12/4の説教から

主の祈りの第五の祈りは
 「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく
  我らの罪をもゆるしたまえ。」 です・

ルカ福音書11章4節では、「わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。」で、
マタイ福音書6章14節は、「わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちにも自分に負い目のある人を
赦しましたように。」となっています。

罪という言葉と、負い目という言葉が入り組んで用いられています。アラム語では同じ言葉 だそうです。あえて違いを言えば、罪とは「的はずれ」で、「負い目」は借金、負債ということです。

神と人、人と人、その関係の中で、持ち上がってくる深刻な事態を映し出しています。関係が損なわれ、破れてしまっているのです。


 マタイ福音書18章の主のお言葉を思い起こします。

弟子のペトロが主イエスに「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきですか。七回までですか」と質問しました。同じ人の罪を七回赦す、それは大変なことです。ほとんど不可能なこと、と言ってもよいかも知れません。
ペトロは、傲慢にも、あたかも自分はそれができると思っており、同時に、人は何度赦しても赦しても同じ過ちに陥るものだという諦めの思いを頂いているように思われます。
そして、7度赦せば、その後は何をしても咎められることはないのですねと、質問したのでした。

主イエスは、その時、ペトロに「七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのでした。
7の70倍。それはどこまでも、どこまでも赦せということです。

そして、有名な「仲間を赦すことが出来なかった家来の譬」をお語りになりました。人は皆、自分が大きな負債を負っているのに、しかも、それを赦してもらったとしても、自分に負い目のあるものを、赦すことができない。そうではないのか。
牢に投げ入れられるような、いわば破綻したもなのではないか。そうペトロにお問いになっておられるのだと思います。


「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と祈るべきである、というのはいかにも厳しいことです。不可能なことのように思われます。

しかし、る神さまは、私たちが互いに赦しあうことを求めておられます。神さまに対するわたしたちの罪は赦されるけれども、隣り人との間に横たわる負債、負い目は、そのままでもしかたがないというのではなくて、私たち人と人との間にも、赦しを見たいと、神は願っておられる。譬話はそのことも伝えています。

この神さまの厳しさを受けとめた方がおられます。人となりたもうた、独り子であられる主イエス・キリストです。キリストのご生涯は、私たちのために執り成してくださる。そのようなご生涯でありました。そして、十字架の上で、ご自分を十字架にかけた人々のために、「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と祈られたのでした。

神さまの赦しは、このお方によって開かれ、私たちに与えられました。
神さまの眼差しは、このお方に注がれ、このお方をとおして私たちに注がれます。
それで、私たちは十字架のもとに立ち、主を仰ぎ、そして、祈ることを教えられるのです。