1/8礼拝説教より

「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み・・・・」

(エフェソの信徒への手紙4章1節)

  4節には「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあづかるように招かれているのと同じです。」と書かれています。教会生活を「招き」と言い表わされています。口語訳聖書は「召し」と翻訳しておりました。英語ではcallingです。神さまが招き、召してくださった生活がある。呼ばれ、招かれ、召されて知るようになった望みがある。一つの希望にあづかるように招かれていると記されています。

  この手紙を書いたのは使徒パウロであると記されておりますが、パウロという人は、この世的と言いましょうか、人間的な判断からすれば、当時のユダヤ社会ではエリート中のエリートでした。教育も一流、世間の評価も上々、自分もまた神さまの前に誇り得ると思っていた人であります。ですから、それらしい生活や望みというものを持っていたことだと思います。
しかし、今ここでは、それらいっさいの過去のことは退き、ただ神に招かれ、神さまが召してくださって、始めて知るようになった生活と望みについて書き記します。


 

この教会について、短く、三つのことを、教えられたいと思います。

一つは、11節です。
「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」とあります。 ここには、パウロがこの手紙を書いた当時、まだ生まれたばかりのキリストの教会において、このような職務を担う人々がすでに立てられていたということを示しています。
それは、奉仕し、仕える務めです。神様にお仕えし、神様の救いの御業にお仕えするのであります。

  第二には、教会は一人一人が組み合わされるということです。16節に「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」とあります。これも、キリストの救いの御業に仕える為です。
洗礼によって、私共は神の民の一員とされました。神の民とは、神様の救いに与る民であるということですが、同時に、神様の救いの御業に仕える為に立てられた民ということです。

  7節には「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と記されています。
私共にはそれぞれ、相応しい賜物が与えられている。与えられている賜物は、神様からの恵みであり、それはキリストの救いの御業にお仕えする為に用いられ、ささげられる、というのであります。

第三のことですが、それは、教会は成長するということです。
教会の成長とは、キリストの御人格がそこに現れる交わりとなっていくということです。それは、私共一人一人の人格がそのように成熟していくという面もありますけれど、それ以上に、この教会における交わりがキリストの御人格を表すようになるということです。

13節を見ますと、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」とあります。「成熟した人間」、これは「完成された人間」という意味もあります。
わたしたちが組み合わされ、一つとなって、一人の成熟した人間となるというのです。

  この完成された、成熟した人間とは、主イエス・キリストを指しています。つまり、私共がキリストの満ちあふれる豊かさ、それを現す交わり形作るようになる。その交わりの中で、私共一人一人がキリストの御業にお仕えしている。私共の信仰・愛・人格も成熟していくということです。

  キリストが恵みと賜物を与えてくださいました。賜物を分け与え、それを委ねてくださったのであります。そうだとすれば、キリストがわたしどもを信じてくださった、ということでありましょう。わたしどもがふさわしいからというのではありません。キリストが全責任を負って、委ねてくださったのです。全責任を負って、私たちを信じてくださいます。