Mk4/21-25

説教 「ともし火と秤」

今日は、イエスさまがお話になった小さな二つの譬えを読みました。
一つは、「ともし火の譬え」、そして、もう一つは、「秤(はかり)の譬え」と呼ばれます。

昔、イエスさまの地方では、どこの家庭でも、夜になると、ともし火を灯しました。それは、決して大きなものではなく、手のひらよりも小さなランプです。
それに火がともり、光は来ます。夕闇が迫って、すっかり暗くなってしまった部屋の中が明るく灯される。その光のもとでほんの少しの間、家族の団らんに花が咲き、そして、皆は一日の疲れを癒すために床につく。しかし、ともし火は消えないで、光を放ち続け、夜を守ります。
そんな光景が、日毎に繰り返されていました。

そのような日常の様子を取り上げて、主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上におくためではないか。」とお語りになりました。

升の下に置くとは、火を消してしまうということです。
升(ます)は、たいへん重宝な道具、器で、秤(はかり)にも使います。すぐ後の「秤の譬え」に出てくるのは、升のことだと言われます。もしかしたら、油を量ってランプの中に油を注ぐときに用いられたのかも知れません。そして、それは、火を消すためにも用いられました。
当時、ことに農家では、家といっても一部屋しかないのが普通で、そこにみんなが寝起きする。窓がないか、あってもたいへん小さい。昼間から家の中は薄暗かった、と言います。加えて、煙突などありませんから、換気が難しい。ですから、火を消すときには随分気を使ったのだそうです。いやな煙や匂いがたちこめたり、残り火が燃え上がることのないようにしなければならない。すばやく、確実に火を消す必要がありました。そのために一番よい方法が升を使って、ランプに蓋(ふた)をすることだったのだそうです。ですから、ともし火を升の下に置くというのは、火を消すことを意味しています。
また、寝台というのは板張りのベンチのようなもので、部屋の隅に、壁に沿って据えられていました。ですから、寝台の下にとは火を部屋の片隅に隠す、ということです。あるいは、もしかしたら、升で火を消して、ランプと升も共に寝台の下に片づけてしまう。ランプも升もお役御免となって、しまい込まれる。そういう様子が語られているのかも知れません。
いずれにしても、そうなれば夜は光を持つことなく、まったくの闇に包まれてしまいます。
ともし火は部屋のまん中に、燭台の上に置かれるべきであります。

この譬えは、種蒔きの譬えの後に置かれています。種は神の言葉であり、種蒔きは神の国のおとずれを指していました。
ここでは、「ともし火」に例えられています。
神の言葉である「ともし火」が光として来ます。それは、消されたり、升と一緒に片づけられたりはしない、そんなことのために、光が来たのではない。何があっても、光は消されることなく灯(とも)り続ける。そして、隠れているものであらわにならないものはなく、秘められたもので公にならないものはないのだ、と主は仰せになったのでした。

隠れているものとか、秘められたもの、という言葉を聞きますと、闇の振る舞いと言いましょうか、悪いこと、隠れて密かになされている悪事のことを思い浮かべることがるかも知れません。
思わぬことが暴露され、裁かれる。悪いことが闇の中に隠されずに露わになる。そういう意味合いで、確かに隠れているものがあらわになり、秘められたものが公になる、という言い方をすることもあります。
新聞やテレビなどの報道をとおして、いろいろな事件が明るみに出されるということを見聞きします。
そして、隠れた悪事が明るみに出されて、ちゃんと裁かれることによって、少しでも良い世の中であって欲しいと願う。
しかし、主イエスの譬えが語っていることはそういうことではありません。それ以上のことです。光が来たということです。この世界に救いが訪れること、神さまの恵み深いご支配、神の国が見えるようになる、ということです。

隠され、秘められているのは、その光です。光が、この世界と人の心の中で、深く深く隠され、覆われてしまっている。
先に、主イエスは、神の言葉である種を育てることができない畑のことをお話しになりました。
道ばたのように、御言葉が奪い取られる。石だらけの所のように、困難なことが起こると、すぐにつまづいてしまう。茨のはえ茂る所のように、この世の思い煩いや誘惑、欲望によって、御言葉がふさがれてしまう。
それが、人間の姿ですが、そこに蒔かれた種、その人間のもとに来た光は、燭台の上に置かれたともし火のように、神の恵みとご支配とを現し、灯し続けるとお語りりくださったのであります。

また、内と外、ということを主はお語りになりました。内と外。主イエスのお話になる譬え話は、外の人には謎であり続けると、書かれていました。
しかしながら、ともし火の譬えでは、それは決して謎のままには終わらない。燭台の上に置かれて、灯し続けられるために、光が来たのだと仰せになっておられるのであります。

そして、「何を聞いているかに注意しなさい。」と仰って、「秤の譬え」をお話しになりました。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

秤、それは升ですが、ここでは、キリストのみ教えを聞く器であるわたしたちのことを指しているようです。
教会のことです。
量っては出し入れするように、あるいは、それが油であれば、その油をランプの中に入れるのかも知れませんが、キリストのみ教えを聞き、また、それに、仕える器なのだ、と主は言われるのです。

「何を聞いているかに注意しなさい」とは、ともし火を消すもののように聞くのか、それとも、ともし火に仕えるものとして聞くのか、どのように聞くのか、ということです。
わたくしたちは器であり、燭台であります。光ではありません。光を受けて、光が灯される、その光に仕えるために用いられる器、燭台です。
火をともすランプは、器が上に覆い被さることによって、共にお役御免となって、寝台の下に片づけられてしまうようなことにはならない。
ともし火は燭台の上に灯り続け、器は器として用いられる。
その時、聞く者は「自分の量る秤で与えられる」だけではない、それ以上のことを起こる。自分で量るその秤で、確かに量り与えられるのでしょうが、更にたくさん与えられる、と主は仰せになります。
そう仰ってくださって私たちを祝福してくださるのであります。

夜に、ともし火が灯される。手のひらよりも小さなランプ。それに火がともり、光は来ます。
その光が、深い闇の夜を守ります。

ある一人の牧師、神学教師でもあった方の説教を読みました。
その中で、ひとりの人のことが紹介されたおりました。心に残ったので、受け売りですが、ご紹介したいと思います。
そのひとりの人というのは、川上喜久子という方です。ご存じの方も、あるいは、いらっしゃるかと思いますが、かつて岡本かの子などと並んで、日本を代表する女流作家のおひとりです。この方がキリスト者であった、ということは、あるいはあまり知られていないかもしれません。少なくとも作品の中には、信仰のことは現れていません。しかし、天に召されるまで忠実なキリスト者、礼拝者でいらっしゃったそうです。
川上さんは、1927年、ちょうどその年には、大阪朝日新聞社の懸賞に当選しておられて、先に申しました岡本かの子や、あるいは石川達三というような、錚々(そうそう)たる人々に伍して文壇に登場なさったのですが、その年の復活節に、洗礼をお受けになっておられます。
その時のことが紹介されているのです。

洗礼にいたる間の事情というのは、あっという間の出来事だったようです。結婚して間もなくのころ、2月9日に、お知り合いの方の誘いで、教会の集まりに出席されるようになりました。最初は、牧師の話もわかりきったつまらないもので、くわえて、クリスチャンに共通する独りよがりに閉口したと日記には綴られているそうです。しかし、次の週、また、その次の週と、誘われるままに教会に集ううちに、心に変化がおこって、ついにその2ヶ月後の復活節には洗礼をお受けになりました。
それは、突然光が射した、そのような経験だったと言うのです。当時、川上さんに感化を与えたのは、秋月到という牧師先生です。秋月牧師というのは、東京帝国大学の学生時代に植村正久先生に傾倒して伝道者になた方だそうです。
日記に、こう綴られています。
「秋月先生は、宗教人の柔和さとは違って、内に地熱のような情熱を秘めながら、表情は鉄のお面みたいに硬く、鋭くて、取っ付き難い感じであった。」

どこかの教会の牧師のようにニヤニヤなんかしては、おられなかったのです。

そして、この「秋月先生は、<末世(みしょう)以前の我>を誕生させるために、情熱を傾けてお話くださった。」と言うのです。
「未生以前の我」。未生以前とは、いまだ生まれる前に、ということです。仏教の用語だそうです。正確には「父母未生以前」と言うそうですが、自分が生まれていない、というだけではなくて、自分を生んでくれた者たちもまだ生まれなかった頃、つまり自分が存在していなかったその時のことを言います。
秋月牧師はその<未生以前の我>が誕生する。<未生以前の我の誕生>、そう仰ってキリストによって備えられた救いのことを熱心に説かれたのでした。
死と、死後のことではありません。
多くの人は、これから自分が死んでしまうと、その先どうなるか分からない、自分が存在しなくなる、という不安に陥って、確かさを求めます。この地上の我、この世に根ざした我の存続を願う。
ところが、川上さんは、その心の奥底で、自分が生まれる前、まだ自分が存在しなかったころに思いをはせていて、そこに深い闇を見ていた。そのことに懼れをいだいていたのです。
この方の文学は、死についての暗い思いであると言われます。どこかいつでも自殺するということに心惹かれている。生きることが耐えられない。どんなに頑張ろうとしても、自分は闇の中から生まれたとしか思えない。それで、困難や、醜いこと、煩わしいこの世と自分の人生に耐えることができない。自殺に心惹かれる。

しかし、それに耐えて、生きた。しかも60年、信仰の操を変えることがなかった。それはなぜか。
<未生以前の我>が新しく誕生した、ということを悟らされたからです。
秋月牧師は、聖書の言葉によって、御言葉が、今ある自分、今ある自分を超えたところで、自分を捕らえている。そのことを語り、何ものかを見させてくださった。光が来た。光が射した。その時、闇は闇ではなくなった。光の中に、もう自分がいたんだ、ということを教えられたというのです。

川上さんは、その時以来、ご自分の生涯を、無から無への存在だとか、どんなに闇が深く、夜が暗くても、闇から闇に向かって生きるのではないということを知ったのです。
自分がそこにすでに生まれていた神の御手の中から、そこから、さらに、また神の御手の中へと向かって行く、それが人生なのだということを、知らされたのです。
光が来るとは、そういうことだと思います。「ああ、この私までもが神の恵のご支配のなかに生かされていたのか」と心動かされて、神を賛美し、神を喜ぶことであります。

光が来て、ともし火が灯されます。
夕闇が迫って、すっかり暗くなってしまった部屋の中は明るく灯され、その光のもとでほんの少しの間、家族の団らんに花が咲き、そして、皆は一日の疲れを癒すために床につきます。ともし火はというと、消えないで、光を放ち続け、夜を守ります。

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」のです。