Gen6/9-22

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:創世記6章9ー22節でご覧になれます)

「神と共に歩む」

創世記6章は洪水物語です。
読んでいただいたのは、物語の一つのはじまり、導入です。

物語は、よくご存じのとおりです。アダムとエバ、カインとアベルの時代から、幾世代もが過ぎたころのこと、地上に人々の悪がはびこったので、神が人を創造されたことを後悔し、地上から人をぬぐい去とうと決めて、大きな洪水をおこしたのでした。
ところが、ノアという人がいて、この人は神に従う無垢な人で、神の好意を得ていました。
神はそのノアに箱船を造るようにお命じになり、ノアの家族と、動物たちは、洪水を免れたのでした。

洪水伝説は旧約聖書だけでなく、聖書以外の古代文献にも多くみられます。特に、メソポタミアの、ギルガメシュ叙事詩に記される洪水物語が有名です。大洪水と箱船による救済の物語が綴られています。
旧約聖書の洪水物語の起源が、そこにあると考えられております。
しかし、言うまでもないことですが、旧約聖書は全く独自の視点から、洪水を物語っています。聖書の信仰に彩られて、綴られているのであります。

創世記の6章から9章までが、洪水物語となっています。
読んでいただいた箇所は、物語の一つのはじまり、導入であると申しました。一つの、というのは、書き出しが、二つあるからです。
一つは、5節から8節です。お気づきのように、そこでは神さまのお名前が「主」と表記されています。
アダムとエバの物語、カインとアベルの物語と同様に、ヤハウェ資料と呼ばれる、古い、おそらく紀元前9世紀あるいは8世紀に編まれ、綴られた伝承のまとまりに属しています。
もう一つが、今日の箇所です。今日、聖書の研究者は「祭司資料」と呼んでいるのですが、より新しい、おそらく紀元前6世紀、あるいは5世紀に編まれた伝承のまとまりに属するものであると、考えられています。

現在のノアの洪水物語は、この二つの資料、伝承のまとまりが、パッチワークのように綴り合わされています。
それで、物語を読んでいきますと、二度にわたって同じ事柄が記されたり、細かな矛盾や、整合性のとれないところが見られたりいたします。
たとえば、ノアに対する神の命令が繰り返されています。また、箱船に入る動物の数や、洪水の期間、長さも違っています。

このように、二つの資料が綴り合わされていることは、この物語に、豊かさを与えていると言えましょう。聖書の人々は、物語の整合性よりも、豊かさのほうが大切なこと考えたのではないかと思います。私たち現代人とは、少し、センスが違います。
ある聖書の研究者は「一つの神の業について二つの響きを聞きとることができる」と言っています。

今日の箇所は、祭司資料と呼ばれる伝承のまとまりに属すると申しましたが、創世記の1章の天地創造の物語がこれに属します。一日一日と神の創造の働きが積み重ねられ、7日目に、完成されて、神はご自分の仕事を離れ、安息された」と記される第一章の天地創造物語です。 また、創世記には、何ヶ所かに人類の系図が記されています。5章には「アダムの系図」という表題がありますが、アダムからノアまでの長い系図が記されています。系図も祭司資料に属しています。
この創世記に記される系図には、一つのハッキリとした特徴を読み取ることができます。
それは、天地が創られて後、人々の寿命が、だんだんと短くなっていっているということです。

良き物として造られた人間、その人間に与えられた祝福が、歴史を経るにしたがって、だんだんと失われていく、祝福から遠く離れていったということを表現しています。
そして、ノアの洪水物語では、11節ですが、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。」と記されて、人類の堕罪の歴史が、深刻なものとなっていたということを物語るのであります。
11節から13節には、「堕落した」という言葉が4回繰り返されています。4回というのは、13節では同じ言葉が「滅ぼす」と訳されているからです。
シャーハトというヘブライ語です。一般的には「破壊」「滅亡」を意味します。
ですから、「堕落した」とは、道徳的退廃というだけではなく、創造された世界、その秩序の破壊を意味しています。

「不法」という言葉も用いられていますが、人間社会における暴力的な行為を指すものです。
人間が傲慢で、尊大になり、暴力によって、神の創造された秩序をめちゃめちゃに破壊したというのです。

それで、13節には「すべての肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」と記されるのであります。
終わらせる、とは滅ぼすという意味です。審判、裁きを告げる言葉です。
この言葉をよく用いたのが旧約聖書の預言者です。預言者が見た荒廃した社会状況が、大洪水以前の人間の堕落と重ねられています。
しかし、神はノアに箱船の建造を命じます。
この箱船の中で、ノアとその家族、また、数え切れないほどの生き物全種類が守られ、養われ、保たれることになります。

18節に、「わたしはあなたと契約を立てる」とあります。神は、洪水によってすべての肉なるものを滅ぼすとノアに告げますが、ノアとその家族だけは破壊から救済すると約束されるのでした。単なる約束ではありません。「契約を立てる」と語られています。
「契約」(ベリート)は古代イスラエルの政治や社会において重要な役割を果たしますが、同時に、神と民の関係を表す重要な思想でもあります。
神が人々を顧みて、恩恵を施し、選び、ご自分の民とされる、ということです。
新しくされる世界に、新しい神の民が造られる、その約束が告げられています。
そして、神はすべての生き物のうち、一つがいずつ箱船に乗船させよ、と命じています。19節です。「あなたと共に生き延びるように」と、その理由も書かれています。新しくされる世界で、人は造られたすべての物とともに生きるというのです。

このように、今日の箇所は、人間に対する神の審判を語っており、同時に、神は滅ぼすことだけを望んでおられたのではなくて、新しい世界の創造、世界と人間とに、祝福が取り戻されることを願っておられ、その道を備えていてくださり、助けがあるということを伝えているのであります。

今日は、この聖書の箇所から、三つのことを心に留めたいと思います。
一つは、ノアの箱船が主イエス・キリストと教会とを指し示しているということです。
15,16節に、箱船の大きさと構造が、細かく記されています。
1アンマは約45センチですから、長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートル、ということになります。そして、それは3階建てであるというのです。
造船業にたずさわっていた、ある人が箱船は、今で言えば、数千トンの船に相当すると言っておられました。
今日、もっともっと大きな舟が造られていますから、私たちはさほど驚かないのですが、聖書の時代の人々にとっては、驚くべき巨大な箱船です。
それは、ただ大きいというだけではありません。その大きさと構造は、実は、エルサレムの神殿を思い起こさせています。三階建ての箱船を、その一階一階を、平面に並べてみると、エルサレム神殿の構造に対応しています。
神殿は神の宮です。神が共にいてくださることを教え、人が神を礼拝するところです。
新約聖書は、その神殿に代わって、十字架と復活の主イエス・キリスト、そして、キリストを頭と仰ぐ教会が神の宮となったと告げています。
ですから、破壊を生き延びる唯一の救済の場所であった箱船は、主イエス・キリストの教会を指し示すこととなりました。
箱船、そして、舟は教会のシンボルとなっています。

二つ目のことは、ノアについて語られていることです。
9節をご覧ください。「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神の共に歩んだ。」そう記されています。
ノアは神の思し召しを受けて、洪水を生き延びた人ですから、その人となりは、神の救いに通じると申しましょうか、救いに結ばれる人の姿が指し示されているということでありましょう。
つまり、洪水後の人間、新しい創造にあずかる者の姿が、ノアの姿の中に映し出されていると言えましょう。

「神に従う」とは、「正しい」とも訳されます。それは、神との正しい関係にあるということです。すなわち神に喜ばれる人ということです。
この言葉は、しばしば、「貧しい」という語と結びついて聖書には出てまいります。正しい人は貧しい人でありました。
貧しいとは、心の貧しい人ということです。謙遜ということでしょうが、それ以上のことでもあります。自分を支えるものを何も持っていない貧しさです。
主イエスが「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はそのような人たちのものである」と仰せになりました。
その貧しさです。
神を必要としている、神に寄り頼むほかない人間です。自分は神の恵みによって生かされているのだということを心得ることとなった人間です。
キリストを仰ぐ、貧しさと言うこともできましょう。 そのような人こそ、神に喜ばれ、神に従う者なのだというのです。

「無垢」というのは、日本語から予想されるような「心が汚れていない」という意味ではなく、神の御前に裏表がないという意味です。
つまり、人間として善良であるとか、汚れがないということよりも、神との関係に嘘がない、信頼しきっているということです。
そのような人が、神と共に歩むのであります。
洪水後の人間、新しい創造にあずかる者の姿が、このようにしてノアの姿の中に映し出されています。
ノアは神の恵みを得た人なのであります。

ノアが得た恵みは、大洪水を生き延びたということに留まりません。神が全地を滅ぼそうと決心されたその時に、神がノアに目を留め、救いの道を示し、契約の相手としてくださった、ということです。
それは、私たちが主の教会に招かれ、神の民とされている、ということと同じことであります。

三つ目のことは、ノアが黙々と箱船を建造したということです。
ノアは、黙って、神の命令に従いました。ノアは、神に顧みられた恵みをかみしめながら、従いました。神の言葉を信じる者として、生かされたのであります。そして、箱船を作ります。

大きな箱船です。ノアとその家族は、どのようにしてこれを造ったのでしょうか。途方も無いことのように思われます。しかも、海辺にではなく、陸地に船を造ったのでした。人々は、怪しみ、あざ笑ったことでしょう。狂気の沙汰では無い、ノアは気がおかしくなった。そう思ったに違いありません。
しかし、ノアは忍耐し、黙々と神の言葉に従って、箱船を造りました。22節に「すべて神が命じられたとおりに果たした」と記されています。

先ほど読んでいただいた新約聖書、ヘブライ人への手紙11章7節には、ノアのこの行為を彼の信仰と言いあらわしています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。そう、書かれておりました。

このように、ノアは信仰者の模範となりました。
わたしたちも、途方も無いようなことに取り組んでいるのではないかと思います。
教会に集い、神を賛美し、礼拝を献げては、教会を建てます。
また、神の言葉を傾聴するために聖書を学び、神がお語りくださるのを待ちます。そして、私たちの小さな地上の歩みを神の国への旅路と心得るのです。その旅路を辿りとおすこと、これも、当たり前のことではありません。途方も無いようなことに取り組んでいる。
また、み言葉を信じて、目に見えない神様に従って生きることは、世間の常識からすれば、あたかも船を海辺にではなく山に造るようなものでありましょう。
しかし、私たちが取り組むようにと招かれている、この信仰の歩みは、神の恵みと約束によって始められ、導かれているのです。
そして、忍耐し、黙々と神の言葉に従って、箱船を造ったノアが、私たちの模範として与えられているのです。