2/12礼拝説教より

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

(マルコによる福音書14章36節)

「杯」とは、もともとは、神が私たちに与えてくださる救いを祝うものです。
旧約聖書詩篇116篇に「わたしは救いの杯をあげて、主の名を呼ぶ」と歌われています。神は人間との間に真実の交わりが回復し、そのしるしとして特別な杯を用意される。その救いの杯をあげて、主の名を呼ぶ。主を礼拝する、と歌うのです。

しかし、この時、「この杯」を主イエスは過ぎ去らせ、取りのけてくださいと、父なる神に訴え願っておられるのであります。それは、主イエスにとって「この杯」は十字架を意味していたからです。神は、その独り子を十字架に渡すことによって、私たち人間をお救いになる。主イエスは、その十字架を引き受けるべき時を迎えようとしておられました。


『主イエスは、ご自分の祈りに対する神の答えを、三人の弟子たちが眠りこけている姿の中に、聞き取ったのではないか。』

これは、ある人の言葉です。「この杯を取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この祈りに、直接には、答えがありません。しかし、この祈り対する、神の答えがあった。それは、三人の弟子たちが眠りこけている、その姿の中に聞き取られたのだ、というのです。

 


「心は燃えても、肉体は弱い」

心と翻訳されている言葉は、霊、という言葉です。「燃える」とは「前に向いている」という言葉です。ですから、神の霊は前進する。留まっていないで前へ前へと進むということです。神の霊は、その定めたことをやり抜こうとして、前へ進む。それに対して、肉体は弱い。その「肉体」とは「肉」という言葉です。人間全体を指す言葉です。人間は、弱い。ただ弱いというだけではありません。神に背いている人間の姿を映し出しています。

ですから、「心は燃えても、肉体は弱い」という主イエスのお言葉は、「神の霊は前進し、人の肉は逆らってしまう。」そう、理解すべきであります。

その点で、三浦綾子さんは、すこし誤解をしておられるのかも知れませんが、その著書の中で、肉体に非情さ(有情の反対で、いつくしみを見失ってしまって、心か固まってしまうこと)を見て取って、「わたしの胸にあたたかく呼びかけるのを、今日まで私は幾度か経験して来た。なんと、深い人間洞察の言葉であろうか。」と記しておられます。


「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして、祈っていなさい。」

目を覚ましてとは、じっと見つめるということです。何を見つめていればよいのでしょうか。二つのことがあると思います。

一つは、弟子たち自身の弱さです。もう一つは、主が祈っていてくださるお姿。その極みは十字架です。この二つのことです。