Gen12/1-8

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:創世記12章1ー8節でご覧になれます)

「救いに結ばれた歴史」

アブラム、後にアブラハムと呼ばれるようになる独りの人物が、神さまの召しを受けて、旅立ちました。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、
わたしが示す地に行きなさい。・・・・
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」

この言葉を信じて、旅立ちました。
信じてとは、まさにその通りです。
新約聖書のヘブライ人への手紙は「信仰によって」「行く先を知らないで出て行った」と記しています。
「行く先を知らない」。にも関わらず、出立する。そこに信仰の現れを見ています。

今日は、このアブラムの出発の物語に心をとめ、神さまを讃美したいと思います。

創世記12章から創世記の終わりまで、創世記の後半部分ですが、それを族長物語よ呼びます。
アブラハムにはじまり、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語です。大きな民族として形をなす前のこと、神の民イスラエルの歴史の、小さな、しかし、大いなるはじまりが綴られているので、そのように呼ばれます。

この族長物語は、神による救いの歴史のはじまりでもあります。
この世界と人間は、救いを必要としているということを聖書は告げています。
そのことが、アダムとエバにはじまり、カインとアベル、洪水、そして、バベルの塔、それらの物語をとおして語られてきましたが、
人間が、神さまに背を向け、神から離れて自分を主人としようとする、その結果である、悲しむべき有様が描き出されて来ましたが、その世界の中に、神は手をさしのべて、人類をお救いになるために、アブラハムをお選びになったのでした。

「救いの歴史」というのは、不思議な言葉だと思います。神様の救いに歴史がある、というのです。
救うか救わないか、それを二者択一で考えれば、歴史とは相容れないように思われます。
「救うならば救う、救わないならば救わないとはっきり」すればよい、と考えるからです。

しかし神様は救いを必要とするこの世界と人々の歴史に働いて、救いを必要とする人間をたてて、救いの歴史を開かれるのです。
それは時間をかけ、愚かな人間の歩みと営みを用いて、救いのみ業を展開していかれる、ということであります。
これが聖書が証しする神さまの為さり方なのです。
愚かな人間、その人間を自由な者として生かしつつ、祝福を回復しようとなさるのです。

旧約聖書のイザヤ書に、このような言葉が記されています。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」イザヤ書42章3節に記されている言葉です。
葦とは、川辺に茂る細々とした植物です。その葦は傷ついている。その傷ついた葦を折ることは容易いことでしょう。また、折ってしまったほうがスッキリするかもしれません。しかし、それを折ることをしない。
また、暗くなっていく灯心、いわば風前の灯火。どうせ、消えるなら消えるままにしておけば良い、いや、さっさと消してしまえば良い。それしか手立てはないようにも思われる。しかし、これを消すことはしない。
折ることなく、消すことなく、神は裁きを導き出す。正しい裁きによって救いを打ち立ててくださる。以前、用いていた口語訳聖書は「真実をもって道を示す。」と訳していました。

歴史は苛酷で残酷な一面を持っています。葦は傷つき、灯心は暗くなっていく。その人間の歴史に、神さまの救いが導き出される。神さまの真実、その「まこと」によって、道が示される。救いの歴史が寄り添うというのです。これは良き知らせです。
神さまはアブラハムをお選びになって、世界の中に、手をさしのべて、救いの歴史を始められた、と聖書は記しています。
地上の歴史が、神の救いの舞台となったのです。

「祝福する」という言葉があります。
祝福とは、アブラハムに即して申しますと、新しい未来を創造するための神の力です。
過去および現在とは断絶した新しい未来。そのための神の力、神の意志が、祝福です。
人間の全存在を根底から支え生かす力です。

アブラハムはこの時、初めて旅をするようになったと言うわけではありませんでした。
聖書を読むと、アブラハムとその家族の生活形態は、遊牧民、正確には「半遊牧民」と申しますが、旅を続ける人たちでありました。
彼らは、都市の周辺を渡り歩き、都市住民と契約して、一定期間その周辺に留まり、留まっては旅をする。そのようにしながら羊や山羊を育てていくのが半遊牧民です。
ですから、もともと、小さな旅を繰り返しているのがアブラハムの家族の生活でありました。
しかし、それだけではなくて、都市の周辺を巡りながらでありましょうが、父テラと共に、その家族は、長い旅をも経験していたのでした。

11章の終わりに、そのことが書かれています。
ウルという町を離れ、カナンに向かった。その途中ハランに立ち寄り、そこに住まうことになった。父テラはそこで生涯を終えました。
ウルというのは、メソポタミア、チグリス・ユーフラテス川の河口に近いところです。文明の栄えてところで、すぐれた都市が建設されていました。中でもティグリットと呼ばれる巨大な塔が有名です。創世記11章に記されているバベルの塔の物語は、そのティグリットに起源があると言われています。
月の神を礼拝するために造られたようです。しかし、そこを離れてカナンに向かった。テラとその家族には、何か住み辛さがあったのかもしれません。
カナンというのは今のイスラエルのあるところです。パレスチナとも呼ばれます。その途中にあるハラン、そこはウルの町から西に700km以上離れている都市です。そこまで長い旅を続けてきたのでした。

しかし、その旅は、神の言葉に従ってアブラハムが旅立ったとき、終わりました。
アブラハムの旅立ちは、かつての旅が再開されたというのではく、その旅は終わり、まったく新しい旅が始まったのでありました。
神の呼びかけ、選びと召しによる、祝福の旅であります。

「行きなさい」。短く、力強い、この言葉が、神の語られた最初の言葉です。
「生まれ故郷、父の家を離れ」とあります。以前用いていた口語訳聖書は「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」と訳していました。
そのほうが原文に即しています。アブラハムにとって、当時、国はなかったので、新共同訳聖書は、「国を出て」という言葉をあえて訳さないようにしたのでありましょう。
国という広い枠組みから、親族というより小さな枠組みへ、そして、その焦点は、もっとも身近な父の家へと向かうように、言葉が並べられています。
人間にとって最後の砦が父の家、すなわち、自分たちの家でありましょう。
その家をも離れて、「私が示す地に行きなさい」と言われたというのです。

余談ですが、
ある人が、アブラハムは現代人と通じるところがある、と申しました。
現代人は、文字通り、移動し、旅を重ねながら、人生の旅路を辿るようになりました。
これからの時代は、ますます、そのようになるでありましょう。
「行き先を知らず」「故郷を離れ」、「地上では旅人であり、寄留者であることを自覚する」。この世の特定の土地とは結びつかず、しかし、そこで経済的な成功をなし得た人、それがアブラハムだからです。
現代人も、伝統的な共同体や国家を捨てて、国境を越えた経済活動を行い、故郷を離れて「あるいは失って」、異国の地に住み、異なった文化の中で共存し、都市の匿名性の中で自由に生きるのかも知れません。
国家の支配や経済の現場は一時的であり、また変化するものであることを知って、一国の経済活動も破綻することを考慮に入れ、一国の通過や経済システムに取り込まれることを嫌う。
このような現代人の原型が、アブラハムの生き方にすでに見られるというのです。
そうかも知れません。

しかし、アブラハム旅は信仰による旅でした。「私が示す地に行きなさい」という神の言葉に従って、旅だった信仰の旅です。
神が示す地とは、カナンを指しています。アブラハムの物語の背景となる時代には、実は、カナンという呼び名は存在しなかったようです。
物語が語り継がれ、書き記されるようになる、後の時代に現れた地名です。
そのカナンが、約束の地となります。
ところが、アブラムへの言葉は、そのことよりも、その後の、アブラハムに託された役割、祝福を告げる言葉に、より大きな比重がかけられているようです。
「わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
すべての人の祝福の源となる、そう神はアブラハムに約束されたのでした。

聖書には書かれていませんが、アブラハムは、このとき大いに戸惑ったのではないかと思います。
すでに75才、しかも、11章30節を読みますと、妻サライは、もはや子どもを宿すことができない。不可能なことと思われていました。
神さまの約束はどのようにして実現できるというのでしょうか。その手だてに思い至ることがなかったでしょう。
また、まことに小さな、しかも、他の人々と変わることのない人間である自分と自分の家族が、すべての人々の祝福の源となるなどということは、思い及ぶことなどできるはずがありません。
そうではありますが、アブラハムは旅立ちました。
アブラハムは、甥のロト、妻サライ、彼女は後にサラと呼ばれるようになります。そのサライと、すべての財産、また、ハランで加わった人々と共にカナン地方へと向かい、シケムの聖所、モレの樫の木まで来て、そこで祭壇を築いて神さまを礼拝したのでした。
さらにベテルとアイの間に天幕を張りました。それらの土地は、パレスチナの山岳地帯です。
そして、さらに南にくだりシナイ半島に近いネゲブ地方へと移ったというのです。
移り住むところでは、どこでも祭壇を築き、主の名を呼んで、礼拝を献げました。
礼拝をささげ、旅立ち、留まって礼拝を献げる。そして、旅立つ。これがアブラハムの旅の姿として、短く伝えられています。

このように、「祝福の源となる、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神さまの言葉を信じ、アブラハムは「行く先を知らないで」旅立ちました。信仰によって出発したのであります。
このアブラハムの旅は、主イエス・キリストを指し示しているように思われます。
主イエス・キリストの誕生によって、神様がその救いの歴史において新しい、決定的な1頁を開いて下さったのでした。
独り子、まことの神であられる主イエス・キリストが、アブラハムの子孫として生まれ、私たちの救いのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さるために、この世に来て下さいました。
これは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」その言葉の現れでありましょう。
主イエスは、父なる神の家を離れ、天の栄光の座を離れて、この世へと、人間の罪とその結果の最中、荒れ野へと旅立って下さったのです。
その主イエスが、まことに、全ての人の救いの源であります。
祝福、新しい未来を創造するための神の力、過去および現在とは断絶した新しい未来。そのための神の力、神の意志、真実が、十字架にご自身をささげてくださった主イエス・キリストによって示され、現されました。

そして、神様は、私たちに、この主イエスを見上げ、主と共に旅立つことを求めていてくださいます。
神の恵みのみ手、神のまことにお委ねして、祝福の源として召されたアブラムの旅に連なるように、
新しいイスラエル、まことの神の民である、キリストの体に結ばれて、歩むように。そのように招き、また、お遣わしになります。

わたしたち一人一人の信仰の歩みは、小さなものです。小さなものであっても、祝福の源であるイエス・キリストに結ばれており、すべての人がその祝福に入るようにとの神さまの救いの歴史に歩むものであります。