1/29礼拝説教より

 

 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

(ヨハネによる福音書1章48節)

ナタナエルがキリストに出会って、弟子とされます。
このナタナエルのことは、謎に包まれています。しかし、この謎に包まれた人物はキリストにはよく知られていたのでした。

ナタナエルが自分を知っているよりも以上に、主イエスが彼を良く知っておられたということです。勿論、友人のフィリポがナタナエルを知る以上にであります。

主はこう仰せになりました。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」


「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」 

木の下で、ナタナエルは何をしていたのでしょうか。聖書の言葉を思いめぐらしていたようです。イスラエルの復興を待ちつつ、祈っていたのでしょう。その姿を主は御覧になっておられた。

しかし、主がこのとき見ておられたのは、それだけのことではありませんでした。ナタナエルが待っていたイスラエルの復興、それが実現し、彼がその祝福に与っている、与るであろうその姿を、すでに、主イエスは見ておられたのでした。

「いちじくの木の下にいる」とは比喩、譬でもあります。世の終わりの様子が、その比喩によって語られています。

ミカ書4章4節には、このような言葉が記されています。
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。」
いちじくの木は大きな葉がしげります。日差しのきつい地方ですから、弱っていた命が、その木陰に入りますと、息を吹き返すことになる。終わりの時の、命の充実が、そのように比喩として語られています。

同じように、ゼカリヤ書3章10節には次のように書かれています。
「その日には、と万軍の主は言われる。
あなたたちは互いに呼びかけて
ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」
その日とは、やはり終わりの日のことです。もしかしたら、互いに敵対し、争っていたかも知れません。平和を失っていたお互いが、しかし、その日には、互いに呼びかけてぶどうといちじくの木陰に招き合う。神の平和、そのご支配のもとに集うというのです。

主イエスは「いちじくの木の下にいるのを見た」と仰せになって、すでに、ナタナエルが神の民の復興と平和とを享受している。救われている。その姿を、先取りして見ておられる、そのことを伝えています。


 

ナタナエルは主の弟子になりました。

彼は自分から主の弟子となったのではありません。主がお選びになったのでありました。そして、主は、この人々が自分について知っていることよりももっと良く、彼らのことを前もって知っておられ、予め見ておられる。

それが、弟子とされる、主がわたしたちを弟子としてくださった、ということだと聖書は語っています。