Mk4/1-9

説教 マルコによる福音書4章1~9節
「励ましの譬え」

ガリラヤ湖のほとりというのは、なだらかな丘陵地になっていて、ある場所では畑が湖の中にまで続いているかのように、水辺のすぐ側にまで達しているのだそうです。
そのような所では、湖には小舟にのって網をうっている漁師が、そして、陸には種を蒔き、土地を耕している農夫の姿が、同時に見られると言います。
人を漁どる、人を救いへと導くまことの漁師でいらっしゃる主イエスが、人々の傍らに見られる農夫の姿を指さして、お語りになったのかも知れません。
「よく聞きなさい」とは、「聞きなさい。見よ」という言葉です。

譬え話というのは、難しいことを易しく説き明かしてくれるものだ、と一般には言われます。
主イエスは誰にでも分かるように神の国のことをお話になることがおできになった。その証拠、その典型が譬え話だと言われます。。
そうでありましょう。私たちに分かるように、わたしたちにわからせるようにと、心を砕いて譬えでお教えくださっているに違いありません。

しかし、最近の研究によると、譬えはただ易しく語ると言うだけではなくて、神の国、神の事柄のように、わたしたちの思いを遙かに超えた尊い真実を告げるたに、不思議な言葉、言葉の彩が用いられていると言われます。
譬には、どこかに必ず、意外だなあとか、可笑しいなあとか、ちっと変だなとかという部分が含まれている。
ありふれた日常的なこと、すなわち、わたしたちに理解できる身近なこと、わたしたちの生活のただ中に展開されていることが引き合いに出されているのですが、どこか、かわったところが見られる。それを「歪み」と呼びます。物語の中にあらわれる意外性、非日常性、不合理な点です。その歪みが、実は大切で、不思議な効果を現して、わたしたちには知られていない大切な真理や、わたしたちが見落としていたり、気づかないでいる尊い真実を、わたしたちの内に開き示すと言うのです。
主イエスは、譬えで教えられました。神の国をわたしたちの内に開き開き示してくださるためです。聞く耳を持たない者に、耳を与え、聞くことができるようにと、また、神の国に生きるようにと、譬えでお教えくださったのです。

今日の譬話は「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」と語り始められています。
後で、イエスさまが解説をなさっておられますが、今日はそれには触れないで、最初の部部、純粋に譬えだけが記されているところを開いて読んでいます。そして、この最初の部分は、後の解釈とは別に、ここだけで聞き取るべきメッセージが含まれていると言われます。それは、「種まき」に関するメッセージです。

後の解釈においては、畑、すなわち、神の言葉が蒔かれた畑に焦点があてられますが、ここでは、種蒔きに、そして、蒔かれた種に関心が寄せられています。神と神の言葉です。

この「種まきの譬え」も、少し、どこかおかしなところが見られます。
それは誰もが感じ取っていることですが、どうして、いくつもの種が、道ばたに落ちたり、石だらけの土の少ない所や、茨の中に蒔かれたのか、ということです。
ある人が、この譬え話の中に登場する農夫は、なんと無能なことか、少しも、努力をしていない。ただ種を無造作に蒔くだけだ、と申しました。
なるほど、道ばたや、石だらけのところや、茨の中に種をわざわざ蒔く農夫はいません。

約20年前、三方原で3年半を過ごしましたが、周囲は畑に囲まれておりました。今も変わっていないと思いますが、どこの畑でも、その片隅には丸い石がたくさん積まれておりました。畑から出てくる石す。石が畑の中から自然に浮かび上がってくる。農家の人は、畑を耕す度にたくさんの石を掘り出さなければならないと聞きました。
もちろん、雑草は抜き取りますし、奇麗に苗床をつくって種を植えます。種だって、ただではありませんから、めったに無駄にするということはないはずです。大切に蒔かなければなりません。
しかしながら、この譬えでは道ばたや、石地や、茨の中に蒔かれた、というのす。

ひと昔前の聖書の研究者は、パレスチナに見られる、その地方独特の、農業の方法を紹介して、この譬え話に見られる躓きを取り除こうとしました。
今でも、見られるそうですが、パレスチナでは、まず最初に種を蒔くのだそうです。時には、牛やロバのような家畜の背中に種のいっぱい入った袋を背負わせ、それに小さな穴を開けておいて、家畜を畑に放し、小さな穴から種が落ちて、家畜の歩いたところには種が蒔かれる。
もちろん、家畜を使わないで、人が種を蒔くこともあります。この譬え話は、そういう様子を映し出しているというのです。
ですから、ある場所は人や家畜の通るあぜ道にもなり、石だらけのままであったり、茨の生えたまま残る、と言うわけです。
なるほど、そうでなければ、こんな話にはならないわけです。
しかし、それにしても、やはり、この譬え話しは、すっきりしません。種は蒔かれっぱなしで、土地を耕す農夫の労苦、努力、が少しも感じられません。農夫の姿は背後に退いています。
無能な農夫、何も努力しない、と言われる所以です。

イエスさまは、この譬えで何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。
こういうことだと思います。
種は、神の言葉です。神の言葉は蒔かれます。その時、蒔かれる場所には境界線、境というものはない、ということです。
道ばたにも蒔かれる。鳥がきてすぐに食べられてしまうような道ばたにも、また、土の薄い石のおおい所にも蒔かれる。すぐに根が出ても、土が深くないので枯れてしまう石地にも、そして、茨の中にも蒔かれる。光がふさがれ、養分が奪い取られてしまって、成長できっこないような所にも蒔かれる。神の言葉は、分け隔てなく蒔かれる。
人々の間に気前よく蒔かれる。それが、神の国の種まきであると、主イエスはお教えくださっているのだと思います。

思い出していただきたいのですが、イエスさまは一介の漁師たちを弟子として、これを重んじ、また、罪人と呼ばれている人々、神さまから遠く離れていると見なされていた人々に近づき、福音を伝え、取税人をも弟子としてお召しになりました。安息日には常識を破って助けを必要とする人をお癒しになりました。それですから、律法学者やファリサイ派の人々、ヘロデ党の人たちまで、こぞって、主イエスを非難し、はては、主を殺そうと計りはじめた、と書かれていました。
この人たちは、神の言葉は清い清潔な者たちの中に保たれていなければならない、と堅く信じる人々でした。境界線をさだめ、境を意識していました。
しかし、主イエスはこの種まきの譬えで、神の言葉は分け隔てなく蒔かれるのだ、ということをお教えになります。
ことに、種にとって過酷な場所、困難の大きなところにまで蒔かれていることを告げています。
その困難がはるかに大きなことだからでしょうか。種を蒔く人、農夫は、それに対して手の打ちようがないのです。ただ、種を蒔くだけです。蒔かれる種に信頼して、ただ信頼して、忠実に、分け隔てなく、どこにでも種を蒔く。

もっとも過酷な場所、困難の大きなところとは、どこでしょうか。罪人と呼ばれる人々のところでしょうか。そこも、確かに荒れ地です。しかし、主イエスを殺そうと計るような人々、その心こそ、もっとも大きな困難な場所だったのではないでしょうか。聞く耳をまったく持たない者、拒絶し、葬り去ろうとする人間の世界や心にまで、種は蒔かれた。
そして、人の目から見れば、神の国は覆い尽くされ、隠され、やっつけられてしまっているように見える。
しかし、主イエスは、この困難な種蒔きは、決して失望に終わることはない。種は力を発揮して、予想をはるかに越えた収穫をもたらすことを告げておられます。不思議なことですが良い地がそこにもある。
御言葉は良い地に落ち、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶ、そうお語りになります。

収穫率、というものが計算されます。蒔かれた種に対して、どれだけの収穫を得ることになるのか、という比率です。
こんにちは、30倍というのは、常識的な数字になっているようですが、イエスさまの時代には、そんなことはとうてい考えられなかった。せいぜい、10倍が良いところだったと言われます。
イエスさまは、ここでも、目を見張るような、驚くようなことを言っておられます。そして、神の国の種は、どんなに大きな困難、隠され、覆われ、やっつけられてしまうように見えるかもしれないが、思いを遙かに超えた実りをもたらす、と仰せになっておられます。

少しだけ、言葉を遮りますが、この譬え話で、種を蒔く、その種は蒔かれたと言わないで、「落ちた」と表現されています。これも、少し変わった言い方なのではないかと思います。
調べてみますと、「落ちる」と翻訳されている言葉は、倒れるという意味もあるのですが、ひれ伏すとか、うつ伏せになる、いう意味で用いられることもあります。
マタイ福音書に、東から来た博士たちが、馬小屋に眠る幼子を見て、ひれ伏し礼拝したと伝えていますが、膝を落としてひざまずく、「落ちる」という言葉が用いられています。
東の博士、異邦人です。遠い国の人々が幼子のもとに来て、ひれ伏し、礼拝した、そう伝えています。
福音書で、この言葉が最後に出てくるのは、受難物語です。主イエスがゲッセマネで祈られる、その時、「イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そう記されています。
ひれ伏す、体が倒れる、体を倒し、うつ伏せになって、父なる神を拝し、祈られたということです。
杯とは、言うまでもなく十字架のことです。
「落ちる」という言葉で綴られる二つの主イエスの物語です。
イスラエルの王として、救い主としてお生まれになったお方は、わたくしたち人間の罪の贖いのために、十字架にご自身をささげてくださったお方、十字架にその身を落としてくださったお方です。

ある説教者が、種とは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」と仰せになった、主ご自身のことである、と言っています。
だから、十字架にかけられたこのお方に目をあげたいと思うというのです。
弱りはてた身体と、不成功に終わった伝道活動、その姿は一般に、人生のドラマを象徴しているように思われます。特に、わたしたちの人生や歴史を象徴しています。
しかし、この主イエスを思うとき、きっと、どこかで、なんらかの形で、わたしたちは次のように悟っていくに違いない。
人生のすべてには意味があり、その人生はすべてあがなわれ、美しいものにされ、主イエスの復活に結ばれている」と。
種は蒔かれ、実りが待っています。わたしたちの人生は、すべてに意味があり、贖われており、麗しさが備えられている。この譬え話から教えられるというのです。

主イエスは、「種をまく人が種まきに出ていった」そう仰って、天の国、神のご支配をお語りくださいました。
不思議なことですが、キリストは、わたしたちを、良い土地として祝福していてくださるのであります。

この種蒔きの譬えの前半の部分について、ある人がこれは「励ましの譬えである」と言いました。今日の説教題とさせていただきました。励ましの譬。神の言葉に仕える者たち、神の言葉を聞いて生きることを教えられた者たちに対する励まし、勇気を与える譬えである、と言う意味です。
今週の31日は宗教改革記念日ですが、宗教改革者マルチン・ルターは、自分はみ言の解き明かしによって、十字架の主イエスを描き出すのだ、ということを語った、と伝えられています。
「一粒の麦がちに落ちて死ななければ実を結ぶことはできない」と主イエスはお語りになりましたが、説教者は神のひとり子が十字架にかかってくださったこと、その十字架の死によって私たちが救い出されたことを指し示し、そのことを明かにし、神様が讃美され、礼拝されるために仕えるのである、というのです。
一枚の有名な絵があります。ヴィッテンベルグのシュタット・キルヘという世界で最初にプロテスタントの礼拝が行われた教会です。その祭壇画に画かれています。
説教者マルチン・ルターを描いています。その絵には、説教壇と会衆との間に主イエスの十字架のお姿が描き出されており、説教者ルターは説教壇から主を指さしています。ルターという人は神の言葉を取り次いで、いつも十字架の主のお姿を指さしていた、ということを物語っています。そして、礼拝に集った会衆はその主を見上げていのです。
十字架の言葉を語る者、神の言葉に聞き、生きること、仕えることを教えられた者に対する、励ましの言葉、それが、この譬えである。そう言われます。