Mk3/7-19

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書3章7ー19節でご覧になれます)

「小舟をと、主は言われた」

洗礼を受けて教会の会員になりますと、「キリスト者」あるいは「クリスチャン」と呼ばれます。今日、一般的な呼び名として定着しています。

しかし、この「キリスト者」という言い方は、ご存知のように、もともとはあだ名でした。使徒言行録に記されておりますが、アンテオケという町で、町の人々が教会の者たちを軽蔑してそう呼んだというのです。
それは、「キリストの輩(やから)」。少し、ラフな言い方をしますと「キリスト野郎」というようなことでしょうか。
ですから、キリスト者自身が、自分たちをそのように呼ぶようになるのは、それからずっと後のことであります。

それでは、最初、キリスト者は自分たちをなんと呼んでいたのでしょうか。いくつかの呼び名があったようですが、代表的なものの一つは「弟子」「弟子たち」であります。
主イエスの弟子、キリストの弟子、それが、キリスト者の自覚でありました。

今日は、イエスさまが12人の弟子をお選びになった、というところを読んでいただきました。
その様子が伝えられています。

たくさんの群衆がイエスさまの後を追って従ってきました。どこから来たか、いくつもの地名が書かれています。エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺り。それは、要するに、南から東から北からといういうことになります。西がありませんが、そこは地中海、海ですので、西はありません。すなわち、主イエスの噂を聞いた人たち、おびただしい群衆がガリラヤ湖から離れた遠くから、いたるところから、ぞくぞくと集まって来たのでした。
このことは、神の国の福音が、当初主イエスが伝道なさっておられたガリラヤ湖周辺の地域から、より広く、さらに遠くに伝えられていく、その転機となりました。
そこで、主イエスは、ご自分の働きに仕え、み教えを伝えるためにと、弟子たちをお選びになりました。
これと思う人々を呼び寄せ、その中から12人をお選びになって、任命し、使徒と名付けられたのでした。
名前が記されています。
ペトロというのは、イエスさまがお付けになった新しい名前です。元々はシモン。新しい名前は「岩」という意味です。岩のような頑固者ということでしょうか。ペトロはそういうところがあったのかも知れません。しかし、この「岩」というあだ名は、マタイによる福音書によると、後に、この岩の上に教会を建てる、と主が仰せになって、大変重要な意味を持つようになります。
ヤコブとヨハネは兄弟です。ガリラヤの漁師でした。すでに、この兄弟たちのことはマルコ福音書に出てきております。この二人にもあだ名が付けられています。「ボアネルゲ」「雷の子ら」という意味です。
たぶん、この二人は兄弟そろって熱血漢だったのではないでしょうか。雷のようにかーっとなって大声をあげる。しかし、これも新しい、大切な意味を持つこととなります。ヨハネ黙示録を読みますと、「雷」という言葉は、神の声、神の真理を告げる声を意味しています。大声の熱血漢、この二人は、後に神の真理を語る声となったのでした。
ペトロとヤコブとヨハネ、このようにイエスさまからあだ名をもらいましたが、この3人は12弟子の中でも、代表的な人々として記憶されております。

その他の弟子たちですが、ほとんど名前だけしか知られていない人もいます。バルトロマイ、タダイなどはそうです。
フィリポは時々、登場します。ヨハネ福音書によると、5千人の人々にパンを分け与えられたという奇跡を行われたとき、主はフィリポを試して、「どこからパンを手に入れようか」とお尋ねになった、と書かれています。もしかしたら、この人は、生活面に関すること、スケジュール管理や食事の準備などをする、マネージャーのような役回りだったのかも知れません。
マタイの名があります。収税人でした。ローマのために税金を徴収する仕事についていた人でした。
トマスは疑い深いことで有名です。主のご復活のことを耳にしたとき、自分はその手の穴に自分の指を入れてみなければ信じない、と言って疑ったのはこの人でした。イエスさまはこのトマスにあらわれて、自分の手を差し出して、「見ないで信じる人は幸いである」と言われたのでした。
熱心党のシモンという人の名前があります。熱心党というのは、政治的な立場を示しています。愛国主義者です。そして、その理念を貫くためには暴力をもいとわない、そういう過激な民族主義者でありました。
イスカリオテのユダの名前もあります。イスカリオテというのも物騒な意味をもっているようです。それは、「小刀」「短刀」「あい口」という意味です。懐に短刀を隠し持っている。なぜ、持っているかというと、いつでもそれを抜いて、ローマの手先に立ち向かうことができるようにしていたのです。

このように、いろいろな人がいます。多種多様です。普通なら、お互いに反目し合い、喧嘩をしてもおかしくない、そういう全く反対の立場にたつ人たちも、おりました。しかし、古い人のままではなく、新しい人とされて主の弟子となります。
なぜ、この人々が弟子として選ばれたのか、他の人たちより優れていたからでしょうか。そうではなさそうです。ここに名前が記されている人たちは、必ずしも、取り立てて立派な人とは言えません。

13節にこう書かれています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」
これと思う人々を呼び寄せられた、というのです。誤解されやすい表現になっていますが、この言葉は、何か取り柄があって、優れているので、イエスさまは「これと思って」選んだ、という意味ではありません。
「お心のままに」ということです。主イエスのお心のままに、ご自分が選びたいと思う人を呼び寄せられた。 その人がどんな能力があるかとか、無いとか、そういうことが重要なことであったというのではなく、ただイエスさまがお心に留めた、それゆえに呼び集められた、ということです。
14節を見ますと、さらに、こう書かれています。「そこで、12人を任命し、使徒と名付けられた。」
「任命した」という言葉があります。これは、そう翻訳しても良いのですが、元の言葉は、「創る」という意味です。イエスさまが弟子たちをおつくりになった。
創っておしまいになった。お心のままに呼び寄せ、責任をもって任命し、弟子となさったのでした。

この弟子たちの中にイスカリオテのユダもいたということ、そして、イエスさまを裏切った弟子である、と書き加えられているのは、印象深いことであります。
このユダも、イエスさまのお心によるのであり、主が責任をもってお選びになった。そうだとすると、イエスさまはご自分が十字架におかかりになる、その備えを、すでになさっていたということでしょうか。そして、その備えなくしては、弟子たちをお集めになることはなかった。
主の十字架無くして、この人々は弟子たらしめられることはない、そうのように聖書は伝えようとしているのでありましょう。

14節の後半から15節を見ますと、弟子たちが集められ、選ばれた目的が記されています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」
自分のそばに置くため、一緒にいる、ということです。弟子たちは使徒と呼ばれます。それは、遣わされた者たちという意味です。派遣される、出かけて行く、のです。
しかし、主が共にいてくださる。
弟子たちは、いたるところに、遣わされてまいりますが、遣わされる所、どこにおいても、主が共におられる。主は弟子たちをご自分のそばに置かれたのでした。

彼らは、宣教し、悪霊を追い出す、と言われています。福音を宣べ伝えることも、また、悪霊を追い出すということも、イエスさまのお働きそのもので、神の国を証しするものです。その権威を持たせられる。イエスさまが共におられる、イエスさまの権威のもとにいて、その働きに仕えるのです。

悪霊を追い出す、というのはどういうことでしょうか。
私たちには、馴染みの薄いことのように思われますが、ある著名なスイスの牧師が、この箇所を説教し、こんなことを言っておられます。
悪霊を追い出す力、この言葉に躊躇しながらも、そのことを考えてみようというのです。
ほんとうは私にもその力があるのだろうけれども、その力がどんな力か、自分にはまだよく分からない。そして、自分にそのような力があるかどうか試してみようなどとは思わない。そう申しまして、
しかし、私はキリスト者になり、牧師になってから、昔のように怒らなくなった。そういう自分であるということを認めざるを得ない。ここに悪霊が力を持たなくなったということを認めざるを得ない。
そんなつまらないことに感心している場合ではないでしょう、などと言われるかも知れないけれども、自分にとっては大事なことで、主イエスの御業はそのように自分の中に始まったし、あなたの中にも始まっている、そう私は言える。
私が力を持ったのではない、主イエスが生きて働いておられる、それを証しすることはできる。
そう述べておられる、のです。

弟子達に委ねられた務めについては、9節にも記されていました。
こう書かれています。「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。」
小舟を、と主は言われたのでした。

ここに、群衆に囲まれて、にっちもさっちもいかない。イエスさまのご様子が伝えられています。
なんだか、イエスさまなのにだらしがないなあ、とも思いますが、押し寄せてくる群衆を前にして、たじたじで、困ってしまっている、そんなご様子です。
福音書は、ここに、人々の求めがどこか自分勝手で、その思いと、主イエスの福音、そのみ教えとの間に、行き違いがあるということを、伝えているようです。
しかし、主イエスはその人々を追い返すことはなさらず、弟子達に小舟を用意するように命じられたのでした。
イエスさまをお乗せする小舟を用意して、主のみ教えが、人々の身勝手な思いの中に沈んでしまわないようにとなさったのでした。
弟子達は、その小舟に主イエスをお乗せします。そして、弟子達の働きが、その小舟をとおしてなされるのでした。

「用意する」という言葉が用いられていますが、特徴のある言葉です。あるものに接して揺るがないでいる、そういう意味合いの文字で綴られています。何かに接している、そして、揺るがないでいる。そこから、この言葉は忍耐強く続ける、とか、専念する、という意味をも持つようになります。
小舟、舟であります。舟は教会を指すシンボルとなったということは、ご存知のとおりです。
小舟は、時には嵐に遭遇し、波間に揺れ動くかもしれない。しかし、その小舟は主イエスをお乗せしている。だから、揺るがないでいるし、忍耐強く主の業に励むことができる。
イエスさまのお乗りになっている舟を守る、そこに、揺るがない力を弟子たちは得る、というのです。
主イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われたのでありました。

12弟子、弟子の中の弟子、弟子たちを代表するような人たち、後に使徒と呼ばれ、教会の柱となる人々です。主の十字架と復活によって、その恵みのもとに弟子とされて教会の柱となった人々。12という数字には意味があります。神の民として選ばれたイスラエルは、かつては12の部族から成っていました。ですから、12人とは、新しい神の国の民が、ここに生まれたということです。 この弟子たちが、小舟をとおして主のみ教えと、お働きを伝えてまいります。忍耐強く、その業に励むのです。人の思いに沈むのではなく、神の御心に救い上げられて、福音に仕えるのであります。