2/19礼拝説教より

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなた方はわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するたである」

マルコによる福音書14章48節

弟子の一人でしょうか、居合わせたひとりが、剣をふりかざして反撃し、大祭司の手下の耳を切り落としたのです。その時、主イエスが言われたのでした。そして、捕らえようとしてきた人々の手にご自分を引き渡されるのでありました。

 


「『先生』と言って接吻した。」

ユダは主イエスに接吻します。接吻は、尊敬と愛と交わりのしるしですが、それを、裏切りの合図としたのでした。

このユダについて、聖書は「12人の一人であるユダ。」と呼んでいます。ユダを説明する言葉として、福音書は執拗にこの言葉を用いています。それは、主イエスに最も近い弟子たちの中から、主が最も力を入れて育てたサークルのなかから、裏切る者が出たということ。人間の弱さがそのようにして現れたということを、わたしたちに繰り返し繰り返し思い知らせるためでありましょう。

おそらく、マルコ福音書を最初に読んだ教会のひとびとも、自分のこととして、このユダのことを心に留め、自分を見つめたのではないかと思います。そのようにして、憐れみを乞いつつ、主の前に歩んだ。そう思います。


それは実は、勇気のないことの最初の証拠というべきでしょう。

渡辺信夫氏の剣を抜いたペトロについての言葉です。そして、こう付け加えておられます。「キリスト者に要求される勇気は、剣を抜いて切りかかるような勇気ではありません。苦悩と屈辱を主キリストとともに受ける勇気であります。それは柔和であります。一見したとろこ勇気のようには思えないかもしれない。しかし、これが、本物の勇気です」

人間の弱さを見つめるようにと、ここでも、念を押すように、ユダの姿、弟子たちの姿を記しています。そして、主イエス・キリストは、これらの人々に囲まれて、ご自分を捕らえようとしてやってきた人々の手にご自身を渡し、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」と仰せになったのでありました。