Mk1/29-34

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書1章29-34節でご覧になれます)

「もてなしの家」

ただ今読んでいただいた箇所には、引き続き、カファルナウムの町における主のご様子が伝えられています。
会堂での礼拝が終わり、おそらく安息日の昼過ぎかと思われます。シモンすなわちペトロの家にお入りなりました。姑(しゅうとめ)が熱のゆえに病んでいたのでお癒しになり、そして、夕食のもてなしをお受けになりました。
夕食が終ると、人々が押し掛けてきました。安息日が終わる時間だからです。ユダヤの一日の区切りは、夕方から夕方までです。安息日には働いたり、病気を治したりすることが禁止されていましたから、人々は安息日の終わるのを待って、やってきたのでした。そして、主イエスは夜通し、人々をお癒しになりました。
マルコ福音書は、これら一連の出来事を書き記して、主イエス・キリストがあらゆる人々の、あらゆる病や困難に対して、すなわち、人間のあらゆるニード、必要に対してお応えになったということを伝えています。
しかし、それは人々の求めに従って、人々の求めを満足させるためではなく、神さまのお心があらわされるためでありました。

そのことを示しているのが、主が祈るために退かれたと書かれていることです。主イエスは、人々からひとり退いて、祈る必要がおありになった。神さまのお心を尋ね、御心にお従いなさるために、人々から離れて祈られたのでありました。
35節の二つの言葉に注目してください。一つは、「人里離れた所」です。以前に用いていました口語訳聖書は「寂しいところ」と翻訳していました。そのように翻訳されていますが、「荒れ野」という言葉です。素直に翻訳すると。「荒れ野で祈られた」となります。
ところが、カフェルナウムの町周辺には荒れ野はないのです。それで、「人里離れた所」とか「寂しいところ」と言い直してます。しかし、「荒れ野」と書かれていることには意味があるように思われます。
「荒れ野」とは、主イエス・キリストがサタンから誘惑を受けられた場所です。それが「荒れ野」です。カフェルナウムの町に、人々が押し寄せてくる、そして、主はその人々をお癒しになる。そこにも「荒れ野」は存在していた。試みがあったのです。

それでは、主がお受けになった試みとは何だったのでしょう。そのことについて示すのが、注目すべき第二の言葉です。「そこで祈っておられた」と書かれています。 主は祈られた。マルコ福音書を読むと、主が祈られたと記しているのは、たった2カ所です。主は祈りの人であって、いつも祈っておられた。他の福音書を読むと、そのようなことが記されています。しかし、マルコ福音書は不思議と、主が祈られる、そのことを記すのは、たった二カ所。この箇所ともう一カ所だけです。
もう一つの箇所というのは、ゲッセマネの園です。十字架におかかりになる前夜、ご生涯の最後の夜に、主イエスは「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と祈られたのでした。
これは良く知られたことです。十字架を前に、これを引き受けねばならない。血のしたたるような汗をお流しになって、主イエスは「できることなら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られた。しかし、父なる神が愛する御子イエス様にお求めになっていたことは、その杯、十字架を負うことでありました。ご自分の身を罪の贖いとして十字架にささげられることなしには、なしえない救いを、父なる神は、御子イエス・キリストにお委ねなさっていたのです。
その救いとは、罪の赦し。和らぎ、平和です。罪人が、神さまの深き恵みよって、ただ恵みによって、神の子として受け入れられ、神の国、神のみ手のもとで生きるものとされる。罪の赦しこそ、主が携えてくださった救いです。

そのためにご自分の身を十字架におささげにならなければ、ならない。この杯を取り除いてください、そこまでしなければならいのですか、そういう誘惑を主はご生涯の終わりの時まで、お受けになっておられた。それが、ゲッセマネの園での祈りです。
そして、その誘惑と祈りとは、伝道のはじめの日々、カフェルナウムの町、愛する弟子ペトロの家において、すでに始まっていた、そうマルコ福音書は記しているのであります。

この大切な祈りの時は、弟子たちの言葉によって遮断されます。「みんなが捜しています」。しかし、その時、主ははっきりとご自分の使命をお語りになりました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのために出て来たのである。」
宣教するとは、罪のゆるしを宣べ伝えるということです。神の国の訪れ、神のみ手がおかれたこと、そのことを告げるということです。
そして、それこそ、あらゆる人々の、あらゆる病や困難に対して、すなわち、人間のあらゆるニード、必要に対して主がお応えくださっている、まことの祝福であります。

さて、今日は、「もてなしの家」という説教題にいたしました。シモンすなわちペトロの姑が、病を癒されて、主と弟子たちとをもてなした、と記されています。彼女がなした振る舞いが、さりげない、短い表現ではありますが、大切なこととして記憶されているように思われます。

「もてなした」、この「もてなし」という言葉は、「仕える」という言葉です。主に仕えた。この言葉は聖書の中でも大切な言葉です。
奇妙なことですが、仕えるという言葉をたいそう嫌う人たちがいまして、マルコ福音書には、この言葉が女性にあてはめられている、男性の弟子たちには用いられていないので、聖書は男尊女卑の思想を残している、と声高に批判する人々がいます。
確かに、女性たちが男性とは違った奉仕を示していた。それは、「もてなし」という言葉に置き換えられるように、食事のお世話とか、家の中の雑多な仕事を受け持つ、そういう分担がそこには見受けられます。
しかし、「仕える」という言葉はそれ以上のことでありまして、聖書の中の大切な言葉です。重みのある言葉です。それは、心を尽くして愛する、ということです。 イエスさまがご自分の使命についてお語りになる言葉の中に、この「仕える」という言葉が用いられています。10章45節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」。主は仕えるために、自分の命をささげるために来た、と仰っておられる。
主が何よりも仕えてくださったのです。ですから、おいそれとは「仕える」という言葉は持ち出せないはずです。あてにならない男性の弟子たちにはマルコによる福音書はこれを用いていないのです。しかし、シモンの姑に対しては、そうではなくて、彼女は「もてなしをした」「仕えた」と記します。主に仕えることが、主によって癒されたこの女性から始まった、と伝えるかのようであります。しかも、彼女の奉仕については、一同をもてなした、みんなに仕えた、と記されています。主に対して仕える、それは、食事を用意し、一同をもてなすことであった。

10年以上前になりますが、「山路こえて」という書名の本が作られました。40数年間、戦前からのことですが、東京の大きな教会で主にお仕えなさった婦人伝道師、熊野はな先生という方が、晩年書き残された文章が、一冊の本になったのでした。
この先生は、実は、浜松の出身の方です。浜松教会で洗礼を受けておられます。
日本伝道には多くの女性聖職者の働きがありました。その最も優れた方の一人が熊野先生であります。本書は先生が最後まで、祈り、神に仕える生涯を全うされた証でもあります。

「山路こえて」という書名は、先生の愛唱賛美歌から取られました。
わたしは、これを一気に読みました。たいへん興味深いもので、貴重な記録であります。
その中には、何人もの信仰の先輩の方々のことも記されています。
そのお一人に、水野恭平という海軍少将がおられます。熊野先生もたいへん尊敬しておられた方で、読んでいると、こういう方をジェントルマンと言うのだろうなあと思わされるのであります。
海軍将校として昭和18年にガナルカナルに向かうのですが、途中で残念なことに戦死なさいました。
今日、ご紹介したいと思いましたのは、女性の方らしい思いで話なのですが、水野恭平さんのお宅に突然招かれて、食事を一緒になさったというお話です。

水野さんは良く教会のお客様を礼拝の後でご自宅にお招きして接待をなさった。おもてなしをなさった。ある時、ついでに自分も呼ばれて行くことになった。けれども、そのもてなしに目が開かれた、ということを書いておられるのです。
こんな文章が綴られています。
「礼拝にはよく旅先にある宣教師や外国人、地方の牧師、教職の参加がありました。水野さんはしばしばその方々を喜んで家族の食卓に招きました。ついでにどうぞと私まで招かれるですが、いくら私でもホイソレとついて行きません。
招かれているお客様たちはともかく、そのお宅のご都合もあるでしょうし、第一主婦の立場の事情もあろうと云うものです。遠慮すべきが当然と弁えていました。
でもどうぞどうぞっと、すすめられる。しきりにそう云われるので後について行きました。そして段々と私にわかって参りましたことは私の知らなかった饗(もてなし)でした。
ここには余分は心遣いなどどこにもなくて、主婦も子供たちも喜んでいました。その食卓にはパンとバターと紅茶と真心がいっぱい備えられていて、私も寄せて戴ける食卓だということでした。それは私のまったく知らなかったものです。私もいつかこういう食卓に人を招きたいと思いました。もし人を招く事があったらこれで行こうとあこがれをもったものです。これは私たちが身につけて来た生き方とはいささかおもむきが変わったものでした。」

今日では、あるいは、当たり前のようになっているのかも知れませんが、水野さんのお宅のもてなし、というのは、家族そろって、主婦も子供たちも、食卓の一員となってお客様と一緒に楽しく心を開いて食事をする。その食卓は、決して贅沢なことでも、また、格式張ったものでもなくて、余分な心遣いなどどこにもない、それが熊野先生にとっては最上のごちそう、もてなし、と受け止められた。自分たちが身につけて来た生き方とはいささかおもむきが変わったものだった、と書いておられるのです。
食卓のカルチャーショックですね。実は、シモンの姑の家でのもてなしも、いささかおもむきが変わったものであった、ということを聖書はさりげなく記しています。

実は、当時の教師と呼ばれるような人々、たとえば律法学者とか、そういう人は、女性と一緒に食事をするということはなかったと言われます。女性や子供は一人前に見なされていなかった。
しかし、聖書が記していることは、主イエス、この最も権威のあるお方は、シモンの姑のもてなしをお受けになり、みんなと一緒に食事をされた。それは、熊野先生の言葉で言い換えると、ここには余分は心遣いなどどこにもなくて、主婦も子供たちも、弟子たちも喜んでいる。その食卓には、急いでつくった、言うなればあり合わせのものだけれども真心がいっぱい備えられていて、自分も寄せて戴ける食卓だった、ということでありましょう。
主をお迎えして、そのような食卓の交わりが開かれたのです。そのような食卓の交わりに、シモン・ペトロの姑は仕え、もてなす人であったのです。
そのようなもてなし、奉仕は、主が彼女の熱をお癒しになった、主が何よりも仕えてくださった、その出来事をとおしてもたらされたものだったのです。

ヨハネによる福音書6章27節に、次のような主のお言葉が記されています。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
このお言葉は、永遠の御国に連なる食卓があり、その食卓のために働く者となるように。もてなし、仕える者となるように、と語っています。
それは、ご自分の身を贖いのためにささげてくださった主を覚え、喜び、感謝をするということでありましょう。
そこに永遠の御国に連なる食卓が開かれているのであります。
そこでは、わたしたちも、もてなしに仕える者とされる。もてなしの家におるのであります。