Mat1/22-25

説教 マタイによる福音書1章22ー25節
「インマヌエルー神は我らと共にー」

ある時のこと、ひとりの教会学校の生徒さんから、質問を受けました。

「イエス様が十字架におかかりになった金曜日のことをグッド・フライデーと呼ぶのはなぜですか」。
悲しい日なのに、グッド、良きフライデーと言うのはなにか変な気がするというわけです。
私たちは、どこかでいつのまにか当たり前だと思ってしまっている、しかし、本当は不思議なこと、そのことを、素直にそのままに、そのお子さんは質問をしてくれたのでした。

クリスマスはどうでしょう。メリー・クリスマスと挨拶を交わします。心から嬉しく、喜ばしく、クリスマスおめでとうと申しますが、お生まれになった幼子は、父なる神のもとを離れてこられ、そのご生涯が、十字架へと向かうというのですから、クリスマスの喜びの中にも、不思議が宿っていると言えましょう。
数年前に、日本基督教団から「信仰の手引き」という冊子が出版されました。
教会の教えを、問答形式で学ぶことができるように作られている書物です。
昔から、教会では、問いと答えという、問答形式を用いて信仰の教育がなされてきましたが、その形式にのっとって、新しく作られたものです。

その中に、独り子なる神は、なぜ人となられたのですか。という問いがあります。
そして、その答えとして、こう書かれています。
すべての人の罪のゆえに永遠の怒りと裁きの重荷を自ら負い、それを取り除かれるためです。
私たち人間の罪のゆえにくだされる、父なる神の永遠の怒りと裁きを、私たちに代わって、自らが負うために、神の独り子は、人となられた、そう記されています。
それがクリスマスの意味であります。

そうでありますから、手放しには喜べない、深い憂いと、壮絶な決断が、クリスマスには表されています。
メリークリスマスとは、簡単には、言えないのであります。
しかし、そうではありますが、クリスマスは喜びの日なのであります。深い喜びに包まれています。地上のどのような喜びにも増して大きな喜びが告げられたのでありました。

どこに、そのような大きな喜びがあったのでしょうか。それは、天においてであります。
ルカによる福音書を読みますと、天の御使いが羊飼いたちにあらわれ、大きな喜びを告げたと記されています。
天において大きな喜びがが祝われており、その喜びを天の御使いは告げたのであります。
神が、その独り子を、私たちにお与えくださること。独り子が、私たちが受けなければならない、永遠の怒りと裁きとを、自らに負ってくださるために、人となられたこと、そのことが、天において大きな喜びと共に祝われているというのです。天の使いは、その喜びを羊飼いたちに告げたのでありました。

今日は、マタイ福音書を読んでいただきました。
この福音書は、ヨセフの立場から書かれていると言われます。キリストご降誕の出来事が、夫ヨセフが前面に出てきて、救い主誕生の出来事に寄り添っているのであります。
子供の誕生に際して、男親ができることというのは、女親に比べれば、小さなことです。
まして、幼子は聖霊によって宿った、というのでありますから、ヨセフの存在はまことに小さなものです。
しかし、マタイ福音書は、このヨセフの立場から書かれています。
そして、ヨセフは妻マリアを迎え入れたこと、赤ちゃんに名前を付ける役目を担ったということが綴られているのであります。

ヨセフに伝えられた名前、ここには二つ記されています。「イエス」という名前と、「インマヌエル」という名です。
「イエス」、これはギリシャ語で呼ぶときの名前で、ヘブル語では「ヨシュア」です。
その意味は、「主は救い」です。
ヨセフの夢にあらわれた天の使いは、「この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「主なる神はわたしたちの救いである」、「主は救い」、それがイエスという名の持っている意味です。

神の選びの民、旧約聖書のイスラエル人々は、神の前に導かれ、祝福の基、祝福の基礎とされましたが、それに相応しく歩むことは出来ませんでした。
他の人々が選ばれていれば、それが出来たということではありません。神の前に導かれた選びの民によって、人間の罪が明らかにされたのでありました。
しかし、神はその民を顧みられる。その罪を赦し、贖われる。「主なる神はわたしたちの救いである」という名のお方によってであります。

続けて、天の使いは、幼子が「インマヌエル」と呼ばれる、と告げています。「神は我々と共におられる」という意味です。
それは、旧約聖書、預言者イザヤの語った言葉の成就であると記されています。

救い主誕生の700年前のこと、その時、エルサレムに住む人々は動揺し、木の葉が風に揺られるように右往左往していました。
戦争の噂、近隣諸国による侵略の噂に、エルサレムの王も人々も怯えました。そのような王に向かって預言者イザヤは、静かにして神を信頼し、信仰に立つようにと語りました。しかし、王は神を信じ、神に信頼することができませんでした。
そこで、預言者イザヤは、この国と、その民が、神と共にいることができるように、一人の指導者を備えられる、と告げたのでした。
「おとめがみこもって男の子を産む」それは、「インマヌエル」と呼ばれる。
神さまが、その約束をもってエルサレムに臨んでおられる、そう語りました。
その言葉は、主イエスの誕生によって成就した、と天の使いはヨセフに告げたのでありました。

ヨセフも、また、その時、揺れ動き、悩みの中にありました。
すでに婚約をしていた、いいなずけが、自分とは関わりなく、身ごもっていたからです。
親しい者との愛の生活に、私たちは一方で大きな喜びを見出します。しかし、他方において、どんなに深く傷つくことでしょうか。
救い主誕生の知らせは、そのようなまことに人間的な、しかし深い魂の悩みの中に、告げられました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
神と人、人と人との隔たり、神とこの世界の断絶。しかし、その厚いベールははがされ、また、高い壁は崩されて、神が共にいてくださることになった、聖書はヨセフの物語と共に、そう伝えています。

ヨセフは主の使いが命じられたとおいりに、マリアを妻に迎え、幼子をイエスと名付けたのでした。
24節にこう記されています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。
さりげなく記されていますが、ここにクリスマスの喜びにあずかり、天の父の御心を行うヨセフの信仰が伝えられるのであります。
クリスマスに、憐れみに富み給う神御自身が、人となられたのであります。この地上に、インマヌエル、「神我らと共におられる」との真実が現されて、わたしたちがその真実によって生きるようにとしてくださったのであります。

こんな物語を聞いたことがあります。教会学校の先生が創作して子どもたちに聞かせた話です。
ある男が世界中をまわってきた。彼はたくさんの悲しみ、悩み、矛盾、醜さを見た。罪をみた。欲望の渦の中に巻き込まれている人間を見た。
彼は考えた。こんな世界にいては自分は滅びてしまう。自分の魂を守ろう。神に近づいていよう。そこで、彼は高い塔をたてた。それは天にまでとどくかと思うほど高い塔だった。彼はその高い塔に昇っていって、塔の上で、高い高い塔の上ですごし始めた。これで、地上の喧噪から離れた高みで、自分の魂は神と共にいることができる。そう思った。
ところがある日、下からこの男を呼ぶ声がする。「おーい降りてこい。そんなところで何をしているのか。ここに降りてこい。」その声を聞いて、男は思った。これは悪魔の声だ。あの悲しみと、悩みと、矛盾と、醜さと、そして罪の中に自分を落とし込もうとしている悪魔の声だ。しかし、下から彼を呼ぶ声は消えなかった。
そこで、彼は自分を呼んでいる者が何者かを確かめようと下を見てみると、なんと、自分を呼んでいたのは、神ではないか。神が自分を呼んでいる。彼は信じられなかった。自分の目がおかしくなったに違いない。彼は目をこすった。そしてもう一度下を見た。すると、今度は、そこに小さな幼子が貧しい馬小屋に布にくるまれて飼い葉おけの中に寝かせられているのが見えた。そして、声がした。「降りてこい。わたしはここにいる」。彼は見たことが何であるのか分からず、信じられなかった。今度は目薬をさして、もう一度、下をのぞき込んだ。そうると、一人の人が罪人の家に入って食事をしている。罪人は突然立ち上がって、胸をはり、客人にむかって何かをはなしはじめる。何を話しているのかよく聞こえない。耳をすましていると、客人の声がかすかに聞こえてきた。「きょう救いがこの家に来た」。彼は、耳もおかしくなったのか思って、耳の穴をほじくりまわして、「あ、あ」と言って耳が正常に聞こえるかどうかを確かめた。そして、また、下を見た。
そうしたら、今度は、一人の人が十字架を背負って歩いている。なにやら鞭で打たれ、苦しそうだ。彼は、やっと安心した。そうだ、これが下の世界だ。悲しみと、矛盾と、醜さと、罪の世界だ。
ところが、声がした。「降りてこい。わたしだ。わたしがここにいる。」それは、彼が最初に聞いた、神の声であった。

神は彼がそこはいたくないと思った、あの低い場所におられた、と語る物語です。
20世紀最大の神学者と呼ばれる、あるスイスの神学者がこんな文章を綴って、クリスマスの喜びに生きるようにと諭しています。
羊皮紙に書かれ、印章のある、600年ばかり前の古い証書を、手にする機会があったというのです。
その内容は、一軒の家の売却と購入に関するもので、当時必要としていた書式にしたがって丁寧に書かれたものだった。
そして、日付が次のように書かれている。『神の誕生から1371年を数えた年、教皇の一人である聖ウルバンの日の後の、次の月曜日』バーゼルにて、と。
この神学者は、この古い、中世の時代の証書の日付が、「神の誕生から何年」と書かれていることに、わたしたちの注意を促します。そして、こう申します。
昔の人は、現在のわたしたちは忘れてしまっている大事なことを、明確に意識していたのではないか。彼らは、お金や財産、商業取引に関することであっても、「神の誕生」から数えることによって、彼らの時代、彼らの歴史、彼らの生活、彼らの人生が持っている秘密について、われわれの場合より、はるかによく知っていた。
人知を超えたこと、神の誕生から数えて、と我々も記すようにしよう。
そして、邪悪な世界、しかし神に愛されている世界、この世界に反対してではなく、味方し。
悪しき、愚かな人間、しかし、兄弟として神に選ばれた人間、この人間に反対してではなく味方し。
われわらがなすこと、許されて為すことを為すようにしよう。

独り子なる神は、なぜ人となられたのでしょう。
すべての人の罪のゆえに永遠の怒りと裁きの重荷を自ら負い、それを取り除かれるためです。
神が我々と共におられる、インマヌエル。これがクリスマスに告げられている良き知らせです。