2/5礼拝説教より

「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」

(エフェソの信徒への手紙1章11節)

口語訳聖書では、「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさる方の目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」と翻訳されていました。

選らばれた、と翻訳されておりましたので、神の選びということについて学ぶ時に、この11節が取り上げられるのであります。約束されたものの相続者とされた、とは、選ばれて神の民とされたということです。そして、12節を見ますと、私たちが相続者とされ、神の民として選ばれたのは、神の栄光をほめたたえる者となるためである。そう記されています。


 

「選び」ということから、誤解してならないことがあります。

それは、神の「選び」はすでに予定されており、決定づけられている、そして、神によって選ばれた人と選ばれていない人が定まっていて、私たちの目から見て、この人たちは選ばれ、かの人たちは選ばれていない、と考えてしまうということです。

 

私たちの罪に対して、それを上回る神の恵みを信じる信仰から、受けとめていることであります。「わたしのような罪人が、なぜ救われたのだろうか。なぜそんなことがありえたのだろうか」と問うならば、自分には救われる根拠も資格も何もないことに気が付かされます。救われるはずがないのに、しかし、救われ、赦されるべきでないのに赦された。神が私を選び、救いへと定めてくださったとしか言えない。

これが、選びの信仰であります。


日本基督教団「信仰の手引き」は「神の恵みの選び」と言い表しています。

「天地創造以前の永遠の昔から、神はわたしたち一人一人を愛し、御子イエス・キリストのみ体なる教会に連なる者として、一方的に救いの恵みの中へと選ばれた、ということです。それはひとえに神の恵みによるものなので、「恵みの選び」と呼びます。」

ですから、「神の選び」とは、すでに救いにあずかった者の感謝の告白なのであります。私たちの救いの根拠は、神ご自身の圧倒的なご意志にあります。そしてここに、救いの確かさがあります。

私たちは神に向かって手を伸ばします。しかし私たちの手が神にまで届くわけではありません。私たちの力で神にしがみついていられるわけでもありません。私たちではなく、神が私たちにまで御腕を伸ばし、私たちをその御手にしっかりと握りしめていてくださるのであります。

ですから、もし信じない人がいるなら、そこで私たちが問うべきなのは、この人には神の選びがないのではないか、あるいはあるのだろうかと問うのではなく、私たち自身がその人に神の恵みを、いかにして豊かに伝えることができるか、ということでありましょう。