12/18礼拝説教より

ラテン語でベネディクトス「ほむべきかな」と呼ばれているクリスマスの賛歌(讃美歌)を読んでいただきました。

ルカによる福音書1章67~79節

これを歌ったのはザカリアという老人です。妻はエリサベト、イエスの母マリアの親戚であったと記されています。ザカリアもエリサベトも、共に年を重ねた老人でしたが、この老夫婦にヨハネという男の子が生まれて、救い主のために無くてならない役割を果たす人となります。

ザカリアと、天使の告知についてはこちらをご覧下さい。


この歌は、2つの部分に分けられます。前半は75節までです。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」と最初に神さまの御名をたたえています。
これは神がイスラエルというまことに小さな民族を選んで、救いの器、祝福の基とされたことを覚えて、神を呼ぶ呼び名です。

次に、意味の深い美しい言葉が述べられています。「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされました。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」今、神がご自分の力と愛を示されるために、救いの角、力ある救い主を立てられた、そのことを感謝し、喜び讃えています。

そして、力ある救い主はが何を為してくださるのかを歌います。「我らの敵、すべて我らを憎む敵の手からの救い。」と告げています。神は先祖たち、アブラハムに立てられた誓いを覚えていてくださった、その結果、「我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」仕えることができるようになった、と歌います。


次に後半ですが、76節から記されます。

ここで、やっとヨハネのことが歌われます。彼が担う使命について、そして、救いの訪れについて歌っています。

「主に先立って行き、その道を整え」と言われています。つまり、主を迎える準備を人々にさせるのがヨハネの使命です。さらに「罪のゆるしによる救いを、知らせるからである」と言われています。罪のゆるしとは、神さまが共にいてくださるようになるということです。わたしたちを慈しみ、わたしたちをその見失われた姿の中で見出してくださり、覚えてくださり、共にいてくださるということです。わたしたちは神が共にいてくださる、その恵みによって生きることになる、それが罪の赦しです。

「これは我らの神の憐れみの心による」と歌っています。そして、このあわれみにより、「高いところからあけぼのの光が我らを訪れ」と歌います。
曙は救い主を意味しています。また、高き所より、と言われているように、救いは人間からではなく、神から訪れます。人間の力では、太陽を早く昇らせることができないように、本当の救いの光も、神のみ旨によって訪れる、と歌っています。そして、神の憐れみによって、ヨハネはその救いの御業に仕えるのです。

曙は「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導き」と歌って、ザカリヤの讃美歌は終わります。


神の救いの歴史の舞台で、ザカリアの子ヨハネは大切な役割を担います。その光栄が、このように喜ばしい歌となっています。

注意深くこの光栄にみちた、喜ばしい歌を眺めると、ヨハネについて歌われていることはほんの一、二行のことで、内容的には主なるキリストのことが覚えられ、ほめたたえられていることに気づきます。ヨハネという人は、ただ神の深いあわれみに接して、ただそのことに自分を傾け、神の言葉を語り伝えたのでした。

救い主の降誕、それは神がわたしたちの生きる場を神の救いの歴史の舞台となさったということです。その舞台の上でわたしたちは生きる幸いを与えられているのであります。