2Cor2/12ー17

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:コリントの信徒への手紙二2章12ー17節でご覧になれます)

「いのちの香り」

今日の聖書には、わたしたちが「キリストの香り」である、と書かれています。

キリスト者のご家庭でお子さんに「香」と名付ける方が少なくありません。おそらくこの聖書の言葉からとられているのでありましょう。
香りというのは、感覚的なことですが、何かを連想させるものです。肌で感じるように思い起こさせる力があります。
若い女性は、思いを向ける人に、自分の香水をつけて手紙をしたためるのではないでしょうか。その手紙を受け取りますと、文字や言葉だけではなくて、その人自身が手紙と共に運ばれてきているようにさえ思える。
思いが募るわけです。

使徒パウロは、わたしたちは「キリストの香り」である、と申します。
「キリストを知る知識の香り」と言っています。
わたしたちは、喜びと感謝とをもって神を礼拝するために集っております。イエス・キリストの言葉を聞き、信仰を与えられて、神さまを賛美しつつ生きる、そのような恵みに与っているわけです。
そのわたくしたちが、実は、「キリストの香り」「キリストを知る知識の香り」として、キリストを持ち運んで、キリストを伝える器となっている、ということを使徒パウロはここで述べています。

もちろん、ここではパウロ自身のことが語られています。御言葉を宣べ伝える務めに立てられている伝道者としてのパウロのことが記されているのですが、それは、伝道者のみならず、すべてのキリスト者にあてはまることでありましょう。良き香りとして、わたしたちはキリストにお仕えしている。それが、ここに記されている信仰です。

それでは、具体的に、わたしたちはどのような香りなのでしょうか。
ここには、二つの香りのことが書かれています。
一つは、凱旋の香りです。そして、もう一つは礼拝のささげものの香りです。

凱旋の香りについては、14節に「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識を香りを漂わせてくださいます。」と記されています。
昔、新約聖書の時代に、戦争があって軍隊が戦場に出て行きます。そして、戦いに勝つと、敵の将軍や兵士たちを捕虜として引き連れて、戦利品とともに、町に帰ってきます。凱旋の行軍です。その時、香が焚かれたのでした。
町中か勝利の香りに包まれたのではないかと思います。実際に行軍を見ていなくても、戦争に勝った将軍が帰ってきたのだということがわかったと言われます。
そのお香りが、どんな臭いであったか、わたしたちにはわかりませんが、当時、この手紙を読んだ人は、良く分かっていたはずです。
おそらく、その香りは強い香りで、非常にこうばしかった、のではないかと思います。なぜかと申しますと、戦争から帰ってきた兵士たち、捕虜たちは、それとは違ってすごい臭いを発していただろうと思われるからです。
傷ついた人たち、泥まみれになって歩かされてきたおびただしい捕虜たち、が発する匂いです。
ですから、凱旋のときにたかれた香は、それらの臭いを打ち負かして、良い香りが町をおおうようにと、非常に強い、かんばしい香りが炊かれたのではないかと思います。
それが、勝利を祝う香りです。

この凱旋行進ですが、パウロはその時、どのような姿でキリストの勝利の凱旋に連なっていると考えていたでしょうか。
少なからずの人々が、キリストと共に戦った兵士たちのことを、パウロは念頭においているのだ、と受けとめているようです。わたしたちはキリストの兵士であって、凱旋将軍であるキリストのすぐ後について、晴れがましく行進している。勇ましい姿がそこには思い浮かぶ、と言うのです。
しかし、古くから、教会が読み取ってきたのは、そうではありません。行進の一番最後に、連れられてくる捕虜です。捕虜の列の中に、パウロは自分を見ていたのです。
パウロは「自分はキリストの僕、奴隷である」ということを何度も語っています。捕虜として、キリストの勝利の凱旋に連なっている。

この当時の凱旋行列は、今も申しましたように、将軍が先頭に立ち、その後に、その将軍とともに戦った多くの勇ましい兵士たちが続きます。ある者は傷つき、ある者は、分捕り品を誇らしげに見せながら、将軍のあとに続きます。しかし、わたしたちはその中にはいないのです。
行列の後ろ、普通なら、長い長い惨めな行列が続きます。捕虜になった他国の民が、その国の王様を先頭にして、じゅずつなぎにされ、鎖につながれている。言うまでも無く、その捕虜が多ければ多いほど、戦いに勝った将軍は得意になって行進ができたはずです。
その行列の最後に、わたしたちはいる。それが、わたしたちだと言うのです。

これはよく分かる譬えではないかと思います。
わたしたちの信仰生活というのは、キリストにうち負かされる生活です。キリストの恵みが、わたしたちを圧倒してくださる。わたしたちは思いがけないキリストの恵みを知らされて、その恵みに圧倒されて、いわば降伏しているのです。そこに、信仰生活が生じております。
キリストの勝利の凱旋に捕虜として連なる、それがわたしたちでありましょう。

ところが、ふつうは捕虜というと、惨めな運命が待っているわけでありますが、パウロが語りますのは、キリストの凱旋行軍です。この世の戦争の話ではありません。
この世の戦争の話なら、ただ惨めな話です。しかし、使徒パウロが語ろうとしているのは、キリストの凱旋のことです。
この凱旋においては、最後の捕虜たちをつないでいるのは、鉄の鎖でも、木で作った足かせでもありません。キリストの恵みであります。
そして、キリストの捕虜には、まことの自由が待ち受けているのであります。
悪臭を放つような捕虜たち、しかし、キリストの勝利の凱旋に伴われて、そこでは芳しい香りとなって、キリストの勝利を知らせる。
「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識を香りを漂わせてくださいます。」そう聖書は記します。

もう一つの香り、それは礼拝でささげられる香りです。15節をご覧下さし。こう記されています。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」
昔、聖書の人々は、色々な礼拝の方法を知っていました。一番よく知られ、行われていた礼拝の方法に、「焼きつくすささげもの」の礼拝、あるいは「宥めの香り」と呼ばれる礼拝がありました。以前に用いていた口語訳聖書では「はん祭」という難しい言葉が用いられていました。
牛や、羊や、山羊などを祭壇で焼きます。その全部を焼きますから「焼き尽くすささげもの」と呼ばれます。
動物を祭壇で焼きますと、そこには香ばしい香りが立ち昇ります。その香りは天にとどいて、神がそれを喜んでくださる。その香りによって、神の心をなごませることができる、そう信じたのであります。それで、「宥めの香り」とも呼ばれます。

今日は、礼拝の後でダニエル会があります。創世記を一度で学ぶということになっています。
その創世記にノアの洪水の物語があります。最近、映画化されて少し話題になっていますが、その洪水物語の中に、洪水がおさまり、陸地があらわれて箱船から降りてきたノアとその家族とは、まず最初に「宥めの香り」「焼き尽くすささげもの」をもって神を礼拝した、と書かれています。
それは、感謝の礼拝でもあります。感謝をささげて神に喜んでいただこうと、ささげられました。

また、同じ、創世記には、アブラハムの物語が記されています。信仰の父と呼ばれますが、そのクライマックスは、息子イサクを焼き尽くすささげものとして献げよ、と命じられる場面でありましょう。
約束の子、神さまがアブラハムを顧みて祝福の基とする、そう言われて、その約束を受け継ぐ子供としてやっと生まれた息子イサクを、よりによって、焼き尽くすささげものとして献げよ、と神はお命じになったというあの物語です。
アブラハムはその時、神の言葉に従いました。黙々と準備をし、イサクを連れてモリヤの山に登って行きます。「わたしのお父さん」「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする子羊はどこにいるのですか。」息子イサクがたずねます。すると、父アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くすささげものの子羊はきっと神が備えてくださる」、そう答える。二人は黙々と登ってまいります。
山頂につくと、アブラハムは祭壇を築きます。そして息子イサクを献げものとするために、剣を抜きます。その時、神はアブラハムの信仰をお認めになり、試練を終わらせたのでした。
そこには、息子イサクの代わりに一匹の雄の羊が用意されており、アブラハム親子はその羊を焼き尽くすささげものとして献げ、神を礼拝しました。その場所はアドナイ・エレ「主は備えてくださった」「主の山に備えあり」と呼ばれるようになった、と書かれています。
焼き尽くすささげものの礼拝、それは、まったき献身と信仰をささげる礼拝でもあります。

礼拝にあずかり、礼拝から礼拝へと向かう信仰の生活を守っている、そのことが、神に喜ばれる香りであり、また、キリストを伝える香りともなっている。そう御言葉は語っています。

礼拝をささげるために教会に集い、そのために自分たちの生活を少しでも整えて、許されるかぎり礼拝に集まってくるのであります。その礼拝者、その礼拝者の姿が、キリストの香りを放っている、と言うのであります。
使徒パウロは、ここで、しかし、注意深くわたしたちはキリストによって神にささげられる良い香りです、と述べています。
わたしたち自身が感謝のささげもの、信仰のささげものであり、神にささげられる香ばしい香りです。しかし、その香りは、キリストによってささげられている。キリストを通してささげられる香りであるということです。
エフェソの信徒への手紙5章2節に、このような言葉が記されています。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩きなさい。」。
この言葉は、キリストご自身が、わたしたちのための宥めの香りであって、わたしたちが愛によって歩むようにと神に献げられた供え物である、と語っています。

聖書の時代の人々の礼拝も、わたしたちの礼拝も、人間のささげる礼拝は不完全なものでありましょう。しかし、キリストがささげる礼拝はどうでしょうか。それこそ神が喜ばれるまったき礼拝であるにちがいありません。
そのような完全な礼拝があるというのです。そして、その礼拝に、私たちは結ばれているのです。

良い香りがささげられました。キリストです。そのキリストの香りにのせて、わたしたちも自分をささげることができる。良い香りとして神に喜んでいただけるのである。
その礼拝にあずかって、わたしたちは「キリストの香り」を放っている。

17節を見ますと、パウロは伝道者、神の言葉に仕える者として、「多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」と言っています。まるで、調理人のように、神の言葉を自分の手で料理して、それを切り売りする。そんな、商売人のように神の言葉に仕えるのではなくて、神の言葉、福音に自分自身がうち負かされ、キリストを心から愛する、神の言葉を慕う者として、ただキリストに生かされ、キリストに持ち運ばれて伝道者の務めに立たされている、そう記しています。