、自らも進んでそうするのである。それ以外のことは考えられない、ということでありました。
主イエスは良き目当てをもって弟子たちを送り出し。弟子たちもまた主のお言葉に応えて、舟を漕ぎ出したのであります。

主は弟子たちを送り出すと、群衆を解散させ、祈るためにひとり山にお登りになりました。
主イエスに送り出された弟子たちの目からは、主イエスのお姿は見えなくなりました。しかし、主は、弟子たちのために祈っておられたことでありましょう。
ところが、舟は嵐に遭遇します。逆風に悩まされるのでありました。一晩中、嵐との格闘が続いたようです。
舟は、しばしば、教会を表します。ここには、しばしば地上の教会が、そして、キリスト者ひとりひとりが経験すること、試練という経験が映し出されているように思われます。
しかし、夜が明けるころ、祈り終えた主イエスが嵐の湖を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのでした。

英語で比喩的に用いられる言葉で「水の上を歩く」walk on waterと言う言い回しがあるようです。一般的には不可能なこと、無理だとおもわれることをする、という意味で用いられています。聖書のこの物語から生まれた言い回しです。まさに湖の上を歩くということは無理なことです。
これは、奇跡物語です。
マタイ福音書には、この物語の前後に、いくつかの奇跡物語か綴られています。
直前には、5つのパンと2匹の魚をもって5千人を養われた、パンの奇跡と呼ばれる物語が書かれており、今日の聖書の箇所には、嵐の海の上を歩いて弟子たちに近づいていかれた主イエスの物語が記されております。
奇跡物語というのは、ただ不思議なことを主イエスがなさった、そのようなことがお出来になるのは主イエスが神の子であられるから、主イエスは何でもおできになるというような事で、聖書に書き留められているのではありません。
そうではなくて、思いがけない仕方で、私たちの思いを超えて、主が恵み深く共にいてくださることを伝えている。それが奇跡物語であります。

主は湖を歩いて弟子たちのところに来られました。弟子達の困難を知っておられた、そのようなご様子です。ところが、弟子たちはそれが主イエスであるとは気がつきませんでした。幽霊だと思ったというのであります。
幽霊というのは存在しないものという意味です。ファンタジーという言葉がありますが、ここで用いられているのは、それと同じ根っこを持つ言葉です。夢、幻、と言い換えても良いかも知れません。現実とは思えない、存在しないもの。
弟子たちは、本当にここにおられる主イエスを見ることができない。そのお姿を見ながら、これは本当には存在していないものだと思ったというのです。不信仰というのはそういうものなのかも知れません。
しかし、この時主イエスは、弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と仰せになりました。わたしだ、安心しなさい。もう何も恐れることはない、そう声をかけられたのです。
弟子たちはすっかり安心したことでしょう。

すると勇気を得たペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と申し出たというのであります。
主イエスはペトロの願いをお聞きになりました。それで、ペトロは主の言葉を信じて、舟を離れて湖の上に足を踏み出し、主の方に向かって歩き始めます。ペトロも水の上を歩き始めます。ところが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけてしまいました。
「主よ、助けてください。」と叫ぶペトロに主イエスは手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と仰せになりました。
ここで大切なことだと思いますが、その順序です。
ペトロはおぼれかけて、助けを求めました。おぼれかけた理由は、ペトロが主イエスから目をそらして、周りの風や波に気をとられ、怖くなってしまったことでした。
主イエスへの信頼よりも、周りの風や波に気をとられてしまったことです。しかし主は、おぼれかけているペトロを「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」とお叱りになる前に、ペトロをしっかりとその手で捕まえて下さっているのでありました。
31節です。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『深紅の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」そう記されています。
主イエスはペトロと共に舟に乗り込みました。すると、風は静まったというのであります。

今日は、この物語に心を留め、神さまを讃美したいと思います。

さきほど、英語で「水の上を歩く」walk on waterと言う比喩的言い回しがあると申しました。そして、それは、不可能なこと、無理だとおもわれることをする、という意味だと申しました。
しかし、この「水の上を歩く」walk on waterという言い回しは、途方もないことをする、できっこないことをする、という意味だけではなくて、もっと豊かな意味が含まれています。それは、天の支えなくして為し得ないこと、天の恵みによって成し遂げられること、そういう意味が含まれているようです。

かつてアメリカ大統領を務めたことのあるある人が、貧しい人々のための家を建てるという運動を始めたことがありました。貧しい人々というのはホームレスの人たちのことでしょうか。家のない人たちのための家を建てる。もし、そうだとしたら、それは非常に困難を伴うことでありましょう。想像することができる困難、難しさを、わたくしでもすぐに幾つも数え上げることができます。しかし、その人ははそれと取り組み、そのための団体をつくりました。
1995年4月のことですが、そのことをイギリスのBBC放送のニューズアワーで取り上げられました。その時、コメンテーターが、その人の名前をあげて、彼は水の上を歩くことができる、He can walk on water.と言ったのでした。
その意味は、彼はそれをやりとげようとしている。これが自分に与えられた天命、チャレンジとして受け止め、大変だろうが取り組もうとしている。そして、出来ると信じているのだ。
できっこないことをする、というのではなくて、天の支えなくして為し得ない、いや、天の恵みによってこそ成し遂げられること、それを為そうとしている、そういう意味を含めて表現したようなのです。

今日の物語には、湖の上を歩くイエスさまを見て、弟子のペトロが湖を歩いてイエスさまのとこまで行こうとした、ということが書かれていました。
このペトロの行動と主イエスのお姿について、先日、次のように綴る文章に目が留まりました。こんなことが書かれていました。少し長いのですが、ご紹介したいと思います。

「ペトロは、自分の常識や経験や計算をいったん横に置いて、主イエスだけを信頼して一歩を踏み出した。
やってみる。ペトロはやってみたのだ。どうせおぼれるだけではないかと決めてかかって、舟の中に閉じこもっていないで、一歩を踏み出した。
主を信じ、主に仕えるということは、このペトロのように、舟から水の上に一歩を踏み出すことではないか。」
そう綴って、さらに筆を進めます。
「失敗を恐れない一歩。あの時、ペトロはおぼれることなど少しも考えなかった。だから、船から水の上に一歩を踏み出せた。おぼれることを考えたら、水の上に一歩を踏み出すなんて、とても出来ることではない。
いや、そもそも主イエスに信頼して始めたことに、失敗などということはないのだ。
確かに、ペトロのように最後までやり通せないということも起きるかもしれない。しかし、やらねば0、やれば1でも2でも結果は付いて来る。100を期待して一生懸命やっても、1か2の結果のこともあるだろう。途中で続けられなくなることだってあるだろう。でも、その結果は0ではない。
そもそも、ペトロがイエス様に水の上を歩かせて下さいと求めたこと自体が無茶だったのだと思う人がいるかもしれない。しかし、イエス様はそれを拒んではおられない。このペトロの、舟から水の上に一歩を踏み出した信仰は大したものだ。
もちろん、ペトロがそのまま水の上を歩いてイエス様の所まで行けたのなら良かった。しかし、そうはならない。でも、これも私たちの信仰の姿だ。信じ切れない。どこかで自分の常識や計算に頼ってしまう。そして、おぼれてしまう。それが私たちの現実だ。しかし、たとえおぼれそうになったとしても、「イエス様、助けてください。」そうイエス様に向かって叫ぶことができるのだ。」

この文章を読んで、あらためて教えられたことでした。 ペトロは確かにおぼれかけました。しかし、このペテロのしたことは、決して失敗ではありませんでした。
この出来事の結末について聖書は、ペトロの一部始終を見ていた他の弟子たちが「本当に、あなたは神の子です。」と言ってイエス様を拝んだと記しています。
信仰の告白と、礼拝が生まれました。
ペトロは、その失敗と思われることが、神様に用いられたのであります。ペトロは、この「本当に、あなたは神の子です。」との告白へと人々が導かれていくために、用いられたのであります。

一歩を踏み出す信仰。そのことを覚えたいと思います。そして、神様の御業に、神様がほめたたえられる為に、主が私たちをお用いくださる、そのことを覚えてたいと思うのです。

今日の物語は、主イエスが「弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に先に行かせ」られた。こと、ご自身はひとり高いところで祈っておられたこと。
弟子たちの舟が嵐に遭遇し、漕ぎ悩んだこと。その弟子たちのもとに主が来られて、「安心しなさい。わたしだ。恐れてはならない」と言われたこと。
そして、ペトロが、主イエスのもとに行こうと水の上を歩きはじめたこと。
そして、たとえおぼれそうになっても、「主よ、助けてください。」そう叫ぶことさえ出来る。
祈ることさえ出来るなら、私たちを捕らえていてくださる主の御手を知ることができる、そう伝えています。