2Cor4/7

説教 コリント人への第二の手紙4章1ー15節
「土の器に」

「この宝を土の器に納めています」と記されています。
今日は、この御言葉に心をとめて、神さまを讃美したいと思います。

土の器とは壊れやすい、滅びやすい容器、入れ物です。 それで、この言葉はどこか私たちに感傷的な思いを抱かせます。
人間は偉そうなことを言っていても、しょせんは、もろい土の器のようなもので、弱く、くずれやすい。
そして、その弱さを知るということ、それは耐え難いことでもあります。本当には受けとめることが難しいのではないでしょうか。受けとめることが出来ないで、私たちは、苦労するわけです。
それで、かえって、自分が土の器にすぎないのに、強く見せてみたり、美しく飾りたてようとしているのではないかと思います。
聖書は、しかしながら、このように人間の弱さを思い起こさせる「土の器」という言葉を用いて、「わたしたちは、この宝を土の器に納めています。」と告げています。

言うまでもないことですが、聖書は人間の弱さを嘆いているだけではありません。
一方に、神が私たちに与えてくださった救いのことが考えられています。この救いは、宝にたとえられています。限りなく尊い宝です。それと比べて、人間という器は、まことに、土の器に過ぎないことがわかる。そのことを、ここでは言っているのであります。

この「土の器」という言い方ですが、聖書の言葉の世界の中で、ある重要な思想を背景として持っています。
古から用いられており、権威のある英語の聖書は、「土の塵でできた器」earthen vesselsと訳しています。
創世記のはじめに、神は土の塵で人を造り、命の息を吹き入れられた、と記されていますが、塵、土です。土の塵から造られたので、人間は土の器ということになるわけです。
この塵、ということですぐに連想するのは、「人は塵だから塵にかえる」という言葉です。それは、地上の命のはかなさを思い起こさせるだけではなくて、神に造られた人間、神の創造の御手の中に命あらしめられている者、ということです。
神によって土の塵でつくられ、神によって塵にかえる、人間です。

そして、その「土の器」とという言葉は、打ち砕かれる、悔いくずおれる、という意味も持つのであります。 旧約聖書の詩編51編19節に、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」とあります。これは、ダビデ王が歌った詩編であると言われています。
神さまが喜んでくださるささげものは、打ち砕かれた霊、悔いくずおれる心、砕かれることに備えのある人間である、そう記していますが、実は、この「打ち砕かれる」という言葉は、「土の器」という意味をも持つヘブライ語が使われています。

確かに、土の器は打ち砕かれるものなのかも知れません。
陶器をつくる人は、粘土で形を作っていく段階の時も、また、釜出しをしてできあがった作品を見る、そういう段階に至っても、思うような形や作品にできあがらないと、平気で投げ捨て、砕くようです。そして、作り直します。自分の満足のいくものが出来上がるまで、何度も砕いては作り直します。土の器というのは、そのように打ち砕かれるもの。
そうだとすれば、わたしたちは神さまによって造られた土の器で、それが全く神に喜ばれるものとなるまで、神さまは何度も何度も砕いては造り、砕いては造られるのでありましょう。

そのような、神さまの御手の中に、自分を見いだし、捧げている人、すなわち、打ち砕かれ、砕かれることに備えのある人を、神さまは喜んでいてくださる、そのように詩編51編は歌っています。

おころで、ある英語の聖書は「粘土でできた壺」jars of clayと訳しています。
人類が土を焼いて器を作ることを知らなかった頃の、粘土のままの器です。珍しい翻訳です。その意味するところは「役に立たない」器だということです。
土のままの器には、水を盛ることはできません。すぐに崩れてしまう。脆弱なものです。役に立つようには思われないのです。

ドイツの神学者でユンゲルという人がおられました。非常に難しい文章を書く人でした。容易には読む気にはならない、そんな書物を何冊も書いておられます。
その人が、たいへん分かりやすい説教を残しておられます。今日の箇所の説教です。「土の器」について、こんなふうに語っています。
まず、ここでいう土の器というのは、口が開いたままの器だ、というのです。そこに油を注いで火を点す。その油と火は暗闇を照らします。
ところが、火を点すために油が盛られるのですが、粗末な土の器なので、ふちのところが欠けたり、底のほうがぼろっとひび割れて油が漏れてきたりする。
要するに器としての用を果たしえないのです。それがここで言う土の器だというのです。
しかし、神は、この土の器に神の宝を委ねておられる。この器はあちこちひび割れたり漏れたりしているのだけども、器が損なわれれば損なわれるほど、そのひび割れや穴や隙間から、器に納められた、神の宝が漏れこぼれて行く。ぼろぼろの器から、キリストの光が出て行く。こぼれ出る光が、他の人びとに見え、そして伝わって行く。そのような土の器のことが語られているのだというのです。心に留まる言葉ではないかと思います。

この「粘土でできた壺」という翻訳に感動した人がおられます。そして、短い文章を綴っています。
その人は、人間はおそよそのようなものではないかというのです。ことに、この方は歳をめしておられますので、若いころとは違って不自由が多くなった自分と重ね合わせているのです。
けれども、聖書はその土の器に、神が宝を納めてくださったのだと言っている。お役に立っていると言ってくださるのだ。役にたたないものを、お役ご免、と言わないで、役立つ器として用いてくださる。そう語っているのではないか。そう思うと元気が出ると言うのです。
もろく、壊れやすい「土の器」。それ自身では役に立たない土の器に、しかし、尊い宝が納められている。
信仰とは、そのことを受け止めさせていただくようになっている。ということでありましょう。

「土の器」とは、弱く儚いというだけではなく、脆く壊れやすい、いや壊れている。壊れていること、打ち砕かれることに備えてもいる。その一切を受け入れている。 その「土の器」に、神の宝が委ねられる。神の恵みが漏れこぼれていく、というのです。

英語で土、ことに粘土あるいは良く肥えた土のことをヒューマス、スペルはhumus、ヒューマスと言うようですが、それはラテン語の土ウムスを意味する言葉に由来しています。そして、そこから、次の二つの言葉が生まれてきています。
一つは、人間ヒューマンです。
もう一つは、ハンブル謙遜です。
謙遜とは、神によって打ち砕かれる備えがある、ということでありましょう。そして、ヒューマンという言葉は、人間らしい人間と言いましょうか、しなやかな、人間性の豊かなことを言い表す時に用いられるのではないでしょうか。
土という言葉から、この二つの言葉が生まれているというのです。
土の器という聖書の言葉が持つ、豊かな広がりです。

最後に、土の器にまつわる旧約聖書の物語をご紹介して終わりたいと思います。
旧約聖書のエレミヤ書に記されていることです。
あるとき、預言者エレミヤは土の器にある物を入れておくようにと、神に命じられたというお話しです。
何を入れたのかというと、アナトテという場所にある畑を確かに買った、という証書です。
その畑は相続する人を失ったのでしょう。持ち主の親戚にあたるエレミヤがそれを買いました。その証書を土の器の中に入れて長く保存させたのであります。
実は、この出来事は、象徴的な意味をもつものでした。そのエレミヤの行動をとおして、神は救いの約束を物語らせているのです。
エレミヤの時代、都エルサレム滅亡しました。それはエルサレムの罪のゆえでした。エルサレムは北の大国バビロンによって占領され、王や主だった人たちは遠くバビロンに連れていかれます。バビロン捕囚と言われている大変なできごとです。
エルサレムやその周辺は、約束の地としてイスラエルの人々に与えられたものでしたが、もはや風前の灯火でした。人々は、もはや神さまの約束は失われたと思ったのです。そして、その地を離れて行こうとする。
とろこが、そのとき、エレミヤは神さまの言葉を語るようにと、再び召されます。
ここは約束の地である。神さまの約束は失われてはいない。再びこの地に人々は帰ってきて、約束の地を受け継ぐ。そのことを信じるようにと語りました。
それで、神さまはエレミヤに失われた約束の地の一角、アナトテの畑を買い取るように命じられたのでした。エレミヤの行動はまことに愚かなことと映ったに違いありません。その証書は何の意味ももたない、紙切れどうぜんのもの。しかし、神さまの約束がそこに委ねられたのでした。
エレミヤはアナトテの畑を買い取り、その証書を土の器の中にいれて保存したのでありました。
エルサレムは滅び、約束の地は失われました。それはイスラエルの人々の罪のため、神の裁きのゆえでありました。しかし、神の約束は決して消えることはない。この悲しい出来事をとおして、その苦難の後に新しく神の民が生きるようになる。この土地は約束の地として、新しく神の民の土地となる。神の民は再び集められ、ここに移し植えられ、今度は、新しい心を与えられて、けっして空しく終わることのない営みが築かれる。そのような神の与えてくださる約束のしるし、それが土の器に入れられた証書の意味するところでありました。

遠大な神の救いのご計画です。人々はあまりのことにこれを理解することができませんでした。
「この宝を土の器に納めています」(7節)と聖書は記しています。