Mat6/11

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マタイによる福音書6章11節でご覧になれます)

「旅路を養う糧」

今日は聖餐式を守ります。
聖餐はキリスト者となったものが養われる礼典と呼ばれています。洗礼がキリスト者となる礼典ですが、聖餐はキリスト者として養われる礼典です。信仰者として辿る神の国への旅路を養う礼典です。

旧約聖書の出エジプト記16章に、イスラエルの民を養った日毎の食べ物、マナのことが記されています。
エジプトから奇跡的に救い出されたイスラエルの民は、約束の土地に向かいますが、それは荒野をゆく旅路でありました。
食べるものも、水も十分ではありません。イスラエルの人々を飽かせ、潤すことができない。
彼らはすぐに、この旅のつらさを嘆き、つぶやきました。「われわれはエジプトの国で、主の手にかかって、死んだほうがましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」。
人々は約束の地へと向かう力を失ってしまっていたのでした。その時、主なる神は「夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満腹するようにしてやろう」と仰って、天からのマナをもって、日毎にイスラエルを養われたのでした。
約束の地への荒野の旅、それは、私たちのことで言えば、主イエスが約束くださった神の国、御国への旅路です。
天からのマナはその旅路を養う天からの食物、神のお与えくださる糧、聖餐のパンと杯を思いおこさせます。

後ほど、聖餐にあずかりますが、今日はマタイ福音書6章11節を読んでいただきました。
主がこのように祈りなさいとお教えくださった「主の祈り」の一節です。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」
この祈りの言葉を心にとめ、聖餐に与りたいと思います。

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」 礼拝で唱えます主の祈りの言葉では、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」となっています。
「糧」とは、文字通りには「パン」です。しかし、ただパンがあれば良いというのではなくて、それは、私たちの命を支え、力を与えるものでなければなりません。
そして、命が支えられる、生きる力が与えられるというだけではなくて、神の国への旅路を歩む力、永遠の命に結ぶ糧のことが、ここに覚えられているはずであります。

この祈りの言葉について、幾つかのことを心に留めたいと思います。
第一のことですが、私たちの日毎の糧は、聖なるもの、神さまのものでる、ということです。
ある人が、主の祈りの中に、「必要な糧、日毎の食物」のことが取り上げられていることに、いささか違和感をいだいたようで。なぜだろうかと自問自答したというのです。そして、次のような答えを得たのでした。
それは、「『食物』は聖いもの」、だから主は祈るようにとお教えになったのだ」ということでした。
聖いと言うのは、神のものだということです。ハッとする言葉ではないかと思います。
イギリスの古い歌の一節を紹介しています。こんな歌があるそうです。
パンの背後に粉あり
粉の背後に水車あり
水車の背後に太陽と雨と麦があり
そして、父なる神の御心がある
パンを目の前にして、このパンはどこから来たのかと思いをはせる。自分がこのパンを焼いた、自分のものだ、と思うこともあるけれども、よく考えてみると、そうではない。パンはパン粉がなければ焼けない。そのパン粉は、水車の力によって製粉された。水車はというと水の流れによって廻る。雨が降って川となり、水車は廻る。麦はといえば、太陽の光と雨が地を潤すことによって育つ。その一切の背後には、父なる神の御心がある。そのように歌う歌です。
この歌のように、私たちの口に入る食物は、神のものである。神の御心によって備えられている。だから祈りの中に覚えられているというのです。
心に留めたいと思います。
心にとめたい二番目のことです。
それは、私たちの日々の生活に神さまの眼差しが注がれているということです。
「必要な糧」とあります。実は、この言葉は長い間、その意味がはっきりとは分からない、謎の言葉でした。
以前の口語訳聖書では「日毎の食物」と訳されていました。あるいは、「明日の日のための」と翻訳する聖書もあります。その他にも違った翻訳があります。
このように、いろいろと違った翻訳が生まれるのは、その言葉の意味がはっきり分からなかったからです。
エピウーシオスというギリシャ語ですが、この語は聖書の中では主の祈りにおいてしか使われていない極めて珍しい言葉です。聖書の中で珍しいというだけではありません。昔のいろいろな文書、他の文献にも出てこないのであります。
世界中の文書の中で、福音書の主の祈りの中にだけしか登場しない。それで正しい意味を理解する手がかりがなかったのでした。

ところが、ある時、その意味が明らかになりました。一つの考古学上の発見によってです。パピルスに書かれたメモのようなものが見つかり、その中に、エピウーシオスという言葉を見つけることができたのでした。
それは、小さな走り書きのメモでして、家庭の主婦が書いたもののように思われる。買い物のための品物のリストがそこに記されていまして、いくつかの品物の名前の横に、エピウーシオスというこの言葉が書き添えられていたのです。
それで、この言葉は「必要な」という意味であることがはっきりしたのでした。
家庭の主婦が、その日の生活、家族のために食事の準備をする。毎日毎日、そういう生活が続く。その一日の心遣いの中で、必要なものはこれこれだとチェックする、そこに用いられていた言葉だったのでした。

高尚な文書や書物に使われるような立派な言葉とは違って、日常の生活で使われていた平凡な言葉です。
主イエスは、そのような、日常の平凡な生活に目をとめ、そこで用いられている言葉をもって、この祈りをお教えになったのでした。
考えて見ると、わたしたちの生活はパンを得るための生活です。そんなふうに言うと、いやな気持ちになる方もあるかも知れませんが、それは事実でありましょう。
主イエスは、ある時、「思い悩むな」と言われて、空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、そう仰せになりました。

その鳥ですが、ものの本によると、いつもいつも食べ物を捜している、というのです。なぜかと言うと、鳥は空を飛ぶために、たくさんのエネルギーを必要とするからだそうです。
空を優雅に滑空している鳥は、実は、空から餌を探している。いつもいつも探している。食べるために飛び、飛ぶために食べているのが鳥だというのです。
そうだとすると、鳥も日々の労苦にあずかっているのです。その鳥を天の父は養っていてくださる。蒔くことも、倉に納めることもないのに、天の父は養ってくださる。あなたがは鳥よりも価値のあるものではないか。
神に覚えられ、神が養っていてくださるのではいか。
私たちも、パンを得るために、あるいは、パンを食べさせるために、食べてもらうために、日々、働き、生きております。その日々の生活には思い煩いが伴います。
いつもいつも快いとは言えない、かえって、こんなことを毎日毎日続けて何の意味があるのだろうかと感じるようなこともありましょう。しかし、その日々の生活に神は眼差しを注いでくださっている。

「必要な糧を」と祈るとき、そのことを忘れてはならないと思います。
もちろん、私たちの貪欲な望みを神がかなえてくださると言うのではありません。そうではなくて、神を賛美しながら、生きるための生活が与えられている。神の喜びに包まれて、パンを得るための生活があるということであります。
日々の生活の中に神の恵みを見いだし、祈りをもって生きることが許されている。それが私たちの生活なのだと、主イエスはお教えくださっているのであります。

お話ししたい3番目のことです。
それは、旧約聖書のイザヤ書55章の言葉です。
先ほど読んでいただきました。
「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」。そう記されています。
この言葉は、あなたがたは本当に「必要な糧」を見失ってはいないか、と問うています。
「糧にならぬもののため、飢えを満たさぬもののために労」しているのではないか。
私たちが必死になって追い求めているもの、ここにこそ人生を支え、充実させるものがある、と思って努力して得ようとしているもの、それは本当に必要な糧だろうか。本当に人生を支え、養い、力を与えるものなのだろうか。そのような問いが、私たちにもあります。
イザヤ書の言葉は続けて、こう記しています。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」。
「わたしに聞き従う」、つまり神様のみ言葉を聞き、導かれる。そこに、本当の糧がある、良いもので養われ、豊かさに生きる道があるのだ、と語っています。

「聞き従う」、その内容は何でしょうか。イザヤ書は続けてこう記しています。
「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実と慈しみのゆえに」
神様が私たちと契約を結んで、特別な交わりを持って下さる、私たちを神様の民として、その恵みと慈しみによって養い生かして下さる。
「聞き従う」とは、神様の方から、私たちに手を差し伸べていて下さる、その御手に結ばれるということです。 私たちはその喜ばしい訪れを聞き、受け入れだけです。受け入れることで従うのであります。
そこで味わい知る糧のために、生きること、それが、本当に必要な糧なのではないか、とこのみ言葉は語っています。