1/1礼拝説教より

「初めに言(ことば)があった。」

(ヨハネによる福音書1章1節)

「初め」について語っています。世界の一番最初のこと、というだけではありません。私たちが生かされて過ごす日々には、初めがあるということです。

私たちは、いろいろな出来事に遭遇し、そのたびに、新しい出発をします。時には、苦々しい経験と共に、歩き始めなければならない時もあります。ヨハネ福音書を綴り、これを残した教会もそうでした。紀元1世紀の終わりのことです。キリスト者たちがユダヤ教の会堂から追放されます。それまで、一緒に暮らしてきた人々、そのコミュニティーから追い出されたのでした。それは決して快いものではなかったでありましょう。人々が引き離されるのです。さまざまな悲しい出来事を経験したことでありましょう。

その教会が、「初め」について語っています。ユダヤ人が、その会堂が、私たちを追い出し、私たちに新しい出発を余儀なくさせたとは、語ってはいません。
そうではなくて、「初めに言(ことば)があった。」と語ります。「言」こそ、私たちの初めである。常に、「言」が始まりである。そう言い表しています。


「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」

初めを神の中に見ています。神と共にあった言です。そして、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)と記したいます。

「成った」とは、かつて神さまがこの世界をお作りになった、というだけのことではありません。整えられたものとして形作られ、良きものとして、神の喜びたもうものとして、造られるということです。

これらの言葉は、創世記第1章の天地創造の記事を下敷きにして記されたと言われます。混沌とした状態から、神の言葉による創造が記されています。無秩序な、整えられていない、良きものとはいえない、そのところで、『光あれ』という神の言葉が発せられると、この世界は、神に喜ばれる良き世界として、姿を現してきた、ということです。

ヨハネ福音書が、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」というとき、その「成った」というのは、その意味であります。
そうでありますから、「成った」と過去形で書かれていますが、それは、今も、続いている、そのことが起こっているのだという含みがあります。「成った」ということは「成る」ということでもあります。


この初めであるお方は、どのようなお方なのでしょうか。

14節には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と記されています。また、「わたしたちはその栄光を見た」と言って、この地上の喜びが語られています。「その栄光は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と。

10、11節にはこう記します。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」 「認めなかった」とは、無知、無関心であったというのではありません。もっと激しい拒絶を意味しています。抹殺する。そのような敵対的な働きかけを意味する言葉です。それで、この11節は昔から、最も短いイエス伝、、と言われてきました。この一句で十字架に死なれた主イエスの全生涯が語り尽くされているからです。

それが、「父の独り子としての栄光」であり、「恵みと真理」であるというのです。そして、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と記しています。