Mk1/21-28

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章21-28節でご覧になれます)

「自由になりなさい」

マルコによる福音書は、主イエスがカファルナウムの町に行かれて、会堂にお入りになり、み教えを垂れたと記しています。
そして、そのことがどんなに恵みに満ちたことであったかを伝えています。

カファルナウムというのはガリラヤ湖の北の西岸に位置する小都市です。主イエスのお育ちになったナザレからは約30km離れている所だそうです。
この町は、その当時、国境となっており、重要な都市でしたので、ローマの軍隊が駐留していました。他の福音書を読みますと、この町の軍隊の隊長さんがイエスさまに出会って、信仰を言い表したということが記されています。当然、商業も盛んで、税金を集める収税所もありました。後に、収税所にいたレビという人がイエスさまのお弟子になります。
人々の生活の中心は、なんと言っても、ユダヤ教の会堂です。シナゴグと呼ばれます。礼拝の場所であると共に、お役所や公民館のような役割を持っておりました。カファルナウムの会堂はたいそう大きなものだったということが考古学の発掘によって知られています。それは、ユダヤ教の中のいろいろな宗派の人々が集まって来ていたということでもあります。
主イエスはこの町を中心にガリラヤ伝道をなさいました。そして、その最初の様子がここに伝えられています。

「イエスは会堂に入って教え始められた」とあります。教え始めるとは、いつもそうなさっていた、そうなさるのが常であった。そして、そのことが始まったということです。
主イエスは普通のユダヤ人と同様に、律法に従った生活習慣の中に身を置いておられました。
すなわち、安息日に礼拝をささげるために、会堂にお入りになりました。
会堂では、聖書が読まれ、祈りがささげられます。そして、教師たちや信仰深い人々が、聖書の解きあかしをしたと言われています。主イエスもその機会を与えられ、教えを垂れたのであります。
しかし、主イエスの教えは、他の人々とははっきりと違っていました。権威があった。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになった。そして、人々はその教えに非常に驚いたと書かれています。

ここに律法学者とありますが、律法学者というのは聖書を丁寧に読んで、その正しい解釈、説明をすることができる信仰深く学識のある人々です。決して権威のない、いい加減な人とは違います。権威というならば、カファルナウムの会堂の中で誰よりも権威を持った人たちでありました。
しかし、聖書はその権威はイエスさまの権威とははっきりと違う。イエスさまが示された権威は、律法学者のそれとは質の違うことだったのだ、ということを語っているのであります。

ある人がこんな説明をしています。イエスさまの権威というのは、聖書の真理について単に説き明かすのではなくて、聖書そのもの、聖書の真理そのものであるお方が、それを説き明される、そういう権威である。
難しい言い方ですが、一つの例えで説明することができるかと思います。
暗い場所をロウソクの光で照らすとします。その時、律法学者というのはロウソクも持ってきてその光をかかげて照らす人に似ています。彼自身は光ではありません。光が灯っているロウソクをかかげて暗いところに光を照らしている。
それに対して主イエスはというとご自身がロウソクであって、炎を焦がして火となり、それによって照らされる。それが主イエスであられたということです。

ロウソクの火、ロウソクの炎がなければ律法学者はどんなに偉くても何もできません。律法学者に権威があるとすれば、それは、自分に何の権威もないことを示すことにおいて権威あらしめられるものであると言えましょう。
主イエス・キリストは、律法学者とは違います。ご自身が権威そのものです。しかも、その権威は、光そのものでありますが、ロウソクが身を削って光を放つように、ご自身を差し出し、いわば、その身を削って光となってくださった。そのような権威であられた、と聖書は伝えているのだと思います。
「権威ある者」「権威そのもの」それが主イエスであられました。それで、その教えに人々は非常に驚いたのであります。

少し、話が横道にそれるかも知れませんが、わたくしたちにような教会の礼拝ですが、その形式は、ユダヤ教の会堂での礼拝形式を引き継いでいると言われます。
会堂での礼拝が模範となっているのです。それは、御言葉中心の礼拝です。
エルサレム神殿での礼拝とは違います。そこでは、感謝や犠牲の供え物をささげる儀式を中心とした礼拝が行われていましたが、それとは違うのです。会堂では聖書を読み、その説き明かしを聞きます。そのような御言葉中心の礼拝。その会堂の礼拝の形式を、教会の礼拝は引き継いでいます。
それですから、もしかしたら、最初の教会の人々は、ここに記されるように、主イエスが会堂でお教えになったという聖書の記事を読みますと、すぐに自分たちの礼拝のことに当てはめて考えたのではないかと思います。自分たちのここでの礼拝と結びつけて、聖書を読んだに違いのです。

主イエスは会堂に入って教え始められた。いつも、お教えになっておられる。そうだ、聖霊によってこの礼拝に主は入ってこられ、お教えくださっている。この礼拝に主がおられる。
そう受け止めて、聖書を読んだに違いないと思います。

ある聖書の注解書を読んでいて、興味深い言葉に出会いました。
その聖書の研究者はこう言うのです。説教者、牧師は、今日の聖書の物語を読んで、自分がイエスさまのようにみ言葉を語ることができる、あるいは、語らなければならないと考えているとしたら、それは思い違いをしている。
わたしたちは、とこの研究者は言っていますが、わたしたちは、決して主イエスではない。ひとりの律法学者にすぎない。律法学者のように聖書を丁寧に学び、その意味を説き明かし説明する者にすぎない。いや、それさえ、十分にできるかと言えばそうではない。稚拙な律法学者にすぎないではないか。
それなのに、わたくしたちの礼拝が祝福されているとすれば、それは、主がおられるからである。主がおられ、律法学者の業、聖書の言葉を説き明かす人間の言葉をお用いになって、自身がお語りくださる、主がお語りくださるという出来事が起こる。だからだと言うのです。

ところで、主イエスの教え、その権威が示される一つの出来事が、カファルナウムの会堂で起こったということが記されています。
会堂に汚れた霊に取りつかれていた男がいて、主のみ教えはその人を解き放ち、自由にしたのでした。

まず、汚れた霊にとりつかれていた者が叫び始めたと、福音書は記しています。
「叫んだ」と書かれているので、「汚れた霊に取りつかれた男」というのは、狂乱、激しく取り乱してしまうそういう狂乱状態を伴う病気を背負っている人だという解釈がなされます。あるいは、そうだったのかも知れません。
しかし、必ずしも、病気と決めてかかる必要はないと思います。神さまの祝福からわたしたちを離れさせようとする何ものかに捕らえられてしまっている。私たちを支配し、自由を奪い、魂に病をもたらすもの、それを「汚れた霊」と呼んでいて、その悪しき霊に取り付かれてしまっている。そう理解することもできます。
いずれにしても、「汚れた霊に取りつかれた男」は礼拝の場所、会堂におりました。

このことは、ある意味では恐ろしいことかも知れません。神さまを礼拝する場所、礼拝するために招かれた者たちのただ中に、礼拝を阻止しようとする霊、魂に病をもたらそうとする悪しき霊が取りついているということだかです。
しかし、聖書は恐ろしいこととしてこれを伝えているのではありません。喜ばしいこと。祝福に満ちたこととして語っているように思われます。
考えてみますと、私たちは誰でも、自由を奪ってしまうもの、自分を支配するものに取りつかれているのではないでしょうか。時代精神といいましょうか、その時代が持っている思想や観念が私たちを支配しています。それは必ずしも悪いとは言えませんが、しかし、それを克服しなければならない時もある。大変困難ですね。
あるいは、自分に利益をもたらすもの、そのしがらみがわたしたちを支配します。わたしたちの社会が人間性を奪い取ってしまっている。そして、社会を支配しているそのような雰囲気、これも霊ですね、霊に飲み込まれて多くの人が生きている。
そう考えれば、誰もが、何か不自由な霊、汚れた霊に支配されていると言えましょう。
しかし、そのような者たちが、礼拝の場所に招かれている。会堂に来ている。そこに場所を見いだすことができている。そういう喜ばしい出来事として聖書は汚れた霊に取り付かれている男が会堂にいたということを伝えているように思われます。

そして、さらに喜ばしいことが、安息日に起こりました。
汚れた霊は「叫んだ」と書かれています。ここで、「叫ぶ」と翻訳されている元の言葉は、実は珍しい言葉でして、必死に、徹底的に抵抗して声を上げるということとを意味しています。
密かに、隠れて、安心して、この男を捕らえ、支配していたのに、その安全が脅かされてしまった。思わず「叫ぶ」のです。
主と、主のみ教えが、「汚れた霊」に正面からぶつかっているからです。

彼は叫んで、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。われわれを滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言ったと書かれています。
汚れた霊は確かにわたしたちを捕らえるかも知れない。しかし、それとて主イエスを恐れている。主を嫌っており、できることなら、避けたいと思っている。主が「神の聖者」「神の子」であられて、自分たちを滅ぼすことができる権威を持っておられることを知っている。そう聖書は語っています。

主イエスは「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになりました。
汚れた霊は追い出され、その霊にとりつかれていた人は解放され、自由になりました。そのようなまことに喜ばしい出来事が主のおられる安息日の会堂で起ったのであります。

この出来事を見ていた人たちは、皆驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」と言って、論じあったと書かれています。

「驚き、論じあった」と記されていますが、驚くこと、そして、論じあうこと、それらは、自由のしるしです。
「驚き」、それは偽りの平和の中に安んじていた者が、もはやそこにいる必要がなくなった。うち砕かれ、揺り動かされ、恵みに圧倒されて、神様の前に引き出されたということを示しています。

ある人が、信仰の心が携えている基本的なセンスは、驚き、あるいは不思議さ、ワンダーである。ワンダフルのワンダーですが、驚きに開かれた心である、と申しました。
すなわち、物事を当然のことと思わない、ということです。生きていること、生かされていること、それは不思議なことで、崇高でさえある、わたしたちの存在はわたしたちの思いをはるかに越えた方によっている、そういうことを受け止めるセンスです。
不思議さに対して開かれた心を持つようになっている。驚く心に生きるようになっている。神さまの恵みに共鳴する魂を与えられた。それが驚き、ワンダーです。

そして、「論じあう」とは、聖なるものに対する問いを持つようになっていることを示しています。聖なるものを尋ね求める問い、その問いの中に導かれ、それを「共に捜し求める」ようになっている。
祈るもとのされているということです。祈り、礼拝をささげ、讃美し、共に御言葉に聞くものとされているということです。

主イエスは、安息日に会堂にお入りなり、教え始められました。人々はその教えに非常に驚きました。権威あるものとしてお教えになったからです。
また、そこにいた汚れた霊に向かって、「黙れ。この人から出て行け。」とお叱りになり、その人を解き放ちなさいました。人々は、みな、驚いて、互いに論じ合ったのでした。