Mk3/20-30

説教要約を浜松元城教会ホームページ、説教:マルコによる福音書3章20-30節でご覧になれます)

「キリストのユーモア」

マルコによる福音書は、ときどき、サンドイッチのように、物語を綴ります。
二つのパンの間に、違う食材が挟まれているのがサンドイッチですが、一つの事柄が二つに分けられ、その間に、違う物語が組み込まれる。
今日、読んでいただいた箇所も、そのような組み合わせで主イエスのお言葉と振る舞いとが綴られています。

パンにあたるのはイエスさまのご家族のことです。21節に身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」と書かれています。
そして、そのご家族のことが31節以下で再び、記されることにになります。

その間に挟まれて、22節から30節のやりとりが綴られています。今日、心に留めたいと思っている箇所です。
ここでは、「あの男は気が変になっている」という、人々の言葉に結ばれて、「あの男はベルゼブルに取り付かれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難する律法学者たちの言葉が取り上げられて、その無理解な非難に対して、イエスさまがお答えになった言葉が記されます。

マルコによる福音書を読んでいて気づくもう一つのことがあります。それはユーモアです。
ときどき、ユーモアが顔を出します。ユーモアに包まれて福音が語られます。
先週、読んだ箇所ですが、3章11節をご覧ください。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。」と書かれています。
汚れた霊は、主イエスを恐れて、恐ろしくなって、叫んだのですが、その言葉は、主イエスがどのようなお方であるかを、的確に言い表したのでした。
人々は誰一人、良く分かっていなかったのです。よく分からないで、主イエスのもとに集まってくる、その群衆の中に、汚れた霊がおり、いわば主イエスの御国とみ教えに、背を向けている、敵対している彼の口から、主イエスがどのようなお方であるかが語られました。彼は知っていたというのです。
これは、皮肉なことで、ユーモラスなことであります。

今日、読んでいただいた箇所では、主イエスご自身がユーモアをもって、律法学者たちにお答になっておられます。
エルサレムから来た律法学者たち、おそらく、エルサレム神殿、その権威のもとで、イエスさまの評判を見定め、調査するために、やってきたのでしょう。
汚れた霊が主イエスを「神の子」と呼んで恐れている、その姿を目撃したのかも知れません。それで、彼らは「あの男はベルゼブルに取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難したのでした。
イエスさまのなさっておられることを悪霊の仕業だと決めつけています。
その時、主イエスは小さな譬えをお話になりました。
愉快な話です。サタンにも内輪もめがあったら困るだろう、と言うわけです。ベルゼブルだの、サタンだのというのは、人の心を乱す者です。わたしたちの心を分裂させるだけではない、人と人とを分けるものです。そのようなサタンでも、しかし、自分の身内が乱れると困るのではないか。そう言って、悪霊の力によって、汚れた霊を追い出すなどということがあるだろうか、とお答になるのでした。実に愉快な、ユーモアに溢れた言葉です。

ここにベルゼブルとあります。悪霊を代表するものとして取り上げられています。その言葉の由来や意味についていろいろな説があります。一つの説は、「蠅の王」という意味だと言われます。
旧約聖書にバアルゼブブというヘリシテ人の偶像のことが出てきますが、そのことで、その名前は「蠅の王」あるいは「蠅の神」という意味なのだそうです。
この「蠅の王」という言葉は、深刻な人間の暗闇を表現する時に、広く用いられるようになっています。
ゲーテのファーストの中に登場します。「常に否定する霊」、虚無の霊、と語られています。
イギリスの作家でロバート・ゴールディングという人がいました。「蠅の王」という名の小説を書いて映画にもなりました。世界中を覆ってしまった戦争の最中に、イングランドから疎開する少年たちを乗せた飛行機が、敵の攻撃を受けて、南太平洋の孤島に不時着することになってしまいます。少年たちだけが助かって、南の島で平和な幸福な生活を始める。
ところが、無垢な純粋な少年たちの生活は、不気味な混沌にとりかこまれ、やがて悪が、小説の中では「獣」と表現されていますが、「悪」がじわじわと子どもたちを侵し始めていく、ついには、凄惨な事態がこの少年たちの間に次々と引き起こされてしまう。そういうストーリーです。
最後が印象深いのですが、たった数名の生き残った少年たちが、島から救出されることになります。やっと、出口が見えたのだなあと思うのですが、実は、そうではない。彼らを救い出して保護したのは海軍の軍艦でした。そして、小説が閉じられます。
すなわち、それは、さらに異常な戦争という殺戮と混沌と暗闇の世界へと少年たちを連れていくものでしかなかったのでした。
たいへん重苦しい小説ですが、ゴールディングという作家は、人間というものの不可解さ、悪や、暗黒というものを分析し、徹底してそれを描きました。それは、人間には御しがたいものである。そして、子どもたちの中にも、それを見ていました。その小説を「蠅の王」と名付けたのでした。

主イエスは、もう一つ譬えをお語りになりました。
「家に押し入る強盗」にご自分を譬えて、大胆なことですが、盗みをしようと思えばまず強い人を縛り上げるものだ、そうしなければ奪い取ることはできないだろう、と仰せになりました。
強い者を前にして、誰もが無力なのです。強盗も同じです。しかし、家の中に入り込んで、不意に、思いがけないこところから家の主人を襲い、縛り上げることができたとしたら、家にあるものを盗むことができる。
そう、仰って、ご自分はサタンの家の強い者を縛り上げるために、サタンの家の中に入る強盗のようなものだ、とお語りになりました。

ベルゼブルという言葉の由来についての、もう一つの説があります。カナンの偶像の名前だという説です。最近では有力な説となっています。それによると、「家を支配する者」「家の頭」という意味なのだそうです。譬えで言われている「強い人」「家の主人」と重なりまあす。

ある人が、
主イエスは人間の悲しみ、悲惨というものを、自分以上の力に捕らえられ、呪縛されてしまう無力さの中に見ておられる、と申しました。
人間が、神さまを知らないで、神さまを愛することができない。そして、隣人を愛し、互いに愛し合うことができないのは、人間が愚かであるとか、力が足りないとか、善意に欠けているというのではなく、その真相は、もっと深いところにある。自分以上のもの、悪しき力、罪の力に捕らえられ、呪縛されているからなのだ、と言うのです。
そして、言葉を続けます。人間の救いはこうした隷属状態からの解放として起こらなければならないということを主イエスは見据えておられた。
だから、ご自身がこうした悪しき力の総体に立ち向かい、これを打ち退けることで、その内部から切り崩しておしまいになったのである。

立ち向かい、これを打ち退けることで、その内部から切り崩しておしまいになった。そう語って、この方は、主イエス・キリストにあってなされた不思議な救いの御業を仰ぎ見ています。
十字架です。

聖書の時代の人々は、サタン、悪魔的な力がうち破られる時が来るのだ、ということを信じていましたが、それは、神さまに遣わされた特別な人が、天の軍勢を伴って、サタンと戦い、それを壊滅する、そう考えていた。
そして、善良な人は、神さまから遣わされてやってくる特別な人に加勢し、一緒に戦って勝利することができる。そう信じていたのです。
そのような思想、信仰は今日も、見受けられます。

しかし、そうではなかったのです。主イエスは少しも力を行使せず、自ら苦しみを受け、罪人として十字架につけられる。そういう仕方で、この重大な、悪しき力に対する勝利を成し遂げられた。
人間の悲しみ、悲惨のただ中に、神が、神の子が、入ってこられ、ご自分をお置きになる。
自分以上の力に捕らえられ、呪縛されている人間の無力さ、罪の中に入ってこられ。罪人の一人として数えられ、十字架に上げられる。
そのようにして、悪霊の支配するところに、ただ中に、入って来てしまわれ、悪霊の力、いっさいの力を身に受けて、それを引き連れて、死なれた。
それが十字架です。

まことに痛ましいことです。痛ましいことですが、それが、神の愛でありました。神はそうすることによって、私たちをお救いくださる。私たちを悪しき力から解き放ってくださる。
父なる神はこのお方を引き上げられたのでした。そのようにして諸々の霊力の武装を解除してしまわれた。神の子の無力な十字架上の敗北の死によって、サタンに対する勝利がもたらされた。

私たちは、ただ、その主を仰ぎ、主に栄光を帰することによって、ただそのことによって、神の備えたもう救いにあずかるのであります。
そこにおいては、悔いる心を与えられ、赦しを知り、自由な心から、神を愛し、真心から隣人を愛し、互いに愛することへと向かう力をあたえられるのであります。
主を仰ぎ、主に栄光を帰することによってであります。

主イエスは最後にこう仰せになりました。
「はっきり言っておく、人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

赦しとは、神さまが私たちをご覧になるときに、もはや、私たちの罪によって私たちを判断なさらないということです。
忘れること、と言っても良いかも知れません。覚えていて、記憶が呼び戻されるというのでは、和らぎはありませんし、深い溝が、ふたつの者の間に横たわったままです。
赦しは、もうそれを自分は思い起こさない、ということです。
そして、その赦しは、思い起こさないこと、それ以上のことをも意味しています。解放、自由、癒しです。
わたしたちが罪を犯しますなら、あるいはひどい言葉を吐くというようなことがあるなら、そこに結ばれていた関係、交わりは引き裂かれます。傷ものこります。誰かが痛みを覚える、また、破壊も引き起こされる。時には、それが最初は些細なことであっても思いがけないうねりとなって、どうしようもない事態の中にわたしたちを虜にしてしまう、というようなことさえ引き起こします。
しかし、赦しは、もう思い起こさないということです。
そうだとすれば、赦しは、その人に解放、自由を与えることになりましょう。傷は癒しへと向かいます。破壊は修復へ、また、悪霊の虜になっているとすれば、解放へと向かわせるのです。
その赦しを、神は愛する御子によって、私たちに備えてくださったのでした。

聖霊は、父と子から発せられる神の力です。父と子とを私たちに教えてくださり、その恵みに結んでくださる神の力です。
聖霊を冒涜するとは、反抗し続けるということです。自分の力を信じ、神の力により頼まない、頼まないままでいようとすることです。
私たち自身は、信じることができない者であっても、聖霊は私たちに信じる心を与えてくださるのだということを、いっこうに受けとめようとしない、ということでもありましょう。
それでは、主イエスによって成し遂げられた救いに、結ばれることはありません。
主イエスは
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
そう仰せになって、神の恵みのもとに私たちを招いてくださるのであります。