Mk1/1-11

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章1-11節でご覧になれます)

「至福ー仕えること」

マルコ福音書は、そのはじめに、洗礼者ヨハネのことを書き記しています。
わたくしは、このヨハネに心惹かれています。この人のようでありたい、という願いが、心の中に生じているのだと思います。

8節をごらんください。こう記されています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

ヨハネという人は、イエス・キリストがおいでになる、その前奏曲、プレリュードの役割をはたした人物ですが、ここでは、自分自身のことを語っています。自分自身のことを語って、キリストを指し示しています。

もう15年前のことですが、東京神学大学で、その春に、定年退職をなさったひとりの教師の最終、最後の講義がありました。それは、学生だけではなくて、広く公開され、講義というより講演であります。
その題は「My life is my messege」でした。この英語の言葉は、明治時代にディサイプル派と呼ばれる小さな教派から遣わされて日本に来られたガルストという優れた宣教師の先生が残して行かれた言葉だそうです。「My life is my messege」、自分の生きる道、いや、生かされてきた歩み、それが、自分の語るべきメッセージとなっている。そういう意味です。
考えて見ますと、キリスト者というのは自分の人生の歩みというものをとおして何事かを語り、証しするのだと思います。この言葉を講演の題となさって、その教師は御自分の取り組んでこられた神学の営みについてお話しになりました。

洗礼者ヨハネもキリストに仕えて、キリストを証ししました。
勿論、イエスさまの弟子ではありませんし、イエスさまよりも先に遣わされていますが、キリストにお仕えした人物として、マルコによる福音書はこのヨハネのことを記憶し、伝えてます。

ここで、ヨハネはまず第一に、キリストを「わたしよりも優れた方」と呼び、自分は「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語っています。
ヨハネは自らをはっきりと仕える者、僕と言い表しています。
昔、客を家に迎えるとき、奴隷が客人の足を洗って家に迎えたと言われています。長いひものついたサンダルのような履物を履いて、土の道を歩いてまいります。そのひもを解き、汚れた足を洗ってもらうというのは、どんなにか気持ちが良く、疲れが癒やされることでしょうか。その客人の足を洗うのはその家の奴隷、僕の仕事でした。
ヨハネは、自分がキリストに仕える者であることを言い表していますが、「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」奴隷にも値しない。そう語ったのでした。
いたずらに自分を卑下しているのではありません。ヨハネはひねくれ者ではありません。そうではなくて、後から来られる方、来てくださる方に圧倒されて、その恵みに打たれているのです。自分のことなど忘れて、その方に仕えさせていただいている、そう言い表しているのではないかと思います。

東京神学大学のひとりの教師の最終講義ですが、その最後も、ひとりの人の言葉によって結ばれました。この教師と同郷の方で、明治の時代に活躍した女性の英文学者が残しました。こういう言葉です。「わたしの生涯は、神の恵みを最後まで心にとどめた、ということより外に、語るなにものもない。」
「わたしの生涯は、神の恵みを最後まで心にとどめた、ということより外に、語るなにものもない。」印象深い言葉です。
洗礼者ヨハネの言葉に通じる言葉だと思います。

カール・バルトという神学者がおられました。20世紀の最も偉大な神学者と呼ばれますが、この方が「証し」について書いた文章の中でこんなことを言っておられます。
キリストを証しするということで一番大切な問題は「レスビテーレ」である。レスビテーレというのはラテン語でして、「見る」「よく見る」という意味です。
私たちは証しと言えば、自分の言葉と生活をとおして表していくことだと、すぐにあわてて考えはじめます。そして、わたしにはとってもそんなことは出来ない、などと思ってしまうことさえありますが、そうではなくて、その前に立ち止まって心得ておくべきことがある。
それは、神さまが私たちにキリストを通して何をなしてくださったかをよく見る、本当によく見る。そして、それを受けとめ信じることなのではないかと言っているのであります。自らをむなしくして、キリストを見る、神を見上げる、そこに証という事柄の出てくる土台がある。
この神学者は膨大で豊かな著作を残しました。とくにキリスト教の教えを体系的に組織的にあらした「教会教義学」という書物には、白鯨というあだ名が付けられました。何冊にもなる大きな書物で、表紙が白いのです。書棚にならぶその姿が、白い大きな鯨、白鯨のように見える、それでそう呼ばれます。それほど大きな書物と業績を残しておられるのですが、晩年にこんなことを語ったと伝えられています。
自分のこの膨大な著作は小さなこどもたちの歌う「主、我を愛す」という讃美歌以上のことを語ろうとはしていないし、その讃美歌以上のことを語り得てはいない。
「主、我を愛す。主は強ければ、われ弱くとも畏れはあらじ」。この小さな子どもたちの讃美歌。「我が罪のため天よりくだり十字架につけり。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す」そう歌うこどもの讃美歌、それ以上のことではないのだ、と語ったというのです。この神学者も、神さまの恵みを見、その恵みに圧倒されて、ただ主をほめたたえたのだと思います。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」
ヨハネは、後から来られる方、来てくださる方に圧倒されて、その恵みに打たれて自分のことなど忘れて、仕えさせていただいています。

さて、ヨハネは、さらに自分の後に来られる方が、何をなさるのかを具体的に示しています。「わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

これは何を語っているのでしょうか。
水のバプテスマ、聖霊のバプテスマと言って、それを対比しています。
カトリックの神父さんで、井上洋治さんという方がおられます。作家の遠藤周作さんと親交の深かった方です。ご存知の方も多いのではないかと思います。
その井上神父によりますと、ヨハネというのは厳格な人物で、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。それは、父親のような厳しい神を示した。それに比べて、イエスさまはそうではない、慈愛に満ちた、母親のような神をお示しになった。その慈愛の神さまの、海よりもひろい赦しのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えたのがイエス様でいらっしゃった。そうお話なさって、水のバプテスマと聖霊のバプテスマとの対比を、読みとっておられます。何か親しみを覚える言葉です。
厳しい父親のような神を代表するヨハネ、かたや、母親のような慈愛にみちた神を代表するイエスさま。しかし、そのような対比が、ここで語られているのではなさそうでえす。

19年前、浜松におりましたが、1年ほど、南遠教会の代務者を務めたことがありました。無牧になって、新しい先生をお迎えするまでの間ですが、ご用にあたりました。
50kmの道のりを通って、月に一回礼拝と聖餐式を、そして毎週の祈祷会を守りました。楽しい思い出となっています。
その教会で出会ったひとりの女性は、立派な方で、教会の中心になって教会を支えておられました。その方はさかんに聖霊のバプテスマということを口に出しておられました。
水で洗礼を受けた、しかし、それはほんの入り口で、その後、聖霊ご自身が洗礼を自分に授けてくださった。そう仰るのでした。
聖霊のバプテスマ、私にはよく分かりませんが、信仰の深まり、祈りにおける体験、そういう何かの経験を言い表しておられるのだと思います。
そのことを強調する人々がキリスト教会の中におられます。その方々は、ヨハネの水の洗礼というのは、牧師の授ける洗礼も同じで、それは形式的なものにすぎない、と受け止めておられるようです。

ここで、「聖霊によって」とヨハネが語っているのは、確かに、イエスさまが神さまの力をもってなしてくださるということです。
しかし、それは、ヨハネの洗礼が形式的なものにすぎないとか、無意味なことだと言っているのではないようです。
ここで大切なポイントは、ヨハネがどのようにキリストにお仕えしているのか、ということです。ヨハネは水で洗礼を授けましたが、それはしかし、キリストに仕える働きで、その洗礼を真実なものとなさるのは、実はキリストご自身でいらっしゃる。そのことを語っているのであります。

ヨハネが授ける洗礼、それは、私たちが与っている水の洗礼を指し示しているように思われますが、その洗礼を真実なものとなさるのは、ヨハネではなく、言うまでもないことですが、牧師でもなく、主イエスであられる。
聖霊のバプテスマとは、洗礼が、父なる神と御子イエス・キリストによって遣わされた聖霊、神御自身の力をもってなされる。すなわち、父と子と聖霊の名によるのだということです。それが、水のバプテスマの真相であって、ヨハネはそのことに仕えるているのです。

それでは、キリストご自身が手を置かれる、その力とは何でしょうか。
このすぐ後に、イエスさまがヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたということが記されています。ここにキリストの力が示されているように思われます。

イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったということを聞くと、何か奇妙な感じを受けます。ヨハネは主イエスのことを「わたしよりも優れた方。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語っているのに、その立場が逆転しているように見えるからです。
確かに、不思議なことです。ヨハネは罪人を招きました。終わりの時が近付いたから、悔い改めるようようにと呼びかけていたのです。人々は罪の赦しのために、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けたのでした。そのバプテスマを受ける人々の列にイエスさまもおられて、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
イエスさまも、罪にまみれている、罪人だったのでしょうか。赦しを受ける必要があったのでしょうか。そうではありません。ペテロの手紙一の2章22節に「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」と記されていますが、罪のない方であります。
それで、洗礼を受ける人々の列に身を置いておらえるイエスさまのお姿に、誰もが驚くのではないかと思います。

しかし、ここに、深い意味がありました。この不思議な光景の中にキリストの力が現されていたのであります。
罪のないお方が、ご自分を罪人の立場まで低くし、私たちとまったく同じ立場に立ってくださったということです。
私たちと同じようになってくださるために、ヨハネからバプテスマをお受けになったのであります。それが、主イエスの受洗の深い意味であります。
ヨハネがキリストにお仕えしたというのなら、キリストはもっと深く、わたしたちのために仕えてくださったのです。
そして、それこそ、キリストの力でありました。

水の洗礼、その中に、キリストのお姿が刻まれました。

洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」と語りました。そして、キリストを指し示したのでし。
これが、ヨハネの「My life is my messege」です。
私たちも、「わたしの生涯は、神の恵みを最後まで心にとどめた、ということより外に語るなにものもない。」と告白・讃美し、「主我を愛す。我弱くとも恐れはあらじ。」と歌って、ヨハネと共にプレリュードを奏でたいと願います。