2Cor3/1-6

説教 2コリント3章1ー6節
「キリストの手紙」

3節をご覧ください。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」と記されています。
聞き逃すことのできない言葉です。
私たちひとりひとりが一つ一つの枝とされている教会が、他に誰も示しえないこと、神の言葉、キリストを公に伝える手紙のようなものだというのです。

考えてみると、確かにそうかも知れません。
この世は聖書を読むわけではありません。しかし、イエス・キリストがこの世にあてた手紙、つまり教会の中に、この世はキリストを読みとることができる。そこに神の意志を読みとる。
この教会の存在がないと、神の言葉は、人々に理解されることはありません。

ここで手紙と言われるのは、推薦状のことです。
単なる手紙ではなく、わたしたちは「キリストがお書きになった手紙、推薦状」である、と聖書は言うのであります。

牧師の仕事の一つに推薦状を書くということがあります。人を推薦するというのは、他人事ですまされません。他の人のことについて書くのですが、同時に、推薦状を書く自分も併せて評価される。そういうことがありましょう。
わたくし自身も、推薦状を書いていただいた経験があります。神学校を受験する時には、教会の推薦が必要ですから書いていただく。牧師になるときには試験がありますが、その時も推薦状が必要です。
推薦状を書いていただいて、それを持参するというのは、有り難いことですが、責任を強く感じます。
どんなことが書かれているか。気になりますが、何が書かれていようとも、推薦してくださった方に恥をかかせてはならない、推薦にふさわしく、それに応えていかなければならないと思うわけです。
それが推薦状というものでありましょう。
わたしたちは「キリストがお書きになった手紙、推薦状」である、これは、
キリストが教会を推薦し、キリストがご自身をわたしたちに委ねていてくださる。わたしたちを通して評価されることを良しとして、わたしたちを推薦していてくださるということです。

こういう言葉に出会うといささか、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。
言われていることは、確かにそうだ、と思うのですが、改めて言われると、戸惑いを覚える。
それは、わたしたちがキリストの手紙、推薦状として相応しさを携えているかどうか、ということを考えるからです。
確かに、わたしたちは何も相応しさを携えているとは思えない。
それなのに、聖書は、教会がキリストの手紙であって、この世に対して私たちがその姿をもって神の言葉、キリストを表しているというのです。
いったい、どういうことなのでしょうか。
この言葉の前後に書かれていることは、少し、分かりにくいことかも知れません。
キリストの手紙、キリストの推薦状ではなく、人の手によって墨で書かれた推薦状のことが取り上げられています。それを過大評価する人々が現れて、諸教会が、ことにコリントの教会が混乱し、パウロはその騒動の中に身を置かざるを得なかったのでした。

当時、各地にある教会を巡って伝道する人たちがおりました。そういう人たちは誰かが、どこかの教会が書いた推薦状を携えていました。この先生はかくかくしかじか、立派な先生です。こんなに素晴らしいことがお出来です。などと書かれた推薦状をもらっていろいろな教会を巡回していたのでした。そして、その人々がパウロに反対しました。パウロの資格を疑い、彼には使徒としての資格がないと言って教会で宣伝したのでした。なぜそんなことを言い出したのでしょうか。それは、この人々は人間の資格、能力ということを取り立てて大切なことであると考え始めたからです。
コリント書を読みますとその人たちのことについて、少しですが知ることができます。10章10節に、その人たちがパウロを評価し、批判した言葉が残されています。「彼の手紙は重みがあって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話しはつまらない」、そう記されています。 この人々は自分に備わった力ともうしましょうか、自分の能力を誇るような人々で。奇跡としるしを見せる。雄弁でもある。そういうことに最大の価値を認めようとしていた人々だと言われます。そして、それだけにパウロのことが貧弱に見えたのです。そして、非難さえする。
推薦の手紙というのは、この人々によってもてはやされたと言われます。
パウロは、このような人々のことを念頭におきながら、自分のことを述べています。
自分には墨で書かれた推薦状がない。自分が伝道してできたコリントの教会ですが、今は、そこからも推薦状をもらえなかったのかも知れません。しかしながら、パウロは申します。コリント教会自体が自分にとっての推薦状である。
コリント教会がキリストの手紙として公にされている。そのことが、パウロにとっての推薦状である。そう言うのです。
しかしながら、その推薦状は、パウロをではなく、パウロは仕えているのです、パウロではなくキリストを公にしている。キリストの手紙である、というのです。

6節には「文字は人を殺し、霊は生かします」と書かれています。「文字は人を殺し」とはイスラエルの人々の中にあらわれた律法主義と呼ばれる自分の正しさを主張するような信仰態度のことを指しています。
律法を行うことによって自分の義をたてようとする律法主義、それは大変まじめな生き方でありますが、どこか違っている。人を殺すところがある。人を本当には生かさない。パウロは突然のように、律法による生活のことを持ち出しているわけです。
そして、推薦状が必要だと思う人々と文字の律法に捕らわれている人々とを、重ね合わせています。

この二つのことは良く似ているというのでありましょう。それはいずれも、自分の資格を自分自身の中に見いだそうとしているということです。自分が何か良くできなければならない。できたならば、有頂天になって、できない人を軽蔑するようにさえなる。他方、できないとしたら、できないことによって自分を見失ってしまう。
それは、自分を中心にして揺れ動く世界です。

使徒パウロには、他の人が書いてくれた推薦状、自分を推薦する手紙がありません。けれども、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙」があると述べて、
神の霊によって書かれた手紙。神の霊が、私たちをキリストの手紙とするというのです。

旧約聖書の言葉が下敷きとなっています。
エレミヤ書31章に、新しい契約ということが記されていまして、主なる神が律法を心に記すと語られています。
契約というのは神とイスラエルの関係、結びつきを言い表す言葉です。神と人間の間柄がそれにふさわしく結ばれるということです。神が本当に神であられることを信じることができるようになる。それは、ただ単に神を認めるというのではなく、神の言葉によって生きるようになるということです。神が私たちの神となっていてくださる。
エレミヤはその契約が新しくされると預言しました。新しい契約というのです。それは古い契約がだめになってしまったからです。古い契約は、モーセの時に与えられたものです。その時、律法は石の板に記されました。ところがイスラエルは神の言葉に生きることができない、契約を破ってしまう、
エレミヤは、破れてしまうような古い契約ではなく、新しい契約を与えるという神の約束を聞き取って預言しました。その新しい契約では、神が律法を心に記すというのです。心に、心の深みに、もはや誰も取り去ることができないように神が律法を記すというのです。
ほぼ同時代の預言者エゼキエルという人は「一つの心を与え、新しい霊を授け、石の心を取り去って、肉の心を与える」と預言しました。神の霊による、しなやかな心、肉の心です。
石は堅いものです。しかし、神の恵みの前に最も堅いのは人間の頑なな心でありましょう。神はその頑なさをうち破って、石の心を取り去り、律法を書き記す。
旧約聖書の、これらの新しい契約についての言葉は、イエス・キリストを指し示す言葉でありました。

キリストの手紙とは、ですから、福音、神の言葉による、神の霊によって書かれた手紙です。神の霊が、私たちをキリストの手紙とするということです。
私たちの思いや判断を越えた、また、私たちの有り様を超えて、不思議な神の取り計らいが記憶されています。

これを、ある人が「無力の経験」と言っています。自分に頼むことはできないのだという深い思いだというのです。
しかし、無力だからがっかりするというのではありません。かえって無力だからこそ、そこでは「わたしたちのものでない力」が働くという経験をするのです。わたしたちのものでない力、私たちよりはるかに大いなる方の力、その力が私たちに働く経験です。
キリスト、その恵みが公にされます。

今日は聖餐式にあずかります。
聖餐式について語る言葉の一つに「罪人の聖餐」という言葉があります。ジョン・ウェスレーが残した言葉です。
18世紀の英国にその起源がありますが、この人の働きの結果として起こったメソジスト教会が私どもの教会のルーツです。
今日、そのことが余り意識されていないかも知れませんが、西静分区の中には、この流れを汲む教会が多くあります。
「罪人の聖餐」というのは、先ほど申しました「無力の経験」と通じるところがあります。
洗礼を受けて信仰の生活が始まる。信仰が成長していく、それが信仰生活ですが、しかし、決して、その旅路は平坦なものではない。
信仰を見失ったり、もはや信仰者とは思えないような状態に陥ることもある。自分ではどうしようもない。立ち上がろうとしても立ち上がれない。
しかし、そのような状態にあったとしても、聖餐に与りなさい、とジョン・ウェスレーという人は教えました。聖餐には恵みによる力があり、聖霊によって信仰を立ち上がらせていただける。だから、聖餐にあずかるようにと教えたのでした。それで「罪人の聖餐」と呼ばれています。

ときどき、勘違いをして、わたしはどうも、このところ、キリスト者として相応しくない心の状態、あるいは振る舞いをしてしまっている。だから、聖餐にあずかることができない、そう思うことがあるかも知れません。
それは違う。そうであれば、なおさらのこと、聖餐にあずかるべきだとウェスレーは教えたのでした。
キリストの恵み、その恵みに深く深く、依り頼むのであります。

御言葉によって示される恵み、そして、聖餐に湛えられている恵み、そのキリストの恵みがいつでも記憶され、恵みに与って信仰生活を辿る。
それで教会、私たちが、キリストの手紙なのであります。キリストの手紙として、神の言葉を公にすることになるのです。