mat16/21-28

説教 マタイによる福音書16章21ー28
「自分の十字架を負うて」

 今日、お読みいただいたマタイによる福音書16章21節以下には、主イエス・キリストが、父なる神から委ねられた尊い使命についてお語りになったこと、そして、弟子たちに向かっては、ご自分に従って来るようにとお招きになったこととが記されておりました。

今日は、三つのことに心を留めて、神さまを讃美したいと思います。

第一のことは、ご自分の受ける、苦難と死について教え始められた主は、ご自分を「人の子」と仰っておられる、ということであります。
先週、読みましたが、16章13節で、ご自分を人の子とお呼びになって、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とペトロにお問いになりました。
そして、今日の箇所でも、27節です。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」と仰せになっておられます。
この「人の子」という呼び名は、旧約聖書のダニエル書に由来する、救い主を言い表す呼び名ですが、人々にはよく知られてはいなかったようです。
しかし、主イエスは、一貫してご自分を「人の子」とお呼びになっておられます。
あえて「メシア、キリスト」という言い方を避けておられるのです。ペトロがせっかく「あなたは、メシア、生ける神の子です」と答えているのに、そのメシア、キリストという呼び名を用いずに、人の子と、ご自分をお呼びになりました。
それは、ご自分が、メシア、キリストである、ということを否定しておられるというのではありません。メシア、キリストであられるお方が、あえて、別の名である「人の子」という呼び名をお使いになったということであります。

ある人が、主イエスは自分を言い表し、紹介するのに、卓越した自由を宣言しておられるのだ、と言っています。メシア、キリストという呼び名を避けることによって、人々の期待するキリスト像から自由になって、まことの「メシア、キリスト」を紹介し直そうとされる。
「人の子」という違う呼び名をお用いになって、神さまから遣わされたご自分の使命をお語りになる。そうすることによって、どのようなメシア、キリストであられるかのかを明確に示そうとされたのだ、と言うであります。
そうだとすると、「人の子」とご自分をお呼びになって、お語りになる主のお言葉は、格別に注意深く、聞く必要がありましょう。

ある時、主イエスは次のようにお話しになったことがありました。
マタイ福音書20章28節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
「人の子」とご自分をお呼びになって語られた、たいへん有名な言葉です。
仕えられるためではなく、仕えるため来た。身代金として、命を与えるのだ、というのです。
身代金、それは当時、奴隷が買い戻さて自由の身になるために支払われる代金のことを指しておりました。身代金が支払われたならば奴隷はもはや奴隷ではなくて、自由の身になることができる。それと同じように、わたしたちが罪と死から救われて命に与るために、主はご自分の命を身代金としてささげる。そのために来た、とお教えくださってのでありました。

そして、今日の箇所では、「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と教えられたのでありました。

心に留めたい二つめのことは、
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とお語りになった、主のお言葉であります。
主にお従いするということは、自分を捨て自分の十字架を背負うことによって果たされる、そう主は仰せになりました。

厳しいお言葉ですが、自分を捨てる、とか、自分の十字架を背負うということは、どういうことでしょうか。
ある聖書の研究者は、「捨てなさい」という主のお言葉から、ペテロのことを思い浮かべる、と言っています。
なぜかというと、「捨てる」という言葉は「否定する」、あるいは、「知らない」という言葉なのですが、この言葉にまつわるペトロの物語があるからです。
主イエスは十字架におかかりになる直前、大祭司のもとで裁判にかけられましたが、その時に、ペテロはその大祭司の中庭で「わたしはあのかたを知らない」と3度も言った、そう言って主を否定したということが記されています。「捨てる」というのは、その「知らない」「否定する」という言葉なのです。
実は、この言葉は、今日の箇所と、そのペトロが主を否んだという、その物語にしか遣われていません。その二つを結ぶ言葉、と言っても良いでありましょう。

ペトロは3度、主イエスを否みましたが、主イエスはその前に、ペトロに「3度にわたって」わたしを知らない」と言うだろうと、お話しになっておられたのでありました。自分を知らないと言うであろうペトロを、主は良く知っていてくださったのであります。
このペトロは反面教師です。ですから、そこで教えられるのは、「自分を捨てる」ということは、主を知らないと言ってしまうような自分、そのことに気がつかないで生きている自分、その自分を捨てる、ということになります。

今日の箇所では、主がご自分の受ける苦難についてお語りになったとき、ペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめはじめた」と書かれています。主が苦難を受け、十字架へと向かうということを否定したのでありました。、
この時、主イエスは、振り向いて、ペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのでありました。
「引き下がれ」とは、ペトロを退け、追い払ってしまわれた、というのではありません。
「わたしの後ろに戻れ」「わたしの後ろに退け」という意味です。それは、主イエスの後に従ってくることを、お求めになる言葉でありました。
自分を捨てるとは、「あなたはわたしを知らないと言うだろう」と言って、ペトロを知っていてくださった主のもとに、自分を見出し、その主の後についていくということであります。

「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。
これも、注意深く、言葉が使われています。「自分の十字架」とありますが、それは、「彼の十字架」と訳すこともできます。
自分を捨てる、と言うときの、自分と、自分の十字架を背負う、と言うときの、自分とは、違う言葉が使われているのであります。
自分を捨てる、その時の自分は、自分自身、自分以外の何者でもありません。しかし、自分の十字架という時の自分は、「彼の」と訳すことができる。彼のと訳した方が、あるいは自然なのかも知れません。そのような言葉が用いられています。
すなわち、この「自分の十字架」という言葉には、「彼」すなわち、「キリストの十字架」という含みを読みとることができる、ということであります。
自分の十字架と、キリストの十字架とが重なるということでありましょう。

この言葉も、ある一人の人のことを思い起こさせます。クレネ人シモンです。マタイ福音書27章に記されています。
シモンという男は、主イエスの十字架を無理矢理背負わされた人です。ゴルゴダへの道を主イエスは十字架を背負って歩きました。その時、ローマの兵士は偶然、クレネ人シモンに目を留め、弱り果てた主イエスのかわりに、彼に十字架を背負わせたのであります。
シモンというこの男も一人の人間として、自分の重荷を背負っていたに違いありません。その自分の重荷に、主イエスの十字架が重ねられるのであります。そして、キリストの後に、キリストの十字架を背負って歩いていくことになりました。それがクレネ人シモンでした。
しかし、ゴルゴダの丘で、そのシモンの背負ってきた十字架はキリストに引き取られます。キリストが引き取ってくださいました。シモンの重荷、彼の十字架と一緒に、キリストはご自分の十字架をシモンから引き取ってくださったのであります。
自分の十字架を負うとは、このシモンの姿を思い起こさせるのであります。

心に留めたい三つ目のことです。
主イエスは、わたしたちの命を問うてくださり、命の尊さを尋ねてくださっているということです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしたら、何の得があろうか」と仰って、それをお問いになっておられます。
全世界を自分の手に入れる、それがどんなことなのか良く分かりませんし、そんなことは誰もできないのですが、命を持つということは、全世界を手に入れ自分のものとすることなどとは、比べることができないほど尊いことなのだ、とお諭しなるのであります。
考えてみますと、全世界とは大げさかも知れませんが、私たちは、確かに何かを自分の手の中に入れなければならない、と思っているところがありましょう。
手に入れること、自分が自分の手にそれを握っていたい。自分の命も自分が握っていなければならない、そう思っているのではないか、と思います。

この主のお言葉は、主イエスがお語りになった、「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれている譬話を思い起こさせます。
畑が豊作で、ある人が有り余るほどの穀物と、財産を手に入れ、それを倉にしまいこみました。そして、心の中で、「これでもう自分の人生は安泰だ」と言うのでした。すると神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃった。それが、「愚かな金持ちの譬え」です。
この金持ちが「愚か」であったのは、財産によって自分の人生が支えられ、安泰になると思ったからでした。
彼は、自分の命を見守り、支え、導いていてくださる神様を見つめていなかったのでした。
自分の人生を根本において支え、導き、支配しておられるのは神様であることを忘れていました。
全世界を手に入れても、自分の命を失っていたのです。
人間が手に入れることができるもの、自分のものとして蓄えることができるもの、それによって人生を支えることができる、安心することができる、と思ってしまうときに、私たちは人生を本当に支えている方を見失ってしまっているということでありましょう。

25節では、「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」と記されています。
「自分の命を救いたいと思う」、それは、財産だけではありません。自分が持っているもの、自分の蓄え、自信、自分はこれだけよいことをし、神様に仕えているというような自負、そういったもので、つまり自分の力で自分の命を救おうと思い、また救うことができると思っていることです。
わたちの命、人生は、そのような私たちの力や努力、何を持っているかということによって支えられるのではありません。
それらは、確かに賜物ですが、その全てを越えて、神様が、私たちの命を導いておられるのです。その神様の守りと支えをいただくことこそが、本当に命を得ることになりましょう。

ここでの話は、もとはと言えば、イエスさまが弟子たちに「わたしを何者だというのか」と問うて、ペテロが「神からのメシア、キリストです」と答えたことから始まっています。キリストの話なのです。神様についての問いから始まったことです。そこからイエスさまのお話はわたしたちの命のことに至りました。
キリストの苦難の道は、わたしたちの命の救いのため、命の贖いのためでありました。

わたしたちの命は、自分ではかることは出来ません。わたしたちは自分を自分で評価しますが、それで自分を救うことにはなりません。わたしたちの命は神秘に包まれています。その神秘を神秘として受けとめることが出来なければ、命の尊さを本当には悟り得ないのではないでしょうか。
命は神様がはかっていてくださいます。神様が評価してくださるのです。神様がその愛するひとり子を与え、その苦難の道をとおして贖ってくださった、それがわたしたちの命である、と主イエスはお語りくださったのであります。
神の愛が傾けられている。ひとり子を十字架に渡すほどの愛が傾けられている。それほど、わたしたちの命は尊い、とイエスさまは教えられるのです。

「マリナと千冊の絵本」という書物が出版されています。子どもを育てている母親に語りかける本です。
子育ての苦労というのは、男性には分かりにくいのかも知れませんが、母親はどんなに心を砕いていることでしょうか。苦労もします。
その本に、「命の前には、人は無力」という言葉が記されています。人の無力を悟る、そこに命の秘密がある。
その言葉は、次のようにも言い換えられます。「命の前には、神さまがおられる」。
「何もなかったように過ぎていく毎日、あるいは、難しい手に負えない出来事に追われながら、わけもなく過ぎてしまう日々、しかし、どの日もこの日も、大切に思えるのは、神さまがおられるから」
命の前には、人は無力。命の前には、神さまがおられる。

主イエス・キリストは、ご自分を「人の子」とお呼びになり、父なる神から委ねられた尊い使命についてお語りになり、弟子たちに向かっては、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい、と仰せになりました。
そのようにして、私たちを命へとお招きくださるのであります。