Mk4/10-20

説教 マルコによる福音書4章10ー20節
「無駄と愛の譬え」

11節に「外の人々には、すべてがたとえで示される」と書かれています。譬えというのはヘブル語では「覆われた話」「謎の言葉」という意味だそうです。

現実生活からくるいきいきとした話、誰もが、よく知っていることや、見聞きする話、それが譬えの題材になっていますが、しかし、それは謎の言葉、覆われた話だ、というのです。
神の国は譬えで語られます。

イエスさまのお語りになる譬え話を聞いた人々は、誰もが、これは何のことか、どういう意味だろうか、と戸惑ったのではないか、と思います。
しかし、そういう謎のような言葉というのは、どこか記憶に残るものです。、心のどこかに引っかかって、時々思いおこすものです。そして、いつの間にか、繰り返し繰り返し、思いめぐらすようになる、そういう不思議な力を持っているのではないか、と思います。
主イエスのお弟子たちは、この気になる譬え話にどんな意味が隠されているのか、興味を覚えて、イエスさまに尋ねた、と言うわけです。
すると、イエスさまはこの弟子たち向かって、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と仰せになった、とのことであります。

神の言葉が聞かれる、受け入れられる、神の国が開かれ、救いが与えられる、ということは不思議なことだと思います。
人間の努力や探求によって達成されるというわけではない。神さまの御心によることでありましょう。
わたくしの知っている人ですが、一人の女性ですが、その人が教会に導かれて、信仰を与えられるに至った経過を聞いたことがあります。、面白いといいましょうか、思いがけないことで、愉快なことなのであります。
結婚をいたしました。それまで、教会にも行ったことがないし、聖書も読んだことがなかったのですが、結婚したお相手がキリスト者であった。普通なら、結構なこと、幸せなことだ、と思うのですが、この人にとっては必ずしもそうではありませんでした。ご主人はキリスト者ではありましたが、大変厳格な方で、偏屈で亭主関白。この女性は結婚を後悔するのです。
しかし、昔の人ですから、我慢をして結婚生活が続きます。ところが、ご主人は厳しい人なので、結婚相手のその人を毎週強引に教会に連れて行く。いやいやながら、礼拝に出席するようになりました。主人が信じている信仰ですから、受け入れられるはずがありません。礼拝で聞く聖書の言葉と、自分のご主人の姿との間に、天と地ほどの隔たりがある、なんという偽り、偽善、そう感じていたそうです。
しかし、この女性は、不思議なことに、いやだいやだと思っていた聖書の言葉が、気がついて見ると、いつの間にか心に留まるようになり、人生を後悔し始めていた自分に慰めとなり励ましとなっていたのです。相変わらずご主人にはうんざりなのですが、とうとう信仰を持つようになったのです。
笑い話のような話ですが、本当の話です。そういうことがあるのですね。神さまがこのご婦人の心をお開きになったのです。
神の言葉が聞かれる、受け入れられる、神の国が開かれ、救いが与えられる、ということは不思議なことだと思います。

種蒔きの譬えについて、イエスさまは弟子たちに説き明かして、説明をなさいました。13節から、それが書かれています。
そこでは、人間の頑なさ、愚かさや軽薄なこと、気まぐれであったり、弱かったり、そういう人間の心に、神の言葉である種が遭遇してしまっている、そんなことが記されております。

聖書の研究者は、この13節以下の、譬えの説明というのは、イエスさまが直接お語りになった言葉というよりも、後の教会で生まれた言葉、教会の施した解釈である、と申します。

そのことが、13節以下の言葉に反映されているように思われます。
「道ばたの者」「石だらけの所に蒔かれるもの」「茨の中に蒔かれるもの」「良い土地にまかれたもの」と語られています。
手の込んだ言い方で、種の蒔かれた道ばた、とか、蒔かれた石地というのであれば、単純で分かりやすいのですが、、そうではなくて、道に蒔かれたもの、石だらけの所に蒔かれるもの、となっています。
種と畑とが結びついています。この言い方は、御言葉が蒔かれた土地であるというだけではなくて、土地、畑が、種を持ち運んでいく、種と畑が一体となって、種まきの行方に関わっている、ということを示しています。
御言葉に聞き、御言葉を語る。教会の営みが映し出されています。

そうだとすれば、こんな想像ができるではないか、と思います。

イエスさまのお語りになった神の言葉は、弟子たちに引き継がれ、教会の言葉として伝えられて行く。使徒たちや多くの説教者たちが、神の言葉を語る。
しかし、そこで経験することと言えば、必ずしも、かんばしいことばかりではない、いや、かえって、神の言葉が聞かれなかったり、力が無いように感じられたり、忘れられたりする。そういう経験が繰り返えされる。
これは、想像できないことではないと思います。

自分のことを考えて見てもすぐに分かります。
神の言葉を聞くのは、素直な心を持った人たちばかりではない。いや、そういう人はほとんどいないと言っても良いかもしれません。
種は、道ばたに落ちて、すぐに鳥が来て食べてしまった。御言葉を聞いても、すぐにサタンが来て、御言葉を奪い去る、と書かれていますが、聞いたことが右の耳から左の耳にすぐに抜けてしまうような人のことを言っているのでしょうか。あるいは、礼拝が終わって教会を一歩出ると、御言葉をすぐに忘れてしまう。
石だらけの所に蒔かれた種のというのは、喜んで御言葉を聞いても、根無し草で、少しも身につかない。困難に遭遇すると、すぐに信じる心が萎えてしまう人のことだ、とありますが、最初のころの教会というのは、迫害にあうというようなこともあった。そうすると、動揺する、そして、信仰から離れてしまう。そういうことをいくらでも、目にしたのかも知れません。今は、迫害というようなことを、私どもは経験しませんが、それでも、いろいろな困難に出会います。それが、些細なことであっても、信仰の心が萎えてしまうということがある。根を張るほどには、御言葉を受け入れることがないからだ、というわけです。
また、茨の中に蒔かれた種というのは、この世の思い煩いや富の誘惑など、いろいろな欲望が心を支配してしまって、御言葉がふさがれてしまう人であるとあります。これも良く分かります。
雑草というのは、抜いても抜いても生えて来るものです。どうして、こんなに雑草は強いのだろう、とわたしたちは嘆きます。
それは、この世の思い煩いも同じだ、というわけです。また、いろいろな欲望もわたくしたちの中に次々と起こってくる。御言葉は蒔かれるけれども、そういう人間の心の中では、芽を出しても、そだっていく余地がなくて、とうとう、ふさがれてしまう。
少しも実りをもたらさない畑、それがわたしたちの姿である。最初の教会だってそういう現実と無縁ではなかったと思います。

牧師も例外ではありません。神の言葉を取り次ぐ務めに立たされて、神の言葉にお仕えするのですが、しかし、仕えているつもりでも、人間的な弱さというものにぶつかります。例えば、神の言葉を取り次ぎながら、いつの間にか自分の人間的な思いを少しも遠慮することなく話し始めてしまっている、そんなことがあります。聖書の言葉をもって人を非難するということもあります。牧師の受ける大きな誘惑です。
私どもの教会では、牧師はガウンをません。ガウンを着る教会がありますが、昔は、大学の先生の装いだったそうです。教会の教えを伝えるわけですから、牧師も同じようにガウンを着るようになりました。
ところが、ガウンを着ない教会、浜松元城教会もそうですが、ガウンの代わりに黒いスーツ、あるいは礼服を牧師が着るようになっています。なぜ、黒か、というと、牧師の姿が隠れるためです。御言葉に仕える者は、御言葉そのものである主イエス・キリストの背後に退いて、姿を隠すべきなのだ、という分けです。
しかし、装いはそうであっても、語る言葉は、まったく反対である、などということになりかねない。そういう人間の弱さや傲慢を戒める意味でも、黒の礼服を着なければならないのだと思います。牧師も人間の弱さを背負っております。
ですから、御言葉が蒔かれるということは、聞く者にとっても、語る者にとっても、容易いこと、当たり前のこと、ではありません。

しかし、そうではありますが、神の言葉は、与えられ、聞かれており、届けられている。それは不思議なことです。
御言葉が聞かれる、わたしたちが御言葉にあずかっている。そのことに単純に驚く、そういう教会の姿が、この譬えの解釈の背後にあるのではないか、そう思います。
御言葉は、わたしたちの頑なさ、弱さ、愚かさ、悪しきこと、それらを受けとめ、それを覆し(くつがえし)、わたしたちの内に豊かな実を実らせてようとしてくださっているのではないか。そう思うのです。
不思議な御言葉の力、目に見えない、私たちの間におられる神、聖霊のお働きを覚えて、教会は主のお語りになった種蒔きの譬えを受け取らせていただいたはずです。
御言葉のほうが、人間よりも、サタンよりも、粘り強く、したたかであった。そういう告白が、ここにある。そう受けとめて良いのではないかと思います。

ところで、譬え話は、これを心に留めて、思いめぐらすろ、神さまの恵について、いろいろなことに気づいていくものです。

わたくしは、この譬えを読んでいて、コリントの信徒への手紙15章の言葉を思い起こします。次のように書かれている言葉です。「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものにまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。」
朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、肉のからだ、これがわたくしたちである、と言うわけです。良く分かる言葉です。しかし、聖書は、このようなわたしたちのことを、神が種をまくようにまいた、と語っています。
農夫が種をまくとき、いったいどのような思いを抱いているのでしょうか。
農夫とて悲しみを経験することがありましょう。災害などで大きな被害を受ける。そういうニュースをよく耳にします。途方にくれる。涙がとまらない。
しかし、種を蒔く時には、たとえどんなに困難や悲しみが周りを囲んでいても、農夫は涙を拭うことができます。涙を拭って種をまくと思います。種には希望が宿っているからです。
聖書は種が蒔かれた、と申します。朽ちるもの、卑しいもの、弱いものでありますが、それは、神が種を蒔くように蒔いたのだ、と記しています。
イエスさまは神の国は種を蒔く者が種を蒔きに出ていくようなものだ、と仰せになったのであります。

そして、主イエス・キリスト御自身が蒔かれた種であります。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」と仰せになりました。

こんな言葉を読んだことがあります。
「多くの種は無駄になったということが記されています。しかし、それはまったくの無駄だったのでしょうか。そうではありません。わたしたちの目には無駄と思えること。それは人生の惨めさや虚しさを感じさせるのですが、不思議と深い意味のあることに気づかされることがあるのではないでしょうか。
例えば、魚は子孫を残すために想像を絶する数の卵を産卵します。
たった一つの発見のために科学者はどれだけ実験を失敗していることでしょうか。
商売人は一つの品物を売るためにどれだけ無駄足をはこぶことでしょうか。
学校の先生は生徒のために何度も同じことを繰り返し教えないでしょうか。
神さまはわたしたちをお救いになるためにどれだけ忍耐されることか。

そして、この思いめぐらしは、次のような言葉になります。
「御言葉を蒔く神というのは、もしかしたら、実り豊かな人生を愛されるように、何の実も結ばなかった人生をもお愛しになっているのではないだろうか。」
道ばたであったり、石だらけの畑であったり、茨の土地であったりする、わたしたちですが、そのわたしたちの人生をも、神は愛してくださっている。この譬え話を読んでいると、そう思えてくる。というのです。

宗教改革者のマルチン・ルターはキリストにある者は「罪人にして同時に義人である」と言い表しました。それは、目に見えるところでは確かに罪人であるが、キリストにあって、約束においては義人と言っても良い。「罪人にして同時に義人」これが、キリストにある者の姿である。
わたしたちは自分たちが最初の三つの土地であることを正直に告白しなければなりません。しかし、その土地には神の言がまかれた。神のご支配が及んでいます。その事実に目をとめ、そして、キリストにあってわたしたちも、良い土地として祝福されているのだ、ということに気がつく。気がつかねばならないのだと思います。

譬え話を聞いて、どういう意味だろうか、と主に尋ねた弟子たちに、イエスさまは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている。」と仰せになったのでした。