Mk2/1-12

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書2章1ー12節でご覧になれます)

「病と信仰」

今、読んでいただきました聖書の箇所には、主イエスがご自分のもとに運ばれて来た中風の人をお癒しなって、、罪を赦す権威をお持ちであることをお示しになった、と記されています。

カファルナウムの町で、ある家におられた時、中風の人、聖書の元の言葉は、全身が麻痺しているという意味ですが、その人が運ばれてきました。
誰が言い始めたのでしょうか、運んできた4人の男たち、聖書には書かれていませんが、一般に「友人」と呼ばれます。
彼らの行動を見て、自然にそう呼ばれるようになったのでありましょう。彼らは、まさに友人でした。
「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」のでした。

パレスチナの昔の家は、わたしたちの住まいとは違って、粗末な木切れや木の枝などで天上を覆い、泥をぬり、それを石で固定して、屋根としていたようです。
屋根をはがしてというのは、そういうわけですから、必ずしも、難しいことではなかったでしょう。しかし、そんなことは、普通のことではなく、めったにあり得ないことでした。

「群衆に囲まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」と記されています。
道を開けてあげる人がいなかった。
いやしを必要な人の前に、群衆はまるで石の壁のように立ちはだかっていたのです。
同じ物語を伝えているルカ福音書には「どうしても運び入れる方法がなかった」と書かれています。わずかに道をあけ、その人たちを前に出してやるというだけのことにすぎないのに、彼らはそれを拒んだのです。
屋根をはがすという尋常ではない方法がとられたのは、この群衆の異常な拒絶の結果だった、というのです。
ある人が、こう言っています。いわば、群衆の作り出す石の壁を前にして、彼らは屋根に門を求めたのである。屋根は、人の肌より柔らかだった。
人の肌は石よりもかたかったのだ、と言うのです。
なぜ、群衆は道をあけなかかったのか。他の人に不親切だ、ということだけではなかった。この人々自身、主イエスのもとに進み出る道を持っていなかったからでありましょう。
石よりもかたい人の肌は、その人自身にとってもかたいものだったのかも知れません。

屋根をはがして、中風の人を主イエスのもとにおろした4人の人たちの信仰を見て、主は、「中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』」と言われたのでした。
信仰という言葉が、ここに記されています。マルコ福音書では、はじめてわたしたちの目に飛び込んできた言葉です。
4人の男は、この中風の人を運んできた。どうしても、この人が、主イエスのもとにおらねばならない。主のお言葉の前にいるべき人である。そう信じたということでありましょう。
それを信仰とお認めになり、その彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

ところが、そこに、数名の律法学者がいて、「罪をゆるすことがおできになるのは、神おひとりのはずだ」と心の中でつぶやいたのでした。
主イエスの口から、思いがけない言葉を聞いたからです。確かに、罪を赦すことがおできになるのは、神ご自身だけであります。
神さまご自身が罪を赦すと仰ってくださらなければ、赦しということはあり得ません。しかし、主イエスが、その権威を父なる神から委ねられておられる、ということを律法学者たちは知らなかったのであります。

主イエスは、彼らのことにお気づきになり、「地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と仰って、中風の人をお癒しになりました。
罪の赦しは目には見えません。しかし、赦しは、神との平和を与え、神の御手のもとにその人を置き、神の国に結ばれて生きる健やかな命を与えます。それは、目に見えることにもなりましょう。
中風の人をお癒しになることによって、主は罪を赦す権威を委ねられていることを、お示しになったのでありました。
その人は、起き上がり、床を担いで、神を讃美し、皆の見ている前を出ていき、家に帰ったというのでありました。人々もまた、神を賛美しました。

今日は、この物語から二つのことを心に留めたいと思います。
一つは、主イエスは、家におられた、と書かれていることです。1節に記されています。
家にいる、とは、元の言葉では、アットホームというニュアンスを感じさせます。
イエス様の家がカフェルナウムにあったわけではありません。誰かの家におられたのです。そこは、しかし、主イエスにとってアットホームなところ、くつろぎの家であった。家におられた、のでした。
この家が誰の家であったのか。想像できるのは、ペトロの家です。この物語の少し前に、主はこの家を訪れ、ペトロの姑をお癒しになりった、ということが記されておりました。癒された姑は主をもてなした。そのペトロの家だったのではないか、と想像されるのです。

しかし、ここには、その家が誰の家であったかは記されておりません。その家とか、ある家でという言い方もなされていません。ただ、家におられた、と記されています。
新約聖書ではここだけに出てくる言い回しです。ある聖書の研究者が、聖書はわたしたちをこの物語の中に招き入れようとしているのだ、と言っています。
いわば匿名であるがゆえに、わたしたちがその中に自分を発見するようになる、そういう意図をもって聖書は記しているのだ、というのです。
すなわち、その家というのは、私たちの家でもある、すべての家です。わたしたちがここでの礼拝を終えて、家に帰る。自分の家に帰る。その自分の家には、キリストが伴っていてくださる。くつろぎ、憩われる。そのことを信じ、受けとめるようにと、聖書はここに、その家が誰の家であるかを、あえて書かずにいるのだ、というのです。

「この家の主人はキリスト」という言葉が刻まれた壁掛けがあります。玄関の正面に飾られます。
「我が家、この家の主人はキリスト」である。
わたしたちは、あわただしく毎日を過ごしているかも知れない。家に帰ると、神さまのことを忘れてしまう、そんな生活が待っている。あるいは、いろいろな思い煩いが、自分の家を埋め尽くしている。それこそ、戸口までいっぱいになっている。しかし、その家に、キリストがおいでになり、主人となっていてくださる。
そして、この家は、主イエスが中心にいてくださる家となる。壁掛けの言葉の意味するところです。
今日の聖書の箇所も、そのことに気づかせてくれるのであります。

ところで、主はどのような家で憩われるのでしょう。
主イエスのお語りになった小さな譬を思い出します。 汚れた霊がある家を占領している。ところが汚れた霊は追い出された。すると、家の主人は、その家をきれいに掃除をしたというのです。ところが、そこがきれいになると、汚れた霊は、仲間を大勢連れてきて、その家に再び住み着いてしまい、前よりももっとひどい状態になった、そう語られる譬です。
不思議な譬えです。汚れた霊が追い出されたら、その家は、主をお迎えするはずです。しかし、掃除に奔走するその家は、再び汚れた霊を呼び戻してしまった、というのです。
家を汚くしておりて良い、ということではないと思いますが、きれいでなければ主はおいでくださらないのだ、と考えるのは、見当違いだということでありましょう。
大阪の豊中で牧師をしておりました時、まだ40歳になるかならないかの頃のことです。聖書を読み、語り合い、一緒に聖書の言葉に思をめぐらす会がありました。毎週持たれていましたが、ある日、このたとえ話を取り上げたことがありました。不思議な物語で、みな、戸惑っておりました。
その時、私よりも少しお若い、一人の家庭の主婦が、自分が一生懸命家を掃除する時がある、ということを話し始められたのでした。それは、姑が来る、という時だというのです。その時は、どうしても家をきれいにしなければならない。厳しい姑さんなのでしょう。掃除をしなければならない、と心が急(せ)かされる。
その時のことを振り返ってみると、自分の心の中には、実は、姑には来てもらいたくない、という思いがあった。来ないで欲しいと思っていた。
だから、譬えの中で、家を清潔にしたというのは、もしかしたら、その人の思いの中には、あるがままの我が家には、主をお迎えすることが出来ない、来ていただいては困るという思いがあったのではないか。それで、サタンが再び住み着くことなってしまったのではないかと思います。そう言われたのでした。
実は、その会には、この若婦人の姑も出席しておられたので、皆、一瞬、ドキッとしたのですが、譬話については、そのとおりだ、と思わされたのでありました。
主は私たちの家で、くつろいでくださる。アットホームでいてくださる。私たちは、私たちの家がどのような状態であっても、主をお迎えすれば良い。主が、家におられる。そのことを心に留めたいと思うのです。

二つめのことは、病と信仰ということです。
今日の説教題です。いささか、大げさな題になっているかもしれませんが、病と罪のゆるし、ということであります。
ある人がこういうことを言っています。「病気ということを信仰の目を通して考えるときに、私たちは朽ちる肉体を持っているということ、病気によって死滅する肉体を持っているということを第一番に考えなければならない。それは、神によって造られた者、被造物として、私たちは生と死という限界を神様からいただいているのだ、ということです。病を得、召されていくというのは、私たちが人間だからである。」
これは、言われなくても分かっていることなのかも知れませんが、その人は、言葉を重ねて、次のように言っています。
「もしも、そのような限界を神様が与えていてくださるのなら、病の中にも、死の淵にも神様の恵みが備えられている、神の御手が置かれているはずではないか。
しかし、神様の御手が置かれていることを信じることができないとすれば、それは、最も大きな悲惨である。」

人間にとって、最も辛いこと、おそるべきことは、病や死ということではなくて、神様から離れてしまうということです。赦しを知らず、神さまとの間に和らぎがない、ということです。
罪のゆるしのないところには、命はありません。
中風の人は、「あなたの罪はゆるされる」という主イエスの言葉を聞きました。そのときに、思いがけなく感じたかもしれませんが、最も必要なことを、彼は聞くことができたのでした。

「子よ」という小さな言葉に注意してください。どうかすると、読み過ごしてしまうのですが、これは特別な言葉です。
当時の信仰の教師たちがある人を自分の弟子と認める、その時に「子よ」という呼びかけの言葉が用いられたそうです。
誰も彼も「子よ」と呼んだのではない。誰かが弟子になりたいと言ってきて、その人を弟子として受け入れる時、その人のことを「子」と呼んだのです。
ですから、こう言い換えても良いと思います。主イエスは4人の友人に運ばれてきた中風の者を、「子よ」とお呼びになり、ご自分のおられる家に迎え入れた。神のご支配のもとに招き入れ、ご自分の家族となさった。ご自分のふところに迎え入れたのです。

病は肉体的に辛いというだけではありません。心もまた弱ります。そして、しばしば、人と人とを隔てます。
病気になることによって、あるいは、老いることによって、迷惑をかけたくないという、ごく当たり前の気持ちから、病気になることを恐れるということもありましょう。だれでも、健康でいて自分のことは自分でやりたいし、家族にも迷惑をかけたくないものだ、と思います。そして、そのような配慮をするのであります。
しかし、その思いが、人を隔ててしまうということもあります。

4人の人に運ばれてきた中風の人は、全身が麻痺していたのですが、病を負って、様々な辛さを経験していたことでありましょう。
しかし、彼は、罪赦されて家に帰りました。
主はこの人を神のご支配のもとに招き入れ、御自分の家族となさったのでした。
そして、彼の家にも、主はおられ、そこをアットホームとされる。
このことも、私どもの心に留めたい、大切なことであります。

主イエスはご自分のもとに運ばれて来た中風の人をお癒しなって、罪を赦す権威をお持ちであることをお示しになりました。
その人は、床を取り上げ、神を賛美しながら、自分の家に帰ったのでありました。