Gen2/4b-9

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:創世記2章4bー9節でご覧になれます)

「人間-土の希望-」

若い頃、夏になるとよく山に登りました。季節が良いと高い山でも花が綺麗に咲いております。その可憐な美しさに心惹かれます。
木々の間にひっそりと咲いている花もありますし、開けた広い場所で群れをなして咲く花もあります。
自然の中に咲いている花を見ると、いつも、思うのです。この花はいったい、なぜ、こんなに美しく咲くのだろうか、ということです。
花には目がありませんから、自分がどんなふうに咲いているのかわからないでしょう。まして、誰かが自分を見ているなどということも知るよしがありません。
ある人に、そのことを話しましたら、その人はこう言うのです。「きっと、花は神さまが見ておられることを知っているのですよ。そして、わたしたち人間のためにも、精一杯美しく咲いていてくれる。わたしは、そう思っています。」心に留まる言葉です。

ありとあらゆるものは、なぜ、何のために、誰のために存在しているのか、あるいは、存在せしめているのはどなたなのか、という問いが、わたくしたちの内にはあります。天地創造の物語は、その問いに対する聖書の答えです。

今日は読みませんでしたが、創世記1章27節以下を読みますと、人間は神の似姿として、神のかたちに従って造られた、と記されています。
神に似ている、というのは、もちろん、姿形のことではありません。存在のあり方、在りようです。人格性と申しましょうか、人間が他者との関係に生きる、人格的な存在である、ということです。
神さまは、ご自分ではないもの、他者である、この世界を造り、これを祝福し、慈しまれまれる。そして、人間に語りかけ、「世界を治めるように」と、呼びかけてくださる。
わたくしたち人間は、その造り主である神に応答するパートナーとして造られた、そのことが、神の似姿ということです。
私たち人間もまた、神に向かって生き、神が慈しまれるように、この世界を治め、栄光を神に帰する、そこに、人間として生かされている祝福がある。そう語っています。

今日は、創世記2章を読みました。これも、天地創造の物語です。
すなわち、創世記のはじめには、二つの創造物語が置かれており、それぞれ趣を異にし、互いに補いあっているのであります。
2章4節後半は、二つ目の創造物語の書き出しということになります。
そして、ここでは、「天と地」という言い方ではなくて、「地と天を」主なる神は造られた、と記しています。
天とは、人間の手の届かないところ、高みであり、深みです。わたくしたち現代人は、この天についての感覚、センスを、失ってきているかもしれませんが、人間は、この世界を理解し尽くすことはできません。理解できない世界、見えない世界があるということを、聖書はちゃんと理解しています。それを天と呼びます。
その天の幾重にもかさなった、さらに高い天、はるかなる高み、至と高きところに神がその玉座をもっておられる。そこからこの世界をご支配なさっておられる、それが、聖書の描く天です。
それに対して、地は、人間が足で踏みしめ、手で触り、眺め、理解することができる世界。見える世界です。わたしたちが、身近に接し、親しんでいる世界です。
その天と地とで世界は成り立っている。

創世記2章は、この天と地を、地と天、と呼びます。言葉の順番を変えています。地、わたしたちがそこに生かされ、生活する地上のことに焦点をあてます。
地上の身近な世界に視線を落として、世界とわたくしたち人間のことについて語るのです。

その地でありますが、5節に「地上には、まだ野の木も、野の草もはえていなかった。」と書かれています。土だけの世界。荒れはてている世界。それが創世記2章に描かれる、最初の地上の姿です。
しかし、神は泉をわき上がらせ、土の全面を潤し、そして、生物としては最初に人間が造られた、と記しています。

これは、私どもが良く知っております創世記1章の創造物語とはいささか違います。
1章では、不思議なことですが、12節をご覧になりますと、太陽や月が造られる前の日、三日目に、地は草を生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。そう書かれています。
草ほど、どこにでも生えていて、目に付きながら、大切にされないものはありせん。野の花はその可憐な美しい装いによって尊ばれます。鳥は高く空を飛び、その自由な姿は人の心を奪います。草は、というと、それは草にすぎません。
しかし、野の花も、空の鳥も、動物も、人間も、命あるものはみな、草がなくては生きることはありませんでした。可憐な花も、自由に空を飛ぶ鳥も、そして、物を造り、いっさいの地上の物を支配しているように見える人間も、草によって生きる場所と、命の糧とを得たのです。
まだ、日の光も水もない世界ですから、草など生えるはずがありません。そのようなことは、聖書の時代の人々だって、よく知っていたことでしょう。しかし、その当たり前のことをひっくり返して、聖書は太陽や月が造られる前に、地上には草が生え、緑でおおわれていた、と記します。
草を生えさせ、実を実のらせ、花や、鳥や、動物や、人間が住まう場所、命ある者の住処を用意されたのは、天と地を造られた神様である、ということを、わたしたちに教えようとしているのです。
神様の恵みが、最初にありました。

2章の創造物語では、しかし、1章とはちがって、土だけの世界、まだ命あるものが何もないところで、最初に人間が造られたと、記しています。
7節です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
土の塵、と言いますと、何か、人間の儚いこと、儚さを思い浮かべます。
創世記3章に、人は死んで塵にかえると、記されています。たしかに、人は土にかえります。
しかし、人の生きることが儚く空しいというのではありません。そうではなくて、人は、神の前にいと小さき者だということです。
そのいと小さき者、土の塵で造られた人間は、大地、土との密接な間柄、土との結びつきが分かちがたく記憶されるのであります。
そして、このいと小さき者は、神が命の息を吹きこんでくださって生きる者となったというのです。
人間は、造られた全ての者の中で、たった一つ、鼻から命の息を吹き入れられて、生きるものとなった。

肉体は土だけれども、魂が霊的な命を得たというのではありません。
また、人間を特別な霊的に高揚した偉大な存在にしたというのでもありません。
神のあわれみと恵みによって、いと小さき者として神を賛美し、神の言葉にお応えして、感謝しつつ生きるものとなったということです。

そして、15節を読みますと、神はエデンの園を儲けて、人間をその園に置かれ、「人がそこを耕し、守るようにさせた」と記されています。
ここにも、また、大切な真実が教えられています。
人間は地に属するものとして、しかし、その土を耕し、草木を栽培する耕作人として、置かれたということです。
エデンの園は耕す人を待っていました。神は人間に園の草木を耕し守る労働の務めを与えられたした。楽園は、人間が何もしないで怠惰に過ごす死んだような所ではなかったのです。神が草木を創造し、泉をもって潤すように、人は神の働きに寄り添って、これを耕すのです。
「耕す」という意味のヘブライ語は、「仕える」「奉仕する」とも訳されます。エデンの園に憩い、潤い、喜ぶ人間は、同時に、それを守り、耕し、仕える者として置かれたのだ、と伝えています。

創世記2章には、まだ、なお、大切なことが記されていますが、今日の箇所に関連して、一つのことを心に留めて、祈りを献げたいと思います。

先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙15章です。
主イエス・キリストにある私たちの、生きることと死ぬことについて教えている大切な聖書の言葉です。
ここに「まかれる」という言葉が何度も何度も繰り返されています。種をまくように、まく、ということです。神さまが人間に命をお与えくださったことを、農夫が種をまくことに例えています。
そして、その種蒔きというのは、「朽ちるものでまかれ、卑しいものでまかれ、弱いものでまかれ、肉のからだでまかれた」と記されています。
「朽ちるもの」。「卑しいもの」「弱いもの」「肉のからだ」。これは、よく分かる言い方です。それが人間です。創世記の言葉で言えば「土」ということになりましょうか。私どもはそういう存在だということを、年を重ねるごとに悟っております。
しかし、聖書は、この朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、肉の体は、農夫が畑にまく種のようなものであって、あたかも、種は姿をかえて、芽を出し、成長し、ついには豊かな穂を実らせるように、「朽ちないもの、栄光あるもの、強いもの、霊のからだ」によみがえるのだ、と言って、キリストにある私たちの復活について教えています。
種蒔き、その時、種をまく者の思いはどんなでありましょうか。農夫は、おそらく種を蒔くとき、悲しみの心で蒔くことはないと思います。勿論、いろいろな人生の出来事の中で、悲しみを経験し、涙を流しながら種蒔くという時もあるかもしれませんが、それとて、涙に沈んでいるというわけではない、種を蒔くと言うことは、涙をこらえ、それをふき取って、蒔くのだと思います。
種蒔きには収穫を願い、予想し、喜びと希望とが委ねられています。
地上の人間の生涯というものは、確かに、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、肉のからだ、です。しかし、聖書は、それは「まかれた」というのです。神がお蒔きになった。
農夫のように、喜びと望みを携えて、蒔いたのです。それが、主イエス・キリストにある、わたくしたちの地上の生涯なのだ、と聖書のみ言葉は記しています。

わたしたちは、土の恩恵、草木の糧を恵みとして与えられて生きております。それと同時に、人間はその土そのものであり、土で造られ、土にかえるのであります。まさに、土であり、草であります。
しかし、神さまがこの人間に命を与え、神に仕える者として、土を耕す者とされました。土を耕す者として、蒔かれたのであります。
それで、ある神学者は、人間は土の希望である、と申しました。
「人が土にかえる時、土に希望を携えて行く」。
心に留めたいと思います。