Mk2/18-22

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書2章18ー22節でご覧になれます)

「今、喜び祝え」

マルコ福音書2章には4つのエピソードが記されていますが、いずれも主イエスや弟子たちの振舞いが人々を驚かせ、戸惑いを与えており、悪口や非難や問を引き出しでいます。
中風の人をお癒しになり「罪ゆるされた」と宣言されたとき、イエスさまは「神を汚すことだ」という非難を受けました。また、取税人や罪人とともに食事をされたときには、「なぜ、あのような者たちと食事をともにするのか」とやゆされています。今日の箇所では、弟子たちが断食をしないというので、なぜかと言って質問を受けました。そして、このすぐ後の物語では、弟子たちが安息日の律法を守っていないと言うので、同じように「どうしてだ」と非難されています。

キリスト者というのは、どこか他の人々とは違った振舞いを身につけるようになっているのではないか、と思います。
一昔前までのことですが、品行方正、勤勉というのがキリスト者の特色の一つでした。メソジストの教会はこの点について模範的なところがあったのではないか、と思います。
あるいは、お酒やタバコをたしなまない、というようなこともキリスト者の特徴の一つでした。ピューリタニズムの影響だと言われます。今でも、牧師の中には禁酒禁煙という人が少なからずいらっしゃいます。
しかし、残念ですが、今はだいぶ様変わりしています。
もう随分前のことですが、友人の牧師とレストランに入って食事をした時のことです。お店が混雑して、若い純朴そうな女性二人と相席になりました。友人は、話し上手でおしゃべり好きでして、その二人の方とお話をするようになりました。ところが、しばらくして、彼女たちが私たちに質問をしてきました。「失礼ですが、お仕事は何をしておられるのですか」。
話し方や容貌が、変わっていたのでしょう。どうも得体が知れない。わたしたちは、「牧師です」と答えました。「ああ、なるほど」と納得してくれると思ったのですが、彼女たちの反応は、「ウッソー」でした。
これには愕然とさせられました。この二人の女性にとって、牧師や神父というのは、静かで、口数が少なく、食事は質素で、背筋をピンと伸ばし、歩くときはすり足、そういうイメージを持っておられたようで、わたしたちにはまったく当てはまらないというわけです。

こういう特色というのは、信仰がその時代その時代に養い育てたものです。
ですから、時代によって、あるいは、地域によって、キリスト者の振る舞いの特徴というものに、違いがあるかも知れません。
いずれにしても、キリスト者というのは、どこか他の人々とは違った振舞いを身につけるようになっているのではないか、と思います。
それは、主イエスが「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と仰せになっておられますが、何か特別に新しいことを含んでいるのではないでしょうか。

今日の聖書の箇所ですが、弟子たちが、食卓で飲み食いしている様子を見て、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのか、と人々が問うています。
バプテスマのヨハネの弟子たちは、度々断食をし、祈りをささげている。ファリサイ派の弟子たちも同じようにしているのに、主イエスの弟子たちは飲んだり食べたりしている。

私たちには、ほとんどその習慣が失われおりますが、聖書の時代から、断食をする、すなわち食べることを控えて空腹を味わうということが、信仰者の良き振る舞いとして、奨励されておりました。
しかし、それは、難行苦行と申しましょうか、自分の救いの達成のために為す業(ごう)ではありませんで、祈りでありました。悲しみや、辛さや、苦しみと共に、この世界と人生を受けとめて、それらを人々と分かち合い、神の憐れみを祈ったのであります。
食べることの悲しみというものがありましょう。人は食べることなしには生きていけませんし、それは人間の基本的な喜びでもあります。
しかし、食べることは時として、私たちを貪欲にさせます。わたしたちは食べるために一生懸命働いていると言っても良い、生きることは食べることだと言い替えてもいいくらいですが、そこに悲しみも潜んでいます。食べるための争い。戦争も起こります。そう考えていくと、食べることの悲しみということもありましょう。それは、人生や世界の悲しみに深く結ばれていると言っていいのであります。
ですから、悲しみとして人生や世界を受け止めることのできる人は断食をしたのだと思います。食べる物が喉を通らないような悲しみを憶え、共に懺悔し、悔い改め、克服しようとする祈りとして断食をした。天の都にいたる巡礼の旅路がここにあると心得たのです。

それで、時を定めて、断食をする。そのような習慣が生まれておりました。
旧約聖書の律法には、年に一度、贖罪日あるいは断食日と呼ばれる日が定められており、それに従って守られていた、ということは知られています。
また、一週間に二日、月曜日と木曜日を断食の日として守るという習慣が主イエスの時代にはあったようです。ことに敬虔な人々は、これを守り、その日には、太陽が昇っている日中は食事をしなかったのでありました。
ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちが断食していたというのは、そのように規則的に守られていた断食のことです。

慣習になっているということは、形式だけになって内容が空虚になっていたというのでは、必ずしもないと思います。
日常の営みとなっていた、そのことがいつも身近に理解されていたということです。そこに信仰者の歩むべき道筋があると心得られていたのでした。断食は敬虔な信仰者の特徴を示す振る舞いとなっていた、ということであります。
神さまをあがめ、神さまの救いを待つ者の姿というのは、断食の中に一つはっきりと読みとることができる。そう思われていたのです。

ところが、イエスさまの弟子たちは断食をしていない、そのように思われる。少なくとも断食がその特徴的な姿ではなかったのでした。
それどころか、みんなが断食をしている時に、食べたり飲んだりしている。喜び祝っている。徴税人や罪人と一緒に食卓にさえついている。いったいどういうことなのだろうかというわけです。
それですから、人々は主イエスに問うたのでありました。

この人々の問いは、この時だけのことではなくて、いつの時代も、主イエスの弟子たち、すなわち教会に向けられる問いであります。
福音書が書かれた時代の教会も、すでに、イスラエルの人々の習慣から離れていたのでしょう。独自の歩みが始まっていました。
断食をまったくしないというわけでは無かったと思います。使徒言行録の中には断食の話がでてまいりますから、それをすることもあったに違いありません。しかし、断食ということよりも、喜びの宴、祝いの食卓を囲むこと、そのことのほうが、教会の特徴的な姿になっていたようなのであります。
この世界と人間の営みに伴う、悲しみや、辛さや、苦しみを、受けとめる心を失ってしまったということではありません。
そうではなくて、その悲しみや、苦しみを貫いて、私たちに備えられている喜び、その喜びを記念することが許されており、それを受けとめていた、ということであります。

主イエスは、こう仰せになりました。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪いとられる時が来る。その日には彼らは断食することになる。」
言うまでもなく、花婿とは、主イエスご自身のことを指しています。そして、主のおられるところには、婚礼の喜び、祝いの宴が記念されるのであります。

イエスさまは、悲しみを知らないはずがありません。いや、いちばん良く知っていてくださったはずであります。
主イエスご自身、断食をなさいました。40日40夜の荒野の断食のことは、よく知られています。40日の断食をもって、公のご生涯を歩み出されたのでした。そして、そのご生涯は、この世の悲しみを背負うものでありました。
ご受難、十字架が、主の地上のご生涯のお姿となりました。
「花婿が奪い取られる時が来る。」と仰せになったのは、ご受難と十字架を指しているのでありましょう。そして、「その日には、彼らは断食をすることになる」と仰せになったのでした。
花婿は悲しみを知っており、それをご自分のこととして受けとめていてくださるのです。
私たちが断食をするとすれば、主イエス・キリストに結ばれて、そのみ苦しみを憶える。主に結ばれてのことでありましょう。
しかしながら、主イエスはわたしたちに断食を用意してくださったのではありませんでした。宴、婚礼のような祝いと喜びを開いてくださいました。

婚礼というのは、当時のパレスチナの田舎では、最上の喜び、祝宴だったそうでせす。何がなんでも、その喜びにあずかる。婚礼がある時には、その日が律法を教え、学ぶ日であったとしても、また、断食の日であっても、それを中止して、祝いと喜びのために集ったのだそうです。
それで、婚礼の祝いの喜びというのは、神さまの御国を示す、しるしとなりました。
「あなたがたは「婚礼の客」です。花婿が一緒にいるのですから、客は断食などできない。お客に断食を勧めるような花婿もいない。喜びの食事に招くのだ。」とイエスさまは仰せくださるのであります。

「婚礼の客」という言葉があります。この言葉は、ちょっと変わった言葉で。直訳すると、「新郎新婦の寝室にいる男の子たち」という言葉になります。
どうしてこういう言い方が生まれたのか、だれもはっきりとは説明してくれないのですが、この言い回しから想像するのは、この客というのはただの客ではなくて、寝室にまで訪れるほど親しい友人のことなのではないか、ということであります。新郎新婦の喜びを、心から喜ぶ親しい友人。
「それは、何もかも、新郎新婦と一緒に喜びを祝うことができるような友人」のことであります。

イエスさまは、ご自身を花婿と呼び、喜びの食事を共にしよう、と仰ってくださるのです。
それは、すでにイエスさまが悲しみを喜びに変えてくださっているからであります。
悲しみの道はわたしがもうすでに歩み終えている。わたしが歩み通した。わたしは悲しみの道を踏みしめ、それを喜びの道に変えてきた。だから一緒に喜んでおくれ、とイエスさまは仰ってくださるのであります。

教会の歩みというものは、この主イエスによって与えられた新しい命の中に生きるものであります。罪の赦しによる新しい命、神の国の喜びにあずかるのであります。
どんなに、悲しみや、辛さや、苦しみが、そして、人間の罪が、この世界に深い陰を落としていたとしても、花婿がおられる。その喜びを見失うことはない。
花婿があたかもおられないかのように、ひとり断食に生きるということはないのであります。

今日は聖餐式に与ります。食卓を囲んで礼拝をささげます。主の十字架と復活を記念して、その恵みに与ります。
聖餐の交わりは、喜びの祝いです。主のみ苦しみをしのび、そして、賛美と感謝をささげ、主の備えてくださった喜びにあずかります。
わたしたちも、何かキリスト者としてふさわしい振る舞いを身につけているとすれば、それは、何よりも、この聖餐の恵みにあずかると、いうことではないでしょうか。
この恵みをわたしたちは必要としている、畏れと喜びとをもってこれにあずかるようにと招かれている、そして、主は私たちをこの喜びの中に生かしてくださいます。