2Cor3/18

説教 「栄光の照り返し」

待降節を迎え、また、年の瀬が近づいてきました。
この時、誰もが時の移り行くことと、私たちの人生のことを考えるのではないかと思います。

そこで、今日は、コリントの信徒への手紙3章を読んでいただきました。ことに、18節の言葉に心を留めて神さまを讃美したいと思います。こう記されています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

無教会の矢内原忠雄先生が書き残された文章の中に、「老人の救い」という題の一文があります。
ご自身、歳をとられて、考えさせられていることを、同じ信仰に導かれている同信の方々に語りかける、そのような文章です。年齢を重ね、人生の黄昏を迎えようとしている。その時に、いったい何を祈り、何を願いとしらら良いのかを考えてみようと、語りかけています。
こんな文章です。
「人生の辛さも苦しみも、甘いも酢いもなめつくして、今では、夕日の傾くを見るような老人の姿よ。あなたはこのまま墓に入って行こうとなさるのか。
まだ陽はあるのに、うなだれることはない。さあキリストの救いを知り、『わが生涯は恩恵であった。わが罪は赦され、わが前途には永遠の命の国がある。』という喜びと希望を抱きつつ、満足と感謝をもってこの世を去りましょう。それが残る生涯において為すべき最大の仕事であり、またそれによって最大の遺産を後の者に遺すことができるのです。」

3章18節の御言葉。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
これは、矢内原先生の言葉を用いますと、永遠の命の国、すなわち神の国を望みつつ、地上の生涯において為すべき仕事、に属することなのだと思います。

言うまでもなく、わたしたちがまず何かを為すというのではありません。主が為してくださる。それで、わたしたちが主と同じ姿に造りかえられる、と語られています。
「顔の覆いを除かれて」とあります。
顔の覆いとは、わたしたちはわたくしたち自身の罪や弱さや愚かさを知っておりますので、その恥を隠さなければ神の前には出られない、ということを意味しています。しかし、その覆いを主が取り除いてくださる。主の御顔を見ることができるようにしてくださった、のです。
もちろん、私たちの罪や愚かさが、消え去ったというのではありません。依然として、それらは私たちのものです。しかし、そのことが神さまと私たちとの間に決定的な隔てをもたらすものでは無くなったのです。
キリストが「顔の覆いを除いて」くださった。キリストの十字架による執り成しのことが、ここで記憶されています。
ですから、主とわたくしたちの間には、隔てがもはや何もありません。隔てがありませんから、わたしたちは顔と顔とを合わせて見ることになる。
それによって、鏡のように主のご栄光を映しだすことになる。主のご栄光がわたしたちの生きる姿の中に映し出されていく。栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく、と言うのであります。

ところで、造りかえられる、というのは、わたしたちが変化していく、ということです。
変化するということは、秘造物、神ではなくて神によって造られた物の、典型的な性質であると言って良いと思います。
生まれて来たときは4本足で、大きくなると二本足になり、年をとると3本足になる生き物は何か、というなぞなぞがあり、答えは人間ですが、わたしたちは嫌がおうにも年と共に変化していきます。
それは、一般に、悲しいこと、はかないこと、として感じ取られます。
しかし、この変化ですが、聖書の信仰の世界の中で生きてきた人々、聖書の人々は、この変化ということをただ悲しい、はかないこと、と考えてはいないようであります。
神が造られた物は変化する、それが、神に造られたもの姿であるとすれば、その変化の中に、人間としての麗しさというものを見ることができる。神に造られたものとしての美しさを認めるのです。

随分、以前のことですが、広く注目を浴びたある芸術家のことを思い起こします。
NHKでその人の作品が紹介されたことがありましたが、その作品というのは、造形芸術、すなあち、形あるものを造って表現する芸術ですが、この人が作るものは、定まった、動かないものではなくて、動くもの、動かせるもの、さわったりして動かすことができるものです。そして、その動きと共に作品が表現されるのです。物が変化する姿の中に何事かを見ようとするのであります。
この人は旧約聖書の信仰に生きています。旧約聖書においては、人が土でつくられたこと、そして、土だから土にかえるということ、この信仰が大変重要なものだ、というのです。形が定まらない、変化し、すぐに消えていってしまう、それだから、そこに美しさがある。造られたものの麗しさを見ようとするのだ、というのであります。
私たちは姿かたちが変わっていきます、そして、その変化の中に、神の恵みを受けとめ、また、神の輝きを照り返すことさえ許されている。それが、神に造られている人間だ、というのです。
それで、この方は、動くもの、動かせるもの、さわったりして動かすことができるものによって表現しているのです。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」そう18節の御言葉は語っています。

大阪の豊中の教会におりましたとき、教会員に、英語で歌を詠む方がおられました。
それを趣味としておられて、何かの賞もいただくほどでありました。そういえば、この方の娘さんがいっとき浜松で高校の先生をなさっておられました。
この方の読んだ俳句の一つに、日本語にいたしますと、
「深みゆく秋の流れに白いさぎ」という句があります。
秋の川の流れは、まだほんの少し暖かさを残し、日の光を照り返しながら静かに流れていく。しかし、わずかに冬の風を感じるその流れに、白いさぎが舞い降りる。
そのような光景をうたっています。この方のお住まいの近くに、小さな川が流れており、そこで見ることができる光景を詠っています。
のどかな晩秋の光景です。秋らしい美しい光景を思い浮かべます、移り変わる季節の変わり目の一瞬をとらえています。
実は、この歌は、ただその光景を詠うだけではなくて、人生の喜びと申しましょうか、生かされていることへの感謝が込められています。
晩秋の川の流れに人生のたそがれを思う。しかし、その時にも輝く美しさがある、そのことを詠っているのです。
英語で読みますと、それが、よく分かります。最後の行ですが、白鷺が秋の川の流れに舞い降りている、その様子を
alightning in a stream と詠っています。
alightningという単語に、二つの意味が重ねられています。白鷺が舞い降りるという意味と、川の流れが照り輝いているという意味です。
川の水は岩や大きな石に砕かれて波立って流れます。小さな無数の波が秋の日の光を映し出して輝きます。輝いては砕け、砕けては輝く。
ですから、一つ一つの波が輝き返す光はほんの一瞬のことです。そういう一瞬の光の照り返しの連続、それが日の光を受けとめる川の姿です。そこに白鷺が舞い降りてきて憩う、というのであります。

人生のさまざまな変化に、神の恵みを受けとめて、その一瞬一瞬に、神を讃美することができる。その輝きを受け止めることができる。そこから生まれている歌です。

今日の聖書の言葉は、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と記されています。
鏡のように主の栄光を映しだしながら、栄光から栄光へと、造りかえられていく。

フェリス女学院の院長をなさっておられた小塩(おしお)先生が、ドイツの詩人ゲーテについてのエッセーを、小さな書物に残しておられます。
その中で、ゲーテは死ということを、決して軽々しく描くことはしなかった、ということを書いておられます。死というものの窮め尽くしがたさ、その実在の恐ろしさを知っていたから、のことでありましょう。しかし、それよりも、ゲーテは、死に取り囲まれ、足下を脅かされている人生において「あえて生きる」ことこそ人間の義務であると、考えていたからだ、というのです。
ファウストの中に、「生きていくことは義務である」という言葉があります。それは、罪にまみれ、人の命を破壊させ、さまざまな良き物を破壊してやまぬ人生と社会生活の矛盾のさなかにおいて、どんなにつらく、かつ短くとも「生きていくこと」、それは義務なのだ、というのです。「最高の生に向かってたえず努力して」いこうとする。それが、ゲーテの心を捕らえていたことであった。

最高の生に向かってたえず努力する、とは、愛するということです。
ファウストという作品があります。大作で難しい作品で手に負えないところがありますが、ご存知のように悲劇です。しかし、その巻末に、「すべて過ぎゆくものは、映像にほかならぬ」という文字が刻まれています。
「すべて過ぎゆくものは、映像にほかならぬ」この言葉の中に、小塩先生はゲーテの人生観が良く表されていると言っておられます。
はかなく過ぎ去ってしまう地上の生の営みは、過ぎゆかぬものの反映である、映像に他ならない、というのです。
映像とは、むなしい虚像ということではありません。神の似姿ということです。主の姿が映し出されるということです。
人間の精神の最高の飛翔(ひしょう)は、映像を豊かに受けることである。
神を人の目は直接に見ることはできません。しかし、地上の勤労と労苦の人生の中に刻まれる愛の相(すがた)に、神の姿は映される。
すべて過ぎ去りゆくものは、映像にほかならぬ。そしてその映像の最も高貴なるものは愛である。それがゲーテの世界である。そう記しておられます。

「わたしたちは、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿にかえられていきます。」
栄光を受けるというのは、われわれの身体が、光り輝くようになることではありません。この肉の身体が、別の物資に変化することでもありません。
栄光を受けるということは、わたしたちの救いに関わることで、はっきり言えば、自分の救いについて、いよいよ確かになることです。神の恵みを深く悟り、味わうことができるということです。
神の栄光を受けたからと言って、天の使いになるわけでもなく、顔が輝くわけでもありませんが、神の子とせられたことを、いよいよ深く信じ、神との交わりを深めることができるようになるということです。
そこに、栄光から栄光へと変えられてゆく、その光栄と喜びとが知られるのであります。

永遠の命の御国を望みつつ、地上の生涯において私たちの為すべき仕事であります。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」