11/27の礼拝説教から

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

 マタイによる福音書6章10節

「糧」とは、文字通りには「パン」です。私たちが生きるために必要なもの、それが「糧」です。そして、聖書のことですから、ただ命が支えられ生きる力が与えられるというだけではなくて、神の国への旅路を歩む力、永遠の命に結ぶ糧のことでもありましょう。

出エジプト記16章に、神の民とされた人々が天からのマナをもって荒野の旅路を支えられたと記されていますが、 主イエスはわたしたちに、糧を与えたえと祈り、神の民として、神に生きよとお教えくださるのだと思います。


パンを得るための生活は

私たちはパンを得るために、パンを食べさせるために日々、働き、生きております。何の意味があるのだろうかと感じるようなこともありましょう。しかし、その日々の生活を、神様が覚えていてくださり、眼差しを注いでくださっている。

主イエスは、日々の生活の中に神の恵みを見いだすことが許されている、祈りをもって生きることが許されている生活なのだということを、お教えくださっています。


『ベツレヘムの人口調査』

ピエール・ブリューゲルが描いた「ベツレヘムの人口調査」という題のついた絵があります。画家が住んでいる地方を描き出して、その極寒の厳しい生活のただ中に、目立たない姿で人口調査のためにやってきたヨセフとマリアを描きだしています。

その二人に誰も気がついていない。目をとめる人がいないのです。けれども、羊の番をする野原の羊飼いたちの生活のただ中に、喜ばしい知らせが届けられたように、この画家も、自分たちの生活のただ中に、思いがけないクリスマスの喜び、その訪れを受けとめて、描いたのでした。


平和を願う祈り

文字通り、その日のパンを得ることができずに苦しんでいる人々がいます。そして、その多くは、争いや、戦争によって平和が失われているところで、起こっています。

人はパンのために争います。時に、戦争が、紛争が起こりますが、いや、起こっていますが、それは、突き詰めると、パンのためであると言ってよいでありましょう。そして、その戦争や紛争のために、多くの人々がパンを得ることができずに苦しむのであります。

パンを求める祈りは、平和を求める祈りでもあります。


「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」

イザヤ書55章1-5節

この旧約聖書の言葉は、あなたがたは本当に「必要な糧」を見失ってはいないか、と問うています。 「糧にならぬもののため、飢えを満たさぬもののために労」しているのではないか。

イザヤ書の言葉は続けて、こう記しています。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」

「わたしに聞き従う」、つまり神様のみ言葉を聞き、それに従っていくことにこそ、本当の糧がある、本当に良いもので養われ、豊かさに生きる道があるのだ、というのです。そして、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と記して、神様が私たちと特別な交わりを持って下さる、私たちを神様の民として、その恵みと慈しみによって養い生かして下さると語っています。

「聞き従う」とは、神様の方から、私たちに手を差し伸べていて下さる、その御手に結ばれるということです。 私たちはその喜ばしい訪れを聞き、受け入れるだけです。受け入れることで従うのであります。そこで味わい知る糧があり、そのために生きること、それが、本当に必要な糧なのではないか、とこのみ言葉は語っています。

主イエスは「我らに日用の糧を与えたまえ」と祈るようにお教えくださいました。