2/26礼拝説教より

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

マルコによる福音書15章61節

サンヒドリンでの裁判です。大祭司は主イエスに問いました。

すると、ご自分をキリストであると言明することを避けてこられた主イエスは、ここで初めて「そうです」と応え、自ら、神の子、メシア、キリストである、と表明されたのでした。

なぜ、ここにいたって表明なさったのでしょうか。それは、もはや、ご自分がキリストであるということを明言されても、誤解される心配がなくなっていた、ということでありましょう。十字架に引き渡されるということは、はっきりしている。もう間違えられることはありません。


今日の箇所で、心に留めたい二つのことがあります。

一つは、58節で、主は「手で造らない別の神殿を建てて見せる」とお語りになっておられることです。

もう一つは、61節の最初に「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」と短く記されていることです。


ここで、主イエスの言われる神殿とは、ヘロデの神殿のごとき建物を指しているのではありませんで、終わりのときの救われた共同体を指しています。

最初の教会の人々が、自分たち自身を、この「手で造らない」新しい神殿と理解したのは、疑いえないことであります。

そして、わたしたちの教会もまた、十字架と復活の主イエスによって立てられた、人の手によらないということを深く心に刻み込んでおきたいと思うのです。


主イエスの沈黙に思いを向けましょう。

英語の聖書の多くは、ここを「平安を携えていた」とか「平安を保ちつづけて」と訳しています。主イエスは父なる神と結ばれて平安の中におられたというのです。岩のごとくに確かな神の御心に主イエスは結ばれています。


被告席で

大祭司カヤパの家で、神の子が被告席におりました。主イエスは罪に定められたのです。

しかし、この被告席にいる主イエスにおいて、神は人間の罪に対して特別な計らいをなさったのでした。主イエスの沈黙は、そのことを示していました。

そして、人は、神が人間の罪をどのように扱うかを、ここに見ることになったのであります。