Mk1/16-20

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章16-20節でご覧になれます)

「漁師を招くイエス」

主イエスは福音を宣べ伝え始め、すぐに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と仰って、ガリラヤ湖の漁師たちを弟子とした、と記されていました。

弟子となるということは、自分の生きる立場を変えて、主イエスの門下生となり、その道に学び、歩んでいくということであります。

シモンとはペトロのことです。ケパとも呼ばれます。彼は最も私たちに知られている弟子です。アンデレはその兄弟であると書かれています。彼らは網を打っていました。
「網を打つ」というのは、岸から「と網」で漁をすることを意味するそうです。舟を持たず、兄弟二人だけで漁をしていた様子から、決して豊かな漁師ではなかったと考えられます。彼らはその網を捨てて、主イエスに従いました。
ヤコブとその兄弟ヨハネは父ゼベダイとその雇人たちとともに舟の中で網を繕っていました。明日のために繕っていたのでしょう。雇人がいるというのですから、彼らは貧しい漁師ではなかったということが分かります。しかし、彼らも、父と雇い人とを舟に残して主イエスに従いました。

作家の大江健三郎さんだったと思いますが、ある本の中でこんなことを書いておられます。
幼いときに、「ジョバンニと牛」というタイトルの読み物を読んだという思い出です。
戦争中で、その時は、大江さんの家も貧しい暮らしをしていたそうです。人目に付かないようにして、手元にある小麦をひいもらう。森の奥に住む粉ひきのおじさんのところに、使いに出されて出かけて行ったときのことです。そのおじさんのところで、小麦をひいてもらっている合間に、「ジョバンニと牛」という物語を読んだ。
それは、こういう物語です。ジョバンニという少年が牛を連れて歩いていると立派なお坊様に出会った。それで、その人について行こうと思った。そのお坊様はアッジシのフランチェスコなのですが、「じゃあ、自分のところにいらっしゃい」と言ってくださりもした。「それには持っているものを全部捨てろ」とも言われたので、ジョバンニは牛を捨てようとした。
牛は売って、そのお金を貧しい人に分けてあげてもらいたいと思った。ところが弟たちが、「牛がなくなってしまう」とか、「お兄さんもいなくなる」と泣いたりわめいたりする。フランチェスコに相談すると、「君は自分のところに来なさい。しかし牛は売らなくていい」ということになって、兄弟たちは喜んだ。そういう物語です。
大江さんは、その時、自分にも魂の問題があると思ったのだそうです。幼い子どもなのですけれども、魂の問題というのはあると思った。そして、魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はその人について行くだろうと思った、いや、小麦粉を捨てても、ついて行かなければならない、とも思った。
大江さんは、しかし、家で待っている妹と母親のことをすぐに思い起こして、自分が小麦粉を捨ててしまってフランチェスコのような人と一緒に歩いて行ったとしたら、どんなに悲しむだろうかと、そう思って苦しんだ。そして、とうとう家に帰った、というのです。
その時、はっきり覚えてはいないけれども、きっと「魂のことはいい。小麦粉をとろう」と思って帰ったのだろう、と述懐しておられます。それで良かったのだろうかという思いを抱きながら、お話しなさっておられるのだと思います。
これは、大江さんの話ですが、なんとなく共感を覚える話です。だれでも、心のどこかで、自分にも魂の問題がある、魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はひょっとしたらその人について行くかも知れない、そう考えているのではないかと思います。しかし、同時に、現実にはそんなことは難しい、そうも思う。

ペトロやアンデレといった人たちはどうだったのでしょうか。
わたしたちが、この聖書の記事を読んで、一番気になるのは、彼らが「すぐに、網を捨て、舟や父親を置いて」すなわち、「いっさいを捨てて」主に従っていった、といとも簡単に書かれていることではないか、と思います。

以前おりました教会の婦人会で、ある時、心の片隅に隠れている問い、というテーマでお話をいたしました。 その時、婦人会の皆さんに、自分の中にある問いを紙に書いていただいたのでした。真剣な問いが、並びました。
その中で、一番多く書かれていた問題は、家族のことです。ことに、家の宗教のことで、仏事などにどう対応したら良いのか、自分はキリスト者として相応しいと言えるのだろうか、そういう問いでありました。
これは、大きな問題です。おそらく、ここにおられるほとんどの方がかかえている問題ではないかと思います。わたくしも、実は、例外ではありません。
これは、日本人でキリスト者となった者たちが、避けて通れない応用問題で、この地上で、長い時間をかけて問題を解いていかなければならない宿題のような気がいたします。すんなりとは割り切れない。そして、これがただ一つの回答であるという答えもない。ケース・バイ・ケースだと思っています。
それぞれに、それぞれの課題として、神さまが与えてくださっている宿題です。
もしも、キリスト者は一切を捨てて、自分の信仰の立場以外はシャットアウトしなければならない、と言うのなら、それは間違っている、と思います。

聖書を読み進んで気がつくことですが、ペトロは修行僧が出家をするのと同じように、一切を捨てたのではない、ということです。
ペトロはすでに、この時、妻帯しておりました。妻がおりました。妻の家もあり、そのお母さんも一緒におりました。家族の面倒を見ていたのです。そして、その点については、この後も何ら変わることはなかったのです。
しかし、変わったことがありました。それは、主イエスを自分の家にお迎えするようになった。主がペトロの家においでになるようになったということです。主は喜んでペトロの家で憩われました。
このすぐ後に、姑が高い熱を出した時、イエスさまに来ていただいて癒やしていただいたという記事が記されています。そして、その日、イエスさまと一緒にこの家庭は食卓を囲んだのです。主をお迎えするようになった、それは大きな目に見える変化です。
ペトロは確かに網を捨てました。それは、しかし、すべてを投げ捨てて出家したということではありません。主と共に戻って来ているのです。
こう言い換えることができましょう。主が、宿題をかかえ、応用問題を解くべき、わたしたちのただ中に、来てくださるようになった。来てくださっている。わたしたちは、ペトロと同じように、その主の後について行く者となった、ということです。

主が、これらの人たちをお呼びになったのは、「人間をとる漁師」とするためでした。
人間をとる漁師というのは、不思議な言い方ですし、聞きようによっては物騒な感じもするかもしれませんが、特別な使命を持って、人々を神の国に導くものとして選ばれたということを示しています。

実は、この「人間ととる漁師」という言葉を、主イエスは、新しい意味をこれに与えて、お用いになっておられます。
イスラエルの人々が知っている、この言葉は、主イエスの意味とは、いささか違っていました。
それは、神さまがお裁きになるために、隠れ潜んでいる罪人を捜し出し、神の前に連れ出してしまわれる、そのような意味で用いられていました。
水の中に隠れている魚を釣り上げるように、あるいは、網ですくい上げるように、潜んでいる罪人を表に出す。 エレミヤ書16章16節に、次のように記されています。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らをつり上げさせる、と主は言われる。・・・わたしの目は、彼らの全ての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」。

しかし、主イエスは、この「漁師が人をとる」という言葉を、裁かれるべき罪人が救くいを与えられ、神の国において見いだされるために、引き出すという、全く反対の意味あいをもって、これをお用いになり、お語りになったのであります。
失われているものに目を留めてくださる主イエスは、失われたものを捜し出してお救いくださるというのです。その救いの前にもはや隠れていることはできない。
そのためにペトロたちは「人間をとる漁師になる」のだ、と言われました。
それは福音、喜びの訪れであります。

ところで、聖書の研究者は、この弟子たちの召命の物語は、新鮮な響きを奏でている、と言います。様子が、他とは、いささか違うのです。
当時、ユダヤ教の教師ラビたちのもとにも弟子がおりました。ところが、ラビは率先して自分の弟子を召し出すということはしなかったそうです。弟子としてもらいたいという人が、自分の先生を探して、弟子入りをしたのです。
それが普通のことで、先生のほうから弟子を探しに行くというようなことは無かった。

しかし、主イエスの場合は違います。ペトロたちは、海辺で漁をしたり、網を繕っていただけでした。ここで、ペトロたちをして弟子たらしめるのは、ただ、主イエスの呼びかけであり、働きかけでありました。こともあろうに、主が彼らのところに赴き、彼らを捕らえてしまわれたのです。

主イエスは、ペトロに悔改めを迫っているわけではありませんし、また信仰とは何かを教えているのでもない。あるいは、主イエスはペトロの信仰を問題にしているわけでもありません。彼に信仰のあるやなしやを見て、弟子にするか否かを決めておられるのでもありません。
この福音書が語るのは、ペトロがただのガリラヤの漁師であった時に、もっとはっきり言うと彼が信仰をもつ以前に、ペテロそのものを捕らえてしまわれた、ということです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。この言葉によって、彼らを捕らえてしまわれたのです。

ここに出てくる、ペトロという弟子は、わたしたちにとって不思議に魅力のある人物です。彼は、パウロのような神学者ではありませんでした。またパウロのような大規模な外国伝道に挑んだわけでもありません。それどころか、アンテオケ教会では大失敗をして、パウロから面と向かってなじられる始末です。主イエスの一番弟子でありながら繰り返し惨めに失敗を重ねるような弟子です。
ある人が、ペテロの惨めさを「よろめき」と表現しています。その振幅は大きい、と申します。

フィリポ・カイザリヤにおいてこんなことがありました。主イエスがお問いになった質問に対して、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答え、その告白が主に認められて、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」「あなたの上に教会を建てよう」と主イエスに仰っていただいたのでした。しかし、その直後に、主イエスがご自分のお受けになる苦難のことをお話になったとき、検討違いのことを言ってしまう。そして、主イエスから「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責される。
「さいわいなる者からサタンまで」、それが、ペトロのよろめき、大きな振幅です。
振子のような彼のよろめきが、破局的な形で起こります。主イエスが十字架にお掛かりになる直前の出来事です。「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」そう言った、その舌が乾かないうちに、あの大祭司カヤファの邸宅の中庭で、自分をイエスの仲間だと告発する人々に対して、「わたしはその人を知らない」と激しく否定したのです。鶏が2度鳴きました。
人間なら愛想を尽かすぼどの失敗を繰り返すのが、福音書の語るペテロです。

しかし、主イエスは、そのたびに、このひとりのガリラヤの漁師を説得します。あの時もそうでした。三度も主を否んだ弟子に、こんどは三度、「ヨハネの子シモン、汝、我を愛するか」と、復活の主は、主は呼びかけられました。
ペトロに、どこかみどころがあったからでしょうか。そうではないでしょう。確かなことは、主イエスが、このひとりのガリラヤの漁師を捕らえ、なぜかもう離そうとなさらないのです。
なぜ、この漁師をそこまで説得し、そこまで目をかけられるのか。それは、ひとつの謎のようにさえ思われますが、その確かな関係は、この日、この朝、ガリラヤの海辺から始まったのです。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」彼らは、この主のお言葉によって、自分の生きる立場を変えて、網を捨てて、主イエスの門下生となり、その道に学び、歩んでいくものとされました。