Joh21/1-14

(説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:ヨハネによる福音書21章1-14でご覧になれます)

今日の聖書の箇所には、ティベリアス湖、すなわちガリラヤ湖の湖畔で、復活の主が弟子たちと共に食卓を囲んだとということが記されています。
そして、ここには、主の食卓、聖餐式の意味の一端が重ねて、記憶されています。

その食卓は、主イエスによって用意されました。すでに準備が整えられていました。けれども、主は、その食卓に弟子たちが捕ってきた魚を加えるようにと、言われたのでした。
主イエスによって備えられた食卓の恵みに、弟子たちの奉仕の果実も加えられています。

無くてならぬものを、主ご自身が備えていてくださり、そこに、弟子たちの奉仕の果実が、喜びをもって加えられるのであります。感謝に満ちた、喜ばしい食卓が主によってひらかれています。
網の中に集められた魚の数は153匹。一説によると、その数というのは、当時知られていた魚のすべての種類の数だと言われます。すなわち、全種類の魚が、網の中に集められたのでした。
これは、主の食卓の交わりに、世界中のすべての民が集められることになる。主が喜ばしい食卓にすべての民を招いてくださっている、ということを象徴的に示しているようです。

 

その時、エルサレムを離れてそこに居合わせたのは、ペトロをはじめ7人の弟子たちでした。
ディディモと呼ばれるトマス、「わたしは手に釘後をみなければ信じない」と言った、あの疑い深いトマスのことです。
さらに、ナタナエル、ガリラヤのカナの町の出身とされるナタナエルです。この人はヨハネ福音書においてだけその名が記されている弟子です。
そして、ゼベダイの子たち、すなわちヤコブとヨハネです。ペトロとならんで、聖書の多くの箇所で記憶されている弟子達です。
これに、名前のわからない二人の弟子が加わっています。
7という数字に特別な意味が込められているかどうかは分かりませんが、彼らは、早くも、主の復活の証人として、伝道のために、人を捕る漁師としてティベリアス湖畔、すなわちガリラヤに戻って来ていたと思われます。
そして、ペトロが、いかにもペテロらしく、勇んで「わたしは漁に行く」と言って行動を始めていますが、そのところから、書き始められています。

しかし、ペトロたちの働きは徒労に終わったようです。夜通し働いても魚は捕れなかったのでした。 困難な現実に直面して、無力だという思いと、脱力感を覚えて朝を迎えようとしている、そういう様子が読み取れます。

この物語には、私たちには腑に落ちないことが、いくつか記されています。
その一つは、弟子たちの漁が不漁であったということです。弟子たちが無力感を感じているのです。
主のご復活の直後のことです。罪と死に勝利なさった復活の出来事と、それに続く日々のことについて記している復活物語の中に、徒労に終わり無力感を味わっている弟子達の様子を見る。それで、腑に落ちないのです。
主のご復活にまみえて、力を受けて、勇んで出て行くペトロの伝道。伝道には困難が伴うということは分かっていますが、たとえそうだとしても復活の直後です、新鮮な力に満ちて、その時には、輝かしく、実り豊かなものであったに違いないと私たちは考えます。
しかし、そうではなくて、徒労に終わるペトロたちの伝道の姿が、魚を一匹も捕ることのできなかった夜の出来事として伝えられています。

これは、何を意味しているのでしょうか。ヨハネ福音書は、この不思議な事態を伝えて、次のようなことを私たちに教えているのではないかと思います。
それは、ペトロと言えども、主にお仕えする力は彼自身の中に1ミリグラムも無い、主にお仕えする根拠は、彼自身の中には一つも無いということであります。
ペトロは主の弟子として選ばれました。後に教会の指導者として一番大きくその名が知られることとなりますが、そのペトロでさえ、主にお仕えする力と根拠を、彼自身の中には、ほんの少しも持ち合わせていなかったということです。
たとえ、どんなに勇んで漁に出て行ったとしても、水の中、火の中でも、わたしは主に従ってまいりますと意気込んでも、それだからと言って、主のお働きに仕えることができるわけではない。いや、それが出来る力も根拠も、わたしたち人間には無いということをヨハネ福音書は教えているのだと思います。

夜通し働いて、何も捕れなかった弟子たち。しかし、彼らのところに、主は来られ、語りかけられます。「食べるものはあるか」。
この主のお言葉は、元の言葉を観察すると、「ありません」という答えが予想される、想定されている、そういう問いだ、ということが分かります。「食べるものはあるか、何もないだろう」。「食べるものは無いでしょ」そう言って、主イエスは語りかけてておられます。
主イエスは、弟子たち自身が、それを持ち合わせていないこと、彼ら自身は、ただ飢え乾いている人間に過ぎないことを知っていてくださる。そのようにして、弟子たちの所に来られたのでした。

そして、その弟子たちをご自身のお働きのためにお用いになるのであります。
「子たちよ」と呼びかけておられます。神の子、神に属する者とされた人たちよ、神に愛されている者たちよ、という意味です。

「子たちよ」と呼びかけて、主イエスは弟子たちにお命じになります。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」。主が弟子達の働きの場所をお示しになり、お遣わしになるのでした。そして、弟子達は主のお言葉に従って、網を打ちました。
良い漁場を教授したというわけではありません。主のお言葉、主の御心の内に、弟子たちをお用いになったのでした。弟子たちをご自分のお働きのもとに置いてくださるのでありました。

この聖書の箇所で、不思議だ、なんだか腑に落ちないことがもう一つあります。
弟子たちがこの場に及んでも、まだ、あのお方が主イエスであるということに気がついていない、ということです。
「子たちよ、食べ物はあるか」とお問いになり、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた時、少なくともペトロは、気かついて良いはずです。
かつて主に初めてお会いして、弟子とされた、あの日のことを、ペトロはすっかり忘れてしまったのでしょうか。
初めて主イエスにお会いした日も、ペトロは一晩中ガリラヤ湖で漁をしており、そして、一匹も魚を捕ることができないでいたのです。主は、その日、ペトロに、それではわたしの言う所に網を打ちなさいと言われました。その通りにすると、舟が沈みそうになるくらいに魚が捕れたのでした。そして、主はペトロに「これからは、あなたは人間を捕る漁師になるのだ」と仰せになった。それで、ペトロは主イエスにお従いするようになったのでした。
あの日の出来事は、そんなに簡単に忘れることができるようなことだったのでしょうか。
弟子たちが、まだ、主に気づいていない、というのは、まことに不思議なことであります。

ヨハネ福音書は、このような弟子たちの姿を伝えて、わたくしたちに次のようなことを教えているのではないかと思います。
主がわたしたちをお用いになる、その時、私たちは主の御心をさやかに、つぶさには知ることはできない。いや、そのような限界があるというだけではない、わたしたちは主のお姿とそのお働きを見過ごしてしまう、そのような愚かさに囚われてもいる、ということであります。
これも、また、わたくしたちの姿であります。

しかし、主イエスはこのような弟子たちをお用いになるのであります。そのようにして、ティベリアス湖畔の主の食卓は開かれました。
主イエスによって用意され、すでに準備が整えられていましたが、主はその食卓に弟子たちが捕ってきた魚を加えるようにと言われたというのでありました。
主によって備えられた食卓の恵みに、弟子たちの奉仕の果実も加えられています。
無くてならぬものを、主ご自身が備えていてくださり、そこに、弟子たちの奉仕の果実が、喜びをもって加えられるのであります。感謝に満ちた、喜ばしい食卓が主によってひらかれています。

長崎の中町教会というカトリックの教会でミサに列席したことがあります。平日の夜でしたから、ミサに与った人々は20名ほどでした。
印象深く覚えているのですが、その日、聖餐が開かれるその時、パンとブドウ酒とを信徒の方々が、後ろの席から聖餐卓へと持ち運んでいかれました。
捧げ物をしているように感じました。自分たちの日々の務めの中で得られた果実を献げるように、パンとブドウ酒を携えて前に進み出られたのです。
司祭がそれを受けとり、感謝をささげ、祝福の祈りをして、聖餐式が進みました。

主イエスと弟子達との食卓の交わりには、弟子達の働きの果実が加えられました。そして、天の国で共にあずかる食卓を先取りするかのように、そこには、全種類の魚が、すなわち、世界中のすべての民が集められていました。

欧米の諸教会が、21世紀に入って、聖餐式についての指針、聖餐についての教えを記した書物を公にしていますが、それらの書物に触れて教えられた一つの言葉があります。それは、私たちのキリスト者の歩み、信仰生活を言いあらわす新しい表現です。
英語で、サクラメンタル・ライフ、と言います。
私たちはキリストのもとに招かれ、聖なる交わりにあずかっています。そして、私たちの人生は神の国に向かう旅路とされています。その救いにあずかる生活、歩みを、サクラメンタル・ライフと表現するのです。

サクラメンタルとは、サクラメント、聖礼典、聖餐です。神の恵みの手だてのことです。イエス・キリストのご臨在に触れる聖餐にあずかり、その恵みのもとに生かされるところの生活をサクラメンタル・ライフと呼びます。
その歩みは神さまの不思議な祝福の御手の中にあり、私たちは恵みによって、恵みを分かち合います。その信仰の生活と歩みは、キリストの恵みを証しし、恵みを伝達する器ともなっている。そのようにして、神の国への旅路をたどっている。
そのことを、サクラメンタル・ライフと表現するのです。