Mk4/26ー34

説教 「神の時を待つ忍耐」

人が種を蒔くと、種は芽を出して成長する、けれども、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 成長する種の譬え、と呼ばれます。

昔の人は、種が蒔かれて土に隠れ、そして、姿を変えて芽を出し、成長する様子を、不思議なこと、神秘的なこととして受け取っていたようです。

勿論、どういう条件で種を蒔けば良いか、どういう手だてを尽くせば芽を出し、成長するのか、そのようなノウハウは良く知られていたに違いありません。

しかし、種が生きて、実を結ぶに至るかどうかは、人の手の中で治まることではない、人間の手を離れ、人の思いの届かないところで、手だてが尽くされているのだということを、謙虚な心で感じ取っていたのではないか、と思います。
人がどんなに一生懸命に畑を耕し、養分を与え、水を供給しても、お育てになるのは神さまでいらっしゃる。
いや、突き詰めれば、この譬えが言っているように、人は、種を蒔くことと、それを刈り入れることに従事するにすぎないのかも知れません。

「夜昼、寝起きしているうちに」という言葉は興味深いというか、面白いと思います。
素朴に、言葉を右から左に移し替えると、「人が眠りにつき、また、目を醒ます、その夜と昼に」となります。
眠りにつく夜、それは、わたしたちがわたしたち自身をすら自覚できない、神さまに一切を委ねてすごすことしかできない時間です。
さらに、もう少し丁寧に、ここで使われている言葉に注目してみますと、マルコ福音書が思い抱いている夜の眠りというものが、もっと深刻なことなのだ、ということに気がつきます。
「眠る」という言葉です。これは、この福音書では、たった一箇所を除いて、悪い意味で使われます。もっとも有名な箇所は、ゲッセマネの園での出来事です。
イエスさまが、お弟子のペトロとヨハネとヤコブとを連れて、ゲッセマネの園に行かれました。十字架を前に、主は祈るために行かれたのでした。父なる神の御心を退けようとする誘惑と戦って、血のしたたるような汗を流し、祈られました。神の恵みのご支配の決定的な出来事、十字架に御自身を献げるその出来事を御子イエス・キリストが引き受けなさろうとしておられる、そのもっとも大切な時に、しかし、弟子たちは一緒に祈ることができませんでした。眠ってしまっていたのです。夜の眠り、それは、穏やかな、安らかな眠りだけではない、人間の愚かな眠り、無知で、鈍感な眠りを、表現しているようです。

昼、わたしたちは目を醒ましています。しかし、何を見ているでしょうか。
すぐ、この後に記されている物語には、イエスさまが嵐のさ中、舟の中で眠っておられた、ということが書かれています。良い意味で眠るという言葉が用いられるたった一つの場面です。
舟の艫のほうで眠っていったイエスさまに気がついたとき、弟子たちは何を思ったか、弟子たちも嵐を恐れずに眠ることが出来たのでしょうか。そうではなくて、イエスさまに怒りを覚えたのです。鈍感で無神経だ、自分たちを嵐の中で見捨ててしまわれたのだと怒った、怒りを覚えたのです。しかし、それは、弟子たちの愚かさでした。主が一緒にいてくださるのに、嵐、波と風に翻弄され、それのみに心の目は釘付けにされていたのでした。それは、起きていても、眠りにおちている、と言えましょう。

「夜昼、寝起きしているうちに」「人が眠りにつき、また、目を醒ます、その夜と昼に」、それは、日々のわたしたちの生活を映し出す言葉ですが、愚かな人間の営みをも、数え上げているようです。
そして、しかし、その間に、種は芽を出して成長し、土はひとりでに実を結ばせる、と主は仰せになるのです。
「ひとりでに」とは、神の御手のお働きの確かなこと、どうしたって神は実を結ばせられる、その神の情熱を伝えています。

もう一つ、この譬えの中には、興味深い表現が見られます。それは、「実が熟すると、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と記されている言葉です。
「実が熟すると」とありますが、これは「実が刈り入れを許す時」という言い方がなされています。実りそのものが刈り入れの時ですよと知らせ、それを許すのだ、というのです。
時が熟しているかどうか、それは、わたしたちが判断することとは違う。何にもあわてることはないし、あるいは、あきらめて時を無駄に過ごすこともない。種は実って豊かに熟す。そして、実る実自身が時を教えてくれる。

ある聖書の研究者が、この譬えについて、自分はこれを「忍耐強い農夫の譬え」と呼びたい、と言っています。
農夫にとって長い待望の後に、刈り入れが来るのと同じ確かさで、神はご自身の時を来たらせる。時は満ち、最後の審判と神の国をもたらされる。人間はそのために何一つすることができないで、農夫と同じように、耐え忍んで待つのだ、と言うのです。
主イエスは、続けて「からし種」の譬えをお話になりました。
世界で一番小さいからし種。しかし、蒔くと、成長してどの野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る。
からし種、というのは本当に小さな種です。イスラエル旅行をされた方々が、よくお土産にからし種をくださいます。1ミリもない。黒い小さな粒です。
しかし、成長するとそれは、2メートル50センチから3メートルの高さにまで達するものがあるのだそうです。
大きな木、それは神の国を象徴するイメージです。
その神の国は、しかし、からし種からもたらされるというのです。

このからし種ですが、実は、旧約聖書では、決して良いイメージのものではありません。たいがいは悪いことの譬えに用いられてきました。
悪い種、芥子種は小さくても大きな木になる。その大きな木というのは旧約聖書では、世界を支配する権力を象徴していました。地上の、この世の、しかも、苦難を経験し続けている人々にとっては、いまわしい当時の権力です。
しかし、主イエスは、この芥子種を用いて、神の国のことをお話しになったのでありました。
主イエスは、まことに大胆にそのような悪いイメージをもった言葉を用いて、神の国についてお語りになっておられるのであります。
すなわち、この譬話は神の国の現れの小さいことを見ているだけではなくて、この世や人間の中に見られる悲しさや、悪や、罪の大きさを見ているのであります。
神の国は、芥子種の中に、包まれ、隠されているというのでありましょう。

この芥子種ですが、主イエスさまはご自身のことを、ここで語っておられるのではないでしょうか。
主のお働きというのは、世界を救う救いの働きという視点からすれば、小さなものです。実際に活動なさった年月は、せいぜい長く考えても4年です。足掛け4年くらいです。そして、活動の場所は、あのパレスチナのほんの小さな一部分です。主イエスに影響を受けた人々の数は、それこそ取るに足りません。実際には、主イエスがお亡くなりになった時には、ひとにぎりの婦人たちだけになってしまったのです。古代のローマの歴史書には、主イエスの名前はほどんど記されていません。そのために、イエスは実在しなかったのではないかと、多くの人々が疑ったほどです。今は、そんなことを言う人はいません。しかし、無名の存在であり、多くの業績を賞賛された皇帝たちに比べれれば、全く無に等しい存在でした。ご自分のわざは小さい。ご自分の存在は小さい。
ことに、主が十字架におかかりになって死なれた、ということは小さいことの極みでありましょう。しかも、そこに何よりもイエスさまの全てが傾けられたのであります。

ある人が、こう言っています。
神の国は、からし種のようなものです。それは隠されています。「神のご支配が、イエス・キリストというお方に現れているならば、隠されているのは当然です」。イエス・キリストにおける、神の支配は本当に見えなかった。見えなかったからこそ、人々は、イエス・キリストを十字架につけて殺したのです。イエスを十字架につけて殺したということは、そこに神の支配を見なかったからです。それどころか、この男こそ、神の支配から取り除かれるべき者、呪われるべき者と考えられたからです。
それほど深く神の支配は、わたくしどもの知恵から見れば、少しも神の支配らしくなかったということです。なぜ、そんなに神様らしくない振る舞いを、主イエスはなさったのだろうか。
でも、良く考えてみれば、もしも、神様がわたしどもが見てすぐ分かるように神様らしく振る舞われるならば、わたしどもは、その神の支配に耐えることができなかったことでしょう。
しかし、神の子であるイエスは、わたしどもが考えるよりも、もっと深く人間であろうとなさいました。しもべの中のしもべにおなりになったのです。こんなところに神の支配、神の王としての姿なんか見えるかと思うほどに深く、しもべの姿をお取りになったのです。人間よりももっと深く人間の弱さの中に、惨めさの中に、神に裁かれる罪の恐ろしさの中に、お立ちになったのです。神の支配は、見えようもなかったのです。

しかし、その小さいこと、そこに、実に神の大きな働きが顕わされていました。
神の国、神のご支配は、この小さなイエスさまのお姿の中に現れたのであります。

今日は、「神の時を待つ忍耐」という説教題にいたしまあした。成長する種の譬えも、からし種のたとえも、神の時の訪れを待つこと、忍耐して待つことを教えています。
その忍耐ですが、それは、父なる神のおおいなる忍耐と共に語られています。
私どもが夜昼、寝起きしているうちに、芽を出して成長する、その種に神の国が現れるようにと心に定め、小さなからし種に神の国の訪れをお委ねになる。それは、父なる神の忍耐によることと言えましょう。
神は私たちの思いをこえて、忍耐強く、憐れみ深くいてくださるのであります。
その忍耐強い父なる神は、私たちの地上の歩みの中に、神の時を待つ忍耐を期待しておられるのだだと思います。
恥を公にするのですが、もう20年以上前になりますが、大阪の豊中いわお教会という教会で牧会をしていた時のことです。
伝道が思うように進展しない。教会の中で、不幸なことですが、ごたごたとしたことが続いたことがありました。そんな時は、皆辛い思いになります。牧師も同じです。そして、自分の無力さを思い知らされ、責任を強く感じるのです。
そんな、ある日曜日に役員会が開かれ、教会のことが話し合われました。その時、わたしは自分の無力なこと、ことに御言葉を語ることの貧しさを覚えながら、教会の抱えているいろいろな困難を正直に吐露し、嘆きました。嘆くことしかできなかったのです。
すると、一人のご婦人が、わたしを諭してくださいました。その言葉を忘れないでおります。「先生、御言葉を与えてくださるのも、教会を建ててくださるのも、主イエス・キリストでいらっしゃるのではありませんか。主を信頼申し上げましょう。」
考えて見ると、わたしたちは主に招かれ、主のお働きにただお仕えするにすぎないのですが、そのことをどこかに置き忘れてしまっていたのです。神の時を待つこと、人して待つことを失っていたのだと思います。
そして、役員会でのひとり婦人長老の言葉は、ぺちゃんこになっていたわたくしの心を膨らませてくれました。

聖書の注解書はどれも、この譬えとともに新約聖書のヤコブの手紙5章11節の言葉を記憶に留めるべきだ、と教えています。こう記されています。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」
ヤコブ書というとマルチン・ルターが藁の書簡、すなわ福音が書かれていない藁のような、と言ったので顧みられることの少ない書簡ですが、実は、ルター自身は、この手紙を心を込めてドイツ語に翻訳しました。そのヤコブ書は信仰の生活とはいかなるものであるか、その知恵を教えています。そして、それを忍耐という言葉で言い表してます。
忍耐、あまり好かれる言葉ではなくなってきていますし、何か卑屈なイメージがまとわりついているかも知れません。
しかし、ヤコブ書は忍耐という言葉で、信仰生活のダイナミズム、不思議な躍動を教えているようです。
新約聖書では忍耐を言い表すのに、二つの言葉が使われています。その二つともヤコブ書に用いられていますが、一つは、「下に留まる」という言葉です。困難や試練、この世の重荷、その下に留まり続けるということです。これは、忍耐についての一般的なイメージだと思います。じっと耐える様子が偲ばれます。しかし、困難や試練のもとにあるだけではありません。神の忍耐の下にもあるのです。そして、その下に留まり続けるということになると、どうなるか、事態は大きく変化するというのです。

忍耐を言い表すもう一つの言葉は、「大きな心」です。忍耐とは大きな広い心を持つことである。これは、あまり良く知られていないのですが、聖書の中に登場する、忍耐についてのもう一つのイメージです。
忍耐というのは、じっと耐えるだけではない、大きな心を与えられることになる。
寛容で、あらゆることを受けとめる広い心、ということでしょうか。
もっと適切に言い表すならば、終わりの時を待つ心、広い地平を見る心、神の国を待つ心です。神の国を待つ心は大きいのです。
ある人が、こう言い換えています。それは、イエス・キリストが自分の心の中で大きくなってくださることである。自分は段々小さくなる、それに代わって、からし種であるキリストが大きく場所を占めてくださるようになる。キリストが訪れて来てくださり、大きく大きくなってくださる。忍耐は大きな心を持つことであるおいうのです。