Mk1/1-8①

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章1-8節①でご覧になれます)

説教 マルコによる福音書1章1~8節 「良きおとずれ」

キリストのご生涯は決して長いものではありませんでした。人の目から見れば、幸せよりも、悲しみのほうが多かったように思われます。そして、その最後は、十字架におかかりになって死なれる、という有り様でした。
十字架は最も重い犯罪を犯した者が罰せられるところです。キリストは罪がありませんでしたが十字架につけられました。これ以上不条理なことはありません。
おかしなことです。こんなむごいことがあるのか、と思います。しかし、これがこの世です。
キリストは、その時、この世を恨みも、憎みもしませんでした。執り成してくださったのでした。
十字架がその執り成しでありました。天の父なる神にご自身を献げて、私たちの贖いとなってくださったのであります。

福音書は、主イエス・キリストのご生涯を綴っています。マルコによる福音書は、ことにその最後のおよそ3年間のことを伝えています。一般に「公生涯」公の生涯と呼んでいますが、主イエスがガリラヤの村や町々で神の国の福音を宣べ伝え始められて、弟子達を集め、教え、人々を癒される、そして、エルサレムに向かい、ついに十字架におかかりになる、また、お甦りになるのですが、その間の、数年間のことを「公生涯」と呼んでおり、マルコ福音書はその公の生涯「公生涯」について記しているのであります。しかも、そのうちの3分の1を十字架におかかりになるエルサレムでの最後の一週間の出来事に費やしています。

しばらくの間、マルコ福音書を読み、御言葉に聴きたいと願っております。
先ほど1章1-8節を読んでいただきましたが、今日は1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されるこの御言葉に心を留めたいと思います。

お気づきのように、短くキリッとした小気味よい言葉です。文章ではありません。動詞がありません。名詞を重ねることによって綴っております。それで、これは、標題、タイトルのようなものだ、と考えることができます。
主イエスの公生涯を伝えるに際し、マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き記しているのであります。

もとの原文を見ますと、ギリシャ語では、初め、福音、イエス・キリスト、神の子、という順序になっています。

「福音の初め」あるいは「福音こそ初めである」「福音が始まる」それが、最初の言葉です。
福音は「良きおとづれ」「喜びの知らせ」です。
昔、ローマの皇帝が即位したり、外国との戦争に勝利したりする、その知らせが伝えられる、国中におふれがまわりました。おふれを伝える者たちが走り回ったわけです。そのおふれを福音と呼んでいたようです。
聖書は、しかし、この言葉を特別な意味に用いるようになり、重要な言葉となっています。

ことに、使徒パウロはこの福音とう言葉を良く用いました。
ちなみに、パウロの書いた手紙というのは、ロマ書にしろ、コリント書、ガラテヤ書にしろ、どれもみな、マルコ福音書より古いものです。パウロのほうがマルコよりも先輩ですね。
このパウロは、イエス・キリストの救いの御業とその意味内容を、厳密に選び抜かれた言葉を用いて表現し、それを福音と呼びました。また、その福音が伝えられていく足取りのことをも、、福音(喜びのおとずれ)と言い表したのであります。
マルコ福音書は、そのようにパウロの用いた言葉を受けとめて、もう少し広い意味をこれに加えているように思われます。
それは、イエス・キリストのお言葉、なさった数々の御業、十字架と復活にいたるご生涯、それらを伝える物語、主イエス・キリストの物語が語り伝えられること、それを福音と呼んでいるということです。
「説教」と言い換えても良いようです。わたしたちが今日の礼拝のように、マルコによる福音書を開き、そこに記されている主の物語を聞く、主の物語が読まれ、語り告げられる、そのような説教を福音(喜びのおとずれ)と言い表すのであります。

「福音の初め」。ある英語の聖書はこんなふうに翻訳しています。
「ここに神の子イエス・キリストの福音が始まる」。福音が始まる。わざわざ動詞になおして翻訳します。「良きおとずれつげる説教が始まる、始められた」。
福音が語り告げられ、語り続けられている、始まったのだ。
そして、今、わたしたちがその福音に触れることができる。ここに書き記す主のご生涯を読み、また、聞くところには、喜びのおとずれが聞かれる。神の子イエス・キリストの喜びのおとずれがあなたと共にある。
あなたは、この主の物語と共に、歩むことができる。神の国に結ばれて、地上の生涯を辿ることとなる。
マルコ福音書はそれを福音と言うのであります。

「はじめ」という言葉にも注目したいと思います。
聖書の一番最初に書かれているのは「はじめに」という言葉です。創世記1章1節「はじめに神は天と地とを創造された」と記されています。
「はじめ」とは、普通は「一番最初」という意味です。しかし、聖書が「はじめ」と言う場合には、ただ単に、時の初めというだけではなく、物事の一番深いところにある原因とか理由のことを意味します。全ての物ははじめを持っています。それは神のみ心とお働きです。天と地は神のみ心によって造られ、神の摂理によって保たれ、守られています。これが創世記の「はじめ」という言葉が伝えようとしていることです。
神が思い定め、行動される、そこに「はじめ」があるのであります。
マルコ福音書も、「初め」「福音の初め」「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と記して、主イエス・キリストの公生涯、主の物語を綴るのであります。

ところで、ここに「神の子イエス・キリストの福音」と言いあらわしています。
福音とは「喜びのおとずれ」「良き知らせ」「グッド・ニュース」といった意味だと申しました。この福音という言葉は一般にも用いられています。重い病気に対して良い治療薬が開発された、「患者の方々にとっての福音」といった言い方をします。あるいは、スーパーなどでも「奥様がたに福音」といって安いバーゲンの品を宣伝するのを耳にします。このように、福音と言うのは一般的な言葉になっています。
考えてみますと、良い知らせというのは、いろいろとあるものであります。そして、日常生活の中で、これは良い、あれは必要だといったことを耳にします。いや、私たちはそれに追い回されているようであります。それらの中には、私たちにとって必要なこともありますが、案外中身のない宣伝だけだったというものも少なくないのであります。それだけではなくて、悪意の福音というものもあります。私たちは、そういう諸々の福音に囲まれています。
マルコ福音書がここに福音と言っているのは、諸々の福音の中の一つの福音として伝えているのではありません。他に、比べることの出来ない唯一つの福音です。他の、一切の喜ばしい知らせも、この福音がなければついには色あせてしまう、そのような比べるもののない福音として伝えているのであります。

私たちにとって、比べるもののない福音とは、いったい何でしょうか。私たちには判断できないことであります。日常の生活で、様々な良い知らせに振り回されているような私たちには、本当の福音が何かということがわからないでいる、と言っていいのであります。

主イエスはある時、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」と仰せになりました。
マタイ福音書20章に記されています。弟子ヤコブとヨハネの母親が主イエスに「あなたの御国でふたりの息子が、主の右と左に座るようにしてください」と願い出た時のことでした。母親の心情が良く表されている物語です。母親は子供が大きくなっても、いつまでも子供として心配し、子供のために良いことをと願っているものであります。麗しい母親の姿が伝えられているのであります。しかし、その母親の愛情もいつでも良いものであるというわけではありません。
イエス・キリストはその母親に「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」と仰せになったのでした。
この主のお言葉は全ての人に向けられた言葉でありましょう。何を求めているのか分からない、それは、人間の深い悲しみであります。
しかし、主は、私たちを叱責しておられるだけではありません。哀れみ、諭してくださっています。
十字架の上でも、主は同じ様な言葉を語られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか分からずにいるのです」。求めるべき事も知らず、何をしているのかも分からない人間のために、その人間が救われて生きるために、十字架の上で父なる神にとりなしてくださったのであります。

そして、主イエスは「天にいますあなたがたの父は、求めてくる者に良いものをくださらないことがあろうか」と仰せになり、「求めよ、探せ、門をたたけ」と言われたのでありました。マタイ福音書7章7節に記されています。「求めよ、捜せ、門をたたけ」「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈物をする事を知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものをくださらないことがあろうか」。神は良い父親であって、私たちが子供のようにわけも分からず、無分別な者を受け止め、本当に必要な良いものを与えてくださ、そうお教えくださったのであります。

父なる神が与えてくださるものこそ、喜ばしい知らせに違いありません。私たちは、私たちにとって何が福音であるか知らないでいます。しかし、神はご存じで喜ばしい知らせを伝えてくださるのであります。
マルコ福音書は福音を伝えます。神から伝えられた良き知らせであります。そして、その福音は「イエス・キリストの福音」と呼ばれます。

「イエス・キリストの」とかかれているのは、イエス様が宣べ伝えたという意味だけではありません。「イエス・キリストが福音である」と言う意味であります。勿論、主イエスは福音を宣べ伝えられました。「神の国が到来し、神の恵みのご支配のもとに私たちが生かされて歩むことができる、だからひるがえって神の恵みに生きるようにしなさい」と宣べ伝えられたのです。それは、福音です。そして、マルコ福音書はその福音がイエス・キリストの全生涯の中に実現しているということを伝えるのであります。イエス・キリストが福音そのものなのであります。

福音は、良きおとずれです。その知らせの発信人は神です、そして、私たちが受取人でありますが、良き知らせそのものがイエス・キリストであるということでありましょう。
神は良きものを与えてくださったのであります。イエス・キリストを与えてくださったのであります。ですから、キリストを仰いで生きるようにと教えているのであります。

「神の子イエス・キリスト」と記されています。イエス様は神の子である、というのです。「神の子」というのは、神のひとり子、神に愛され、神を父よと呼ぶことができ、父と子のまどうことのない交わりの中におられる方という意味であります。
そして、それは、私たちに神がどのような方であるかをお示しくださる方ということであります。また、さらに、信じる者をご自身と父なる神との交わりの中に招いてくださる方であるということであります。
ローマ人への手紙8章16節17節に、キリスト者は「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を与えられている。それで、私たちも子供として受け入れられ、キリストと共に御国を嗣ぐ相続人である、と記されています。「アバ」というのは、アラム語と呼ばれるイスラエルの人々の日常語で、「お父さん」という意味です。幼い子供が愛を胸いっぱいに感じながら、父親に呼びかける言葉です。私たちも、神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるというのです。
イエス様が神の子であり、この方によって私たちも、父と子の交わりの中に招き入れられているのであります。私たちが神の国に歩み、神のご支配のもとにあるというのは、子供として、愛されている子供として交わりに与っているということです。