Mk1/1-8②

(説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章1-8節でご覧になれます)

「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記して、マルコによる福音書は、すぐに、旧約聖書の言葉を伝え、洗礼者ヨハネのことを紹介しています。

旧約聖書の言葉は預言者イザヤのものとされていますが、実際は、出エジプト記23章とマラキ書3章、そして、イザヤ書40章の言葉が結び合わされたものです。おそらく、イエスさまの時代に、旧約聖書の証言集と言いましょうか。来るべき救い、来るべき方について指し示している言葉集のようなものができていたと思われます。

いくつもの言葉が、ひとりの人の言葉であるかのように、結びあわされています。いわば、土の層が幾重にも重なっている地層のように、旧約聖書の人々の信仰の歩みの足跡が重ねられています。さまざまな出来事に遭遇し、その時々に聞くことが許された神の言葉が記憶され、語り伝えられ、あるいは記され、折り合わされ、重ねられているのです。

最初の一番古いものは、出エジプトの出来事にまつわる言葉です。
辛い生活を強いられていたエジプトを、指導者モーセのもと、ようやく脱出することができたイスラエルの民に、更なる困難、長い荒れ野の旅が待ち受けていました。食べるものも水も乏しい、飢えと乾きが襲います。行く手にはさらに多くの困難が予想される。人々はエジプトに帰ろう、あの生活のほうがまだ良かった、と何度も呟く。荒れ野の旅は行く手、定かではなかったのであります。その時に、「見よ、わたしはあなたより先に使いを遣わす」と語る主の声を聞きました。
主なる神は約束の地に向かうイスラエルの民を顧み、御使いを送ってくださる。御使いはあなたの先に立つ。先に立ってあなたを導く。あなたは、その後について行くことになる。そう語られたのでした。それが出エジプト記の言葉です。
出エジプトというのは大きな出来事で、後々、旧約聖書の人々はその出来事を深く記憶して、神さまを崇めました。それで、神さまの救いのお働きを覚える時には、この言葉も思い起こされました。

この出エジプトの言葉に、織り合わされるように結ばれているのが預言者マラキの言葉です。マラキはいにしえの言葉を、神さまの約束や真実を伝える大切な言葉として新しく聞き直して、これを語りました。
マラキ書というのは、旧約聖書の一番最後の書物です。出エジプトの時代から千年ほど後の人です。この最後に記憶されている預言者は何を語り、何を伝えたのかと言うと、崩壊し、破壊された都エルサレムと神殿の再建です。その再建に取り組む人々を励まし、正しい道を示し、再建の道筋を訴えることでした。その志は神さまの救いの約束に根ざすものでした。
ところが、目の前に展開されるエルサレムの有様は絶望的な状態でした。人々は神を畏れず、神の戒めを侮り、信仰も生活も崩れ、崩壊してしまっている。神さまの救いの約束を見失っている。
この預言者は、しかし、主が裁きをもって臨む、裁きの神が来る、と告げました。
それは、「主の日」と呼ばれます。その神の裁きとは、神がわたしたちのただ中に来られ、過ちを正し、悪しきことを裁き、神の恵み深いご支配を打ち立ててくださるということです。正しいこと、慈しみ深いこと、その道筋をわたしたちのうちに神がお立てになる。
裁きとは、わたしたちを罰して、懲らしめるというのではありません。また、滅ぼすということとも違います。そうではなくて、正しく裁いてくだる。その裁きによって神さまの恵み深いご支配をわたくしたちの内にお立になるのです。
預言者マラキの言葉は、裁きの神が来られる、その前に、主の道を備える使いが送られると伝えています。人々を主の日に備えさせるようにと委ねられた人です。

この二つの言葉に預言者イザヤの言葉が結ばれています。
イザヤと言っても、イザヤ書40章3節の言葉で、これを語った預言者(集団)を、今日、第二イザヤと呼んでいます。イザヤ書40章以下は、それまでの39章までとは違う時代の預言者であることがはっきりわかりましたので、区別して、第二イザヤと呼びます。
福音書に伝えられている預言者の言葉は、イスラエルの歴史の中でも最も悲劇的な時代であったバビロニア捕囚の時代に語られました。バビロニアという大きな国に滅ぼされて、イスラエルの、正しくは、細々と残っていたユダ、その都エルサレムですが、その主だった人々が遠くバビロンに連れていかれた時代のことです。
バビロンと故郷エルサレムとは遠く離れています。そして、荒れ野がこれを隔てていました。人々は望郷の思いに駆られて、西のほうを眺め、帰りたいと思いながらも、そこに立ちふさがるのは、荒れ野の荒涼たる姿でした。
その荒れ野で声が聞こえた。やはり、神の使いの声でありましょう。その声が言うのは、「主の道を整えよ、主の道をまっすぐにせよ」でありました。
荒れ野のひとつの特徴は道がないということでしょう。そこに道をつける。神がイスラエルに帰って行く。ご自身が帰って行かれる。その道を備えよう。そういう叫び声がする。
勿論、神おひとりではありません。その神さまが道を開くようにして帰って行ってくださる、その後ろから、捕囚の民も、解放され、ついて行ける。その日が来るという望みを伝えるのでした。

先ほども申しましたように、イエスさまの時代に、このように旧約聖書の大切な言葉が綴られ、集められて、来るべき方、来るべき救いについて示す言葉集ができていたようなのですが、それは、これらの言葉が、ただイザヤの書というだけではなくて、旧約聖書全体が語りかけていること、いわば旧約聖書の要約のような言葉として受けとめられていた、ということであります。
そして、マルコ福音書はこれを伝えて、それがここに実現する。今、ここに成就するという喜びを告げているのであります。

福音、わたしたちを捕らえていてくださる喜ばしい音信は、このように旧約聖書の民の歩み、そこで語られた神の言葉の連なりを背景としています。
今日、わたしたちは旧約聖書を正典として重んじるのでありますが、それは、旧約聖書無くして、福音、主イエス・キリストの福音を理解し、受けとめることが出来ないからであります。

さて、この言葉によって指し示されていた使者、荒れ野で叫ぶ声とは、洗礼者ヨハネのことでした。
「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」と書かれています。
罪の赦し、悔い改め、そして、洗礼。この三つの言葉によってヨハネが語り、為した一つのことが伝えられています。
為したこととは人々に洗礼を授けたということです。それで洗礼者ヨハネと呼ばれます。その洗礼は、悔い改めのしるしであり、罪の赦しを取り次ぐものでした。
人々は、悔い改めのためにヨハネのもとに来ました。悔い改めとは、神に帰るということです。

ときどき、「悔い改め」ということを誤解をして受けとめている人に出会います。
悔い改めというのは、後悔し、悔いて、自分で自分を立て直すことと思い定めているのです。しかし、それは違います。
後悔して自分を改める、そういうことはわたしたちの生活の中に確かにあることです。それができるならばどんなに良いことでしょうか。しかし、しばしばそうはいかない。立て直すことができない。自分の為したことをただただ嘆くしかない。そういうこともあります。
悔い改めとは、後悔とは違います。たとえ、後悔して、その結果、自分を改め、立て直すことが出来たとしても、それを「悔い改め」とは呼ばないのであります。
悔い改めとは、方向を変えることです。心の向きを変えることです。神に帰ることです。神が、救い主が、わたくしどものところに来てくださった。その恵みのもとに身を寄せることです。

放蕩息子の譬え話を思い起こします。父親の財産の半分をもらって、父の下を離れていった弟息子でしたが、財産を全部使い果たし、身を持ち崩してしまいます。何があったのか、たとえ話は詳しく語りません。確かなことは、この息子が父親に背を向け、父親の下から遠く離れて行ったということです。あげくのはてに、豚の番をし、豚の餌を食べて空腹を満たさなければならない。
その時に、この息子は本心に立ち帰ったというのです。本心に立ち帰る、それは、父を思い出したということです。父の下に帰ろうと心に決めました。自分のしてきたことを悔やんでいたことでしょう。悔やみつつ、向きを変えて、父のところに帰っていくのです。
しかし、父の下には、この息子が考えていたこと以上のこと、思いがけないことが待ち受けていました。父親は来る日も来る日も息子の帰るの待っていたのでした。そして、息子が帰ってくるのを見つけると、駆け寄って迎え、最上の着物を与えて、喜びの宴を開いた、というのです。
これは、赦しを伝える譬え話です。そして、父の下に帰ることを悔い改めとして示しています。この時、弟息子は悔い改めたから、赦しにあずかったのではありません。父のもとで知った赦しは、彼が考えていたこと、思い及んだこと以上のことでした。身に余ることで、思いがけないことでありました。駆け寄って来て迎える、そのような思いがけない父親の赦しのもとに、自分を見いだしました。それこそが悔い改めです。

「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」をヨハネが宣べ伝えた、とマルコ福音書は伝えています。
罪の赦しが神によって備えられ、その赦しにあずかるようにと神が私たちを招いていていてくださる。それで、わたしたちは悔い改めて主のもとに立ち帰り、洗礼にあずかりました。
マルコ福音書は、私たちのあずかった洗礼のことを、ヨハネの言葉とともに、思いおこさせているように思われます。
そして、その恵みの深きことを教え、救いにあずかって歩む、歩みへと誘うのです。