Mk3/31-35

説教「あなたも主の家族」
マルコによる福音書3章31ー35節

主イエスはご自分の周りに座っている人々を、私の兄弟、姉妹、また母である、と仰せになりました。
家の外には、母マリアと兄弟たちがイエスさまを家に連れ戻そうと立っていましたが、そうではなくて、ご自分の周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」と仰せになりました。

新約聖書にエフェソの信徒への手紙という小さな、しかし、大切な手紙があります。使徒パウロが書いたと言われています。その2章19節に、次のように記されています。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」

昔、イスラエルの人々は自分たちを神の家族と呼んでいました。神様が特別にお選びになって、宝の民、神の愛する家族とされたからです。恵みと祝福はこの人々のものでした。神がご自分の国をお立てになるとき、神の国を受け継ぐのはイスラエルの人々であると考えられておりました。
ところが、新約聖書では、エフェソの信徒への手紙にあるように、神のひとり子であられる主イエスのもとに集められた者たち、すなわち、教会、教会に連なるひとりひとりが、神の家族である、と記しています。たとい異邦人であっても、イスラエルの人々から見れば外国人であっても、今や、神の家族である。神の国を嗣ぐものである、そう語っているのであります。

今日の聖書の言葉によりますと、それは、主の周りに座っている者たち、そして、神の御心を行う者たちである、ということです。
主の周りに座っているというのは、主の教えに耳を傾け、聞き入っているということです。
当時、自分の先生から教えを受ける時、弟子たるものは座りました。座って教えを学び、聞きました。
ですから、主の周りに座っている者というのは、主の教え、主の言葉に耳を傾けている人々、という意味です。
そして、この人々こそ、神の御心を行う者である。と主は言われるのです。

注意していただきたいのですが、主は、ご自分の周りに座っている人々を見渡して言われたのでした。
何か善い行いをしている人をご覧になって言われたのではありません。ご自分の言葉に耳を傾けている者たち、それが「神の御心を行う者」であり、わたしの母、兄弟、姉妹なのである、と言われたのであります。
聞くこと、み教えに耳を傾けること、主の周りに座ること、そこに、行うこと、神の御心に生きるということが始まる。それで、主イエスはご自分の周りに座っている人々を見渡して、この人々こそ神の御心を行う者であり、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである、とお語りになりました。

耳と手について語られた言葉をご存知でしょうか。ある人が、ルカによる福音書に記されているマルタとマリアの二人の姉妹の物語を手がかりに、耳と手について語りました。
ご存知のように、二人の姉妹の家に主イエスが訪ねて行かれた時、姉マリアは接待のために忙しく働きましたが、妹マリアは主の前にどっかりと座って、主のお語りになるお言葉に聞き入っていました。
マルタは腹を立てて、妹のマリアも手伝うようにと、主イエスに訴えたのでした。その時に、主は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と仰せになったのでした。
このマルタとマリヤの物語を手がかりに、耳と手について歌う言葉です。

姉マルタは手です。一方、妹マリヤは耳でした。
手は自由に動きます。多くのことをなす事ができます。自分を主張する力を持っています。物を動かしたり、何かを造り、自分の思いを実現していくことができます。
それに比べて、耳は動くことができません。そこにただ存在しているだけです。何もすることができません。語ることも、伝えることも、造ることも、動かすことも。ただ、黙ってそこに存在するだけです。
そうなのです。手は多くのことをなす事ができます。しかし、手は自分の考えていること以上のことを為すことはありません。その人が思っていることを精々、ほんの少し実現することができるだけです。
もし、手が、手だけであれば、いつかは、手は同じ事を、ただ繰り返すだけになってしまうでしょう。
それに比べて、耳は、確かに、自分から何もすることができません。何も作り出すことはありません。しかし、自分の思いや、自分の考えとは違った、他の人の考えや、思いを、聞くことができ、それを聞き取ることができます。
さらに良いものを、深いものを、高いものを、真実なものを、耳は聞き取ることができる。新しい何かを吸収することができる。それによって、わたしたちを、わたしたち自身を新しくしてしまうのです。
確かに、耳は自分から何も作り出すことはありませんが、大切な、大切な一つのことのために存在しています。
耳と手について語る一つの言葉です。良い言葉だとお思いになりませんでしょうか。
主の周りに座っている人たちとは、耳を与えられた人たちです。そして、それだからこそ、神の御心を知り、また行う者なのだ、と主は言われるのです。

ところで、わたしたちは、主イエスがご自分の家族、母マリアや兄弟たちを外に残したままであるということに、何か腑に落ちない思いをいだくのではないかと、と思います。
血は水よりも濃い、と言われます。血のつながった親と子の結びつきの深さを、わたしたちは良く知っています。
母親は時々涙を流します。ことに自分の子どものことで涙を流すことが多いのではないかと思います。子どもはある時、その母親の涙を知って、何か大切なことを心に刻むものです。イエスさまと母マリヤとの間に、そのような親子の深い愛情が流れていないはずはありません。この時も、マリアは目に涙を浮かべていたかも知れません。
しかし、そのような親と子の間柄でありますが、時に、親であるが故に、子を子として理解することが出来ないでいる、ということもありましょう。
21節を見ますと、母や兄弟たちが、イエスさまは気が変になっているのだ、という人々の噂を聞いて、取り押さえに来た、と書かれています。
「気が変になっている」とは穏やかな表現ではありませんが、元の言葉は、「自分の外に立っている」という言葉です。自分らしくない、本来あるべき場所にいない。人の道を外れてしまっている。そういう意味でしょうか。

ある聖書の注解書を読んでいましたら、マリアや兄弟たちが、どうしてイエスさまを捜しに来たのか、その理由をこんなふうに説明しておりました。
彼らはイエスさまが長男としての責任から身を引いてしまっている。父ヨセフのなき後、一家を支える責任はその家の長男イエスさまにありました。おそらく、兄弟たちもそれぞれ大人になる、そういう時期を迎えていたことでしょうが、長男としてのイエスさまを頼りにしていた。自分たちの面倒をもっと見て欲しい、それなのに、すべてを放棄して出ていってしまった。正常な人間ならそんなことはしないのだ、と家族の者たちは思っていたに違いない、というのです。
これは、一つの推測です。一つの解釈ですが、ここには主のご家族の愚かさ、無理解、ということが伝えられています。
しかし、それにしてもご自分の家族をあえて外に立たせたままである、ということに心穏やかならざるものを覚えるわけであります。

私たちは、わたしたちに救いが与えられたということを感謝すると共に、いつでも心に留めているのは、自分の家族の救いのことではないか、と思います。
私たちが神の家族であると言うことを教えられながら、私たちは一方でいつでも自分の家族のことについて、その救いのことについて考えさせられるのではないかと思います。
この時、イエスさまがご自分のご家族について、少しもお考えになっておられなかったのでしょうか。

そんなことはないと思います。
主イエスが深い愛情をもってご自分の母や兄弟たちを顧みておられた、ということは、福音書を読めば、明らかであります。
ことに、主が十字架につけられたとき、ヨハネ福音書には、そこにおられた母マリアを、愛する弟子と呼ばれた一人のお弟子に、お委ねになった、ということが記されております。
そして、母マリアは、やがて教会の中に生き、教会の仲間と共に、その生涯を全うしたようですし、使徒言行録を読みますと、主の兄弟ヤコブという人のことが記されていて、この人はエルサレムの教会の指導的な立場にあって、その務めを果たした、ということが書かれております。

そうでありますから、自分のことを誤解して、ご家族が外に立っているのを知った時、主は悲しみをお覚えになったことでしょう。それだけに、ご自分のもとに来てもらいたい、まことの神の家族として迎えたいと、どんなにか思われたことかと思います。
そうだとしたら、わたしたちは、この聖書の箇所を読んで、イエスさまのご家族は、イエスさまを誤解していたのだから、外に放っておけばいいのだ、それよりも、主の下に集っている者たちこそ主の兄弟、神の家族なんだと、割り切ることはできないと思います。

確かに、神の家族であるということは、血のつながり、自然のつながりを超えた、新しい交わり、関わりでありますが、この聖書の箇所には、主がご自分のご家族を救いへと招いておられる、そのことを示す大切なことが、何か記されていると、思うのであります。
あるいは、こう言い換えることができるかと思います。主に招かれて御言葉を聞いているわたしたちについても、主のもとに座して本当に御言葉を聞くことができる、ということは、どのようなことか、ということであります。
そこで、大切な一つの言葉が、ここには記されているということに気がつきます。どうしても気にかかる言葉であります。「外」という言葉です。32節にも記されています。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しています。」
外に立っていた、外であったというのです。

スイスにカール・バルトという優れた神学者がおられました。20世紀最大の神学者と呼ばれています。説教者としても優れた方です。この方が大学の神学部の学生に神の言葉を語る説教について、説教とは何か、どのように説教を準備したらよいのか、そういうことについて講義したことがありまして、それが書物になって出版されています。東京神学大学で学びます者は、必ず読まなければならない書物の一つです。そして、牧師になっても、しばしば読み返す書物でもあります。
この書物の冒頭に、こんなことが記されています。
説教者として、一番良い状態、好ましい状況というのは、どのような時か、ということです。牧師としてこれから立とうとする神学生に向かって申します。「君達は、神学部で沢山のことを学んだ。そして、沢山教会で話すことを蓄えた。説教の材料は山ほどある。そう思っている。しかし、教会に赴任して半年もたってごらんなさい。それらのものは、すぐに使い果たしてしまう。そして、何も持ち合わせが無くなるだろう。何を説教して良いか分からなくなるだろう。しかし、その時、君たちは説教者として、最も良い条件を得ることになる」
この神学者は、誰もが経験する説教者としての困難をあらかじめ教えて、若い伝道者を励ますと同時に、神の言葉を聞き、語ることの秘密を解きあかしているのであります。
説教者として話す材料が無くなる、それは、見放されたような気持ちになるものであります。語る言葉がないのです。外に放り出されてしまうような経験です。しかし、その時にこそ最も良い聞き手になるのだ、というのです。

神の言葉を聞く、それは外に立たされるような経験が伴う、ということであります。
主イエスはわたしたちを外に立たせる。私たちは分けが分からなくなる、腑に落ちない経験をする、信じる心が折れてしまう。そのような経験です。
そのような経験を、好んでしたくはありませんが、主イエスが私たちを外に立たせることがあるのです。しかし、その時、主は私たちに良い耳を備えてくださる。み言葉の聞き手として祝福してくださる。

「外に」とは、意味深い言葉だと思います。
主イエスは、外に立っている母マリア、兄弟たちを、この時も、ご自分のお語りになる言葉を聞くことへと招いておられたのだと思います。
そして、ご自分の周りに座って、聞き入っている人々を、見渡して、私の兄弟、姉妹、また母である、と仰せになったのであります。